南郷街道
茨城県北部は中世「常陸奥七郡」と呼ばれ、源氏の佐竹氏が最初に制した場所だ。
源平合戦に向かう前の頼朝の攻撃にも山奥に逃げ込みしぶとく生き残った。
またその後世継ぎ問題で、本流が上杉氏(藤原系)からの養子縁組することに反発した、佐竹氏他派との内乱が100年間も続いたが、最後に常陸国を制した佐竹氏が戦国を生き残ったのはこの奥七郷という地形が幸いしたことは間違いないだろう。
水戸の北、「常陸太田」の北部は、北から南に流れる3本の川(東から里川、山田川、久慈川)があり、その両側は茨城としてはかなり険しい山が続いている。
七郡の呼び名は、この2つの川と、日立市の旧助川と水戸を流れる大きな那珂川を含めた5本の川の両側と挟まれた地域を郡名で7つに分け表現したものだ。
これは前に書いたブログ、下記を参照ください。
⇒ 常陸国における源平合戦(12) 奥七郡(佐竹氏の根拠地)
そして、常陸太田から北に向かう里川沿いの街道を棚倉街道といい、常陸大宮から久慈川沿いを北に向かい街道が南郷街道と呼ばれている。
この2つが主要な街道であった。
里川沿いの棚倉街道がその中でも物資を運ぶのには適していたようで、現在の国道349号線沿いの山脈麓にその昔の道が散見される。
一方常陸大宮から北へ久慈側沿いには現在国道118号とJR水郡線が走っている。
ここに昔の物資輸送のルートとして「南郷街道」と呼ばれる道があったのだが、一部は水郡線建設で消え、また里側沿いよりも山が入り組んでおり、現在の国道とは少しはなれた山や峠越えの道も混じっていて、分りづらくなっている。
今回山方宿にある「御城(みしろ)展望台」に上る道の途中にこの南郷街道の案内板が置かれていたので、これを紹介します。


このお城への上り口に看板は置かれていたが、脇に結構狭そうな道もあり、実際にどのような道だったのかは想像するしかない。
ただ、ここは現在の国道がトンネルとなっている箇所でもあり、川沿いには道が無かったと思われる。
この南郷街道は、里川沿いの棚倉街道と棚倉手前で合流する。
昔はこの棚倉が東北方面への一つの街道の要となっていたと思われる。
佐竹氏による南方三十三館仕置きで、一挙に南方の常陸の平氏一族を滅ぼした事件の痕跡を探していて、この南郷街道沿いの佐竹派家臣にあづけられれ殺されたのが、山方宿で「鹿島氏親子」、その先の小川氏(上小川の頃藤城)で「島崎氏親子」がいる。
常陸太田からどのようにこの佐竹氏家臣の城へ送られたのか?
どのような形で送られたのか?
どのような道を通ってそこへ行ったのか?
上小川の頃藤城から先の常陸大子へは、この南郷街道は今の久慈川沿いは山が迫り出していて、久慈川沿いは避け、上小川から西へ4~5kmほど栃原方面へ行き、そこから峠越えして行ったようであり、こんな山や峠を越えて昔の人は良く歩いたものだと感心してしまう。
戦国時代も結構多くの婚姻関係が結ばれており、調べていくとそのおくられた先はそこから嫁を貰ったりして、姻戚関係にある事が多い。
殺す方も、殺された方も戦国時代でなければそのようなことはなかったはずである。
何かやるせない気もする。
しかし、殺してしまってもその後に、墓(五輪塔)を建てたり、丁寧に弔ったことが報告されている事が救いである。
歴史を学ぶとは何か・・・・・・・・ このような細かな事にも眼を向けていきたいとおもう。
源平合戦に向かう前の頼朝の攻撃にも山奥に逃げ込みしぶとく生き残った。
またその後世継ぎ問題で、本流が上杉氏(藤原系)からの養子縁組することに反発した、佐竹氏他派との内乱が100年間も続いたが、最後に常陸国を制した佐竹氏が戦国を生き残ったのはこの奥七郷という地形が幸いしたことは間違いないだろう。
水戸の北、「常陸太田」の北部は、北から南に流れる3本の川(東から里川、山田川、久慈川)があり、その両側は茨城としてはかなり険しい山が続いている。
七郡の呼び名は、この2つの川と、日立市の旧助川と水戸を流れる大きな那珂川を含めた5本の川の両側と挟まれた地域を郡名で7つに分け表現したものだ。
これは前に書いたブログ、下記を参照ください。
⇒ 常陸国における源平合戦(12) 奥七郡(佐竹氏の根拠地)
そして、常陸太田から北に向かう里川沿いの街道を棚倉街道といい、常陸大宮から久慈川沿いを北に向かい街道が南郷街道と呼ばれている。
この2つが主要な街道であった。
里川沿いの棚倉街道がその中でも物資を運ぶのには適していたようで、現在の国道349号線沿いの山脈麓にその昔の道が散見される。
一方常陸大宮から北へ久慈側沿いには現在国道118号とJR水郡線が走っている。
ここに昔の物資輸送のルートとして「南郷街道」と呼ばれる道があったのだが、一部は水郡線建設で消え、また里側沿いよりも山が入り組んでおり、現在の国道とは少しはなれた山や峠越えの道も混じっていて、分りづらくなっている。
今回山方宿にある「御城(みしろ)展望台」に上る道の途中にこの南郷街道の案内板が置かれていたので、これを紹介します。


このお城への上り口に看板は置かれていたが、脇に結構狭そうな道もあり、実際にどのような道だったのかは想像するしかない。
ただ、ここは現在の国道がトンネルとなっている箇所でもあり、川沿いには道が無かったと思われる。
この南郷街道は、里川沿いの棚倉街道と棚倉手前で合流する。
昔はこの棚倉が東北方面への一つの街道の要となっていたと思われる。
佐竹氏による南方三十三館仕置きで、一挙に南方の常陸の平氏一族を滅ぼした事件の痕跡を探していて、この南郷街道沿いの佐竹派家臣にあづけられれ殺されたのが、山方宿で「鹿島氏親子」、その先の小川氏(上小川の頃藤城)で「島崎氏親子」がいる。
常陸太田からどのようにこの佐竹氏家臣の城へ送られたのか?
どのような形で送られたのか?
どのような道を通ってそこへ行ったのか?
上小川の頃藤城から先の常陸大子へは、この南郷街道は今の久慈川沿いは山が迫り出していて、久慈川沿いは避け、上小川から西へ4~5kmほど栃原方面へ行き、そこから峠越えして行ったようであり、こんな山や峠を越えて昔の人は良く歩いたものだと感心してしまう。
戦国時代も結構多くの婚姻関係が結ばれており、調べていくとそのおくられた先はそこから嫁を貰ったりして、姻戚関係にある事が多い。
殺す方も、殺された方も戦国時代でなければそのようなことはなかったはずである。
何かやるせない気もする。
しかし、殺してしまってもその後に、墓(五輪塔)を建てたり、丁寧に弔ったことが報告されている事が救いである。
歴史を学ぶとは何か・・・・・・・・ このような細かな事にも眼を向けていきたいとおもう。
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