伊東甲子太郎の顕彰碑
石岡の隣町のかすみがうら市志筑(しづく)地方は、石岡市の恋瀬川をわたったすぐ隣り合わせにある。
志筑は常陸国の佐竹氏が出羽(秋田)に転封となって、かわりに秋田から常陸国に国替えで来た氏族の一つだ。
元々1万石に満たない石数で、藩にはならなかったが、明治維新直前に加増されて「志筑藩」となった。
藩主は本堂氏で、江戸に大名としていたが貧乏だといわれ、財政的にはかなり厳しかったという。
そんな中、この志筑藩から新選組で活躍した伊東甲子太郎と鈴木三樹三郎の兄弟を輩出した。
ただこの兄弟は藩から脱藩しており、藩とは縁を切ったとおもうが、結構新選組では名前を知られ、結構多くの人が訪れるとみえ、最近この「伊東甲子太郎」の顕彰石碑が建てられたことを最近知った。

場所は以前志筑小学校が建っていた場所。
長興寺の上の高台。
ここには昔の志筑城があった場所だ。

伊東甲子太郎は、近藤勇にだまされ、酒によって帰宅途中の油小路で慶応3年末に暗殺されてしまう。
千葉道場でかなりの腕前だったようだが、近藤勇達と意見が合わなくなったようだ。
弟の鈴木三樹三郎は後から駆けつけ待ち伏せされたが、なんとか薩摩屋敷に逃げ込んで助かったとされる。

熱狂的な新選組ファンも多いらしい。

私はあまり新選組には興味を持っていないので、今回はこんな場所も出来たという紹介だけにしておこう。
この石碑と案内板及び、木箱の中に解説のパンフや志筑地方の文化財パンフなどが入っている。
その裏側に昔の志筑城跡の石碑がある。

こちらが旧小学校の入口門

門の横には昔から「志筑城」の説明板が置かれている。

どういうわけか、中の大きな木の裏側に昔風の赤い丸ポストがぽつんと置かれていました。
ただ集配時間などの記載はありませんので、現在は使われていないようです。
志筑は常陸国の佐竹氏が出羽(秋田)に転封となって、かわりに秋田から常陸国に国替えで来た氏族の一つだ。
元々1万石に満たない石数で、藩にはならなかったが、明治維新直前に加増されて「志筑藩」となった。
藩主は本堂氏で、江戸に大名としていたが貧乏だといわれ、財政的にはかなり厳しかったという。
そんな中、この志筑藩から新選組で活躍した伊東甲子太郎と鈴木三樹三郎の兄弟を輩出した。
ただこの兄弟は藩から脱藩しており、藩とは縁を切ったとおもうが、結構新選組では名前を知られ、結構多くの人が訪れるとみえ、最近この「伊東甲子太郎」の顕彰石碑が建てられたことを最近知った。

場所は以前志筑小学校が建っていた場所。
長興寺の上の高台。
ここには昔の志筑城があった場所だ。

伊東甲子太郎は、近藤勇にだまされ、酒によって帰宅途中の油小路で慶応3年末に暗殺されてしまう。
千葉道場でかなりの腕前だったようだが、近藤勇達と意見が合わなくなったようだ。
弟の鈴木三樹三郎は後から駆けつけ待ち伏せされたが、なんとか薩摩屋敷に逃げ込んで助かったとされる。

熱狂的な新選組ファンも多いらしい。

私はあまり新選組には興味を持っていないので、今回はこんな場所も出来たという紹介だけにしておこう。
この石碑と案内板及び、木箱の中に解説のパンフや志筑地方の文化財パンフなどが入っている。
その裏側に昔の志筑城跡の石碑がある。

こちらが旧小学校の入口門

門の横には昔から「志筑城」の説明板が置かれている。

どういうわけか、中の大きな木の裏側に昔風の赤い丸ポストがぽつんと置かれていました。
ただ集配時間などの記載はありませんので、現在は使われていないようです。
伊東甲子太郎は、鈴木姓でした。父が藩を脱藩して塾をやっていましたが、兄弟そろって剣術稽古をしていたと聞きます。
そして江戸の剣術道場「伊東道場」に入門し、腕を見込まれて伊東姓となったようです。
伊東先生が伊東甲子太郎とつながるかどうかは私にはわかりません。ちなみに弟の鈴木三樹三郎は晩年は石岡に住み、ご子孫などは石岡におられます。