玄蕃山(その2)
先日「天狗湯」関連で、ブログに読者からコメントをいただき、銚子の玄蕃(ゲンバ)山という場所に何かがありそうだと散策をしてみようと思い立ったのですが・・・・
これが思ったより難題を与えられたようで、奥が深そうです。わたしの手に負えるかどうか・・・・。
一般的な地図にはこの玄蕃山の表記がなく、これまでこの名前を聞いても場所が良くわからなかったのですが、国道を銚子電鉄に沿って東に進むと、飯沼観音のあるところの信号を過ぎて、犬吠崎方面に向かうと、銚子電鉄の踏切を渡ります。
この踏切の手前の左側が浅間山で、これは前回書いたように3つの神社(浅間神社・愛宕神社・天満宮)が一緒に祀られています。
さて、玄蕃山というのは、この踏切を渡る手前の右手側、手前に公園があり、その奥の林(小山)です。
そしてその奥に「飯沼小学校」があります。
まあ何ということもない荒れた林のような山です。
でも、銚子電鉄が出来る前は、たぶんこちら側の浅間山と続いていた小山で、こちら側には「アタゴ」があったのだと思われる雰囲気です。
まあ、今も先ほど書いた踏切を渡って、直ぐ右手の上には「愛宕神社」が祀られています。
ただ、後ほど紹介しますが、この銚子電鉄が施工された後に後から建てらえたのではないかと思われます。
なにしろこの線路の南側は結構広い範囲で住所は「愛宕町」となっている地域なのです。
天狗湯は愛宕町より北側ですが、寅吉たちは、恐らくこの南東側のこんもりした森を愛宕山と理解していたようなのです。
ここで少し愛宕神社に付いて考えて見たいと思います。
愛宕さんといえば、京都の愛宕山ですよね。この位置を地図で見てみましょう

京都の人は西の愛宕山、東の比叡山と二つの山を特に意識して眺めているようです。
この2つの山はほとんど同じ高さなのです。(愛宕山:924m、比叡山:848m)
京都の町から北東(鬼門の方向)に、比叡山があり、この方向を延ばしていくと、琵琶湖北岸の長浜に多くの寺院跡が残されている己高山があり、その先に山岳信仰の霊地「白山」があります。

この白山信仰を広めたのは泰澄といわれています。
歴史上の気になる人物(3)-泰澄(たいちょう) ⇒ こちら
また、こちらも関係しているかもしれないので
歴史上の気になる人物(1)- 役小角(えんのおづぬ) ⇒ こちら
でも、天狗といえば愛宕山なのです。嵐山の渡月橋から西北に見える山です。
この京都の愛宕山には一番天狗?の「太郎坊」天狗がいるといわれています。
京都の愛宕神社HPを除いてみましょう。神社の由緒によると
「その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。
その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられます。早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられました。神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していましたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。」
と書かれていました。
まあ、この内容については縁起ですので、何処まで信憑性があるかはわかりません。今はこのように書かれているという事にしておきます。
私が京都の愛宕山と聞いて、頭に浮かぶのは平家物語に出てくる「一条戻橋の鬼女」の話です。
この話しは後に能の演目になった「羅城門(羅生門)」の話しの元になったといわれるものです。
(参考文献:福娘童話集 > 日本のこわい話(百物語) 百物語 第82話 ⇒ こちら)
ただし、上記の参考文献は途中で終わっていますが、その後陰陽師の安倍晴明もでてきますので、興味のある方は検索して探してみてください)
ただ、ここでは鬼女が渡辺綱を愛宕山に連れて行こうとしています。鬼女は愛宕山に住んでいたことになります。
後の能の演目「羅城門」では羅城門(羅生門)に鬼が住んでいたとなっています。
当時の愛宕山は今と同じようにその近隣の町の「火防」として祀られているのは同じなのですが、鬼(一部で土蜘蛛)が住んでいたり、天狗が飛び回っていたりしていたようです。
もっとも天狗が火を消すという話と、火事の火の中で天狗が走り回っていたり、いろいろな話がありますね。
(参考:甲子夜話 三篇 巻之67 〔10〕 天狗が走りて火を引く、妖魔を見た者語る ⇒ こちら)
さて、銚子の玄蕃山ですが、地元でも今の若い方はあまりご存じないようですが、ある程度年配の方はこの一帯を「田中玄蕃」という方の住んでおられた場所で、銚子で最初に醤油製造を始めた「ヒゲタ醤油」の創業者がいたところだと知っておられるようです。
だから「玄蕃さま」といえばこの田中玄蕃とすぐに頭に浮かぶようです。
ここで、ヒゲタ醤油のHPを見てみましょう。
○ 創業:1616(元和2年)第三代田中玄蕃が、銚子でたまりしょうゆの製造販売を開始(ヒゲタ醤油の創業)
○ 玄蕃蔵物語:ヒゲタしょうゆの醸造を、下総銚子の地で始めたのは田中玄蕃(げんば)という人である。
元和2年(1616年)、・・・・土地の有力者であった田中玄蕃は、西の宮の真宣九郎右衛門(さなぎくろうえもん)という人にすすめられて醤油を醸造するようになったと伝えられている。
はじめは、大豆を主原料とした、「大極上々溜醤油」と称していたが、元禄時代に、第五代田中玄蕃が江戸の食味に合うように醸造法を改良(小麦の活用、米麹の利用など)して、現在の関東濃口しょうゆの基礎が出来上り、江戸庶民の食生活にヒゲタしょうゆが愛用されるようになった。銚子を母に江戸を父に育てられた関東最古の醤油蔵として、しょうゆ造りの原点にたち帰ると共に、ヒゲタの創始者に感謝し、その名を後世に伝えてゆくために、・・・第十二代濱口吉右衞門社長の提案のもとに、関連部門の担当者が集まり検討を開始したのは、平成元年(1989年)の秋であった。 製品のコンセプトは、往時の「造り」を現代の技術と設備で再現してみるということにした。(玄番蔵は毎年九月九日の重陽の節句に蔵出しされる)
と書かれていた。
ところで、この会社のHPでは第3代田中玄蕃が創業者と書かれているが、デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク によれば、田中玄蕃(初代)のページには次のように書かれている。
「江戸時代前期の醤油(しょうゆ)醸造家。
下総(しもうさ)海上郡飯沼村(千葉県銚子市)の名主。摂津西宮(兵庫県)出身の酒造家真宜(さなぎ)九郎右衛門から関西の溜(たまり)醤油の製法を伝授され,元和(げんな)2年(1616)醸造を開始。江戸本船町の真宜の支店で販売,現在のヒゲタ醤油の始祖となる。石橋源右衛門と名のっていたが,承応(じょうおう)4年(1655)田中玄蕃と改名。」
さて、これによれば石橋源右衛門という銚子の名主が醤油つくりをはじめ、1655年に「田中玄蕃」と改名したとなっている。
という事は、江戸?で田中玄蕃という名士がいて、その名前を受け継いで3代目となったのかもしれません。
戦国時代から江戸時代は、いわゆる役職をその人の名前のように呼ぶことが一般的になっていました。
たとえば吉良上野介は義央(よしひさ?)という名前であったが、一般には「上野介(こうずけのすけ)」で呼ばれ、そちらが正式な名前のようになっていたのです。
私の住んでいる茨城県石岡市は、もと常陸府中藩で、藩主は江戸の小石川にいた。水戸の松平家(徳川家)の親戚であるので常陸の領地には殆んど来ない。小石川の地元では播磨守であるので「播磨(はりま)様」と呼ばれていた。
この場所は今は「播磨坂」と呼ばれる桜の名所になっています。
このように正式に役職を任命されて、その名をつけていた人物以外にも結構昔の官職を自分の名前につけていた人々がいたらしい。
特に官職でも下部組織の役職はそのうちに任命もされないから勝手に名乗ってものあまり問題とはならなかったようだ。
さて、「玄蕃(げんば)」というのは、実は昔の役職名で 「玄」は僧侶、「蕃」は海外からの人をもてなす職をさし、遣唐使などの時代には唐からの人をもてなす役職で、当然言語は漢字文化であり、理解出来るのは僧侶に限られたのであろう。
石橋を田中としたのには、別に何か理由があったものと思うが、今のところ良くわからない。
今は分からないが、メモとして残しておけば、其の内情報も入るかもしれない。
また、天狗湯の場所を提供した「西広重源」という人物と聞いているのだが、こちらも記録では分らない。
ただ、西広家は和歌山からやって来て、銚子で金貸しから敷地を広げ、船の網元からイワシ漁、缶詰加工などで財を成して行った西広家の人物の一人ではないかと考えられます。また重源は奈良東大寺を再興した「重源(ちょうげん)上人」と同じ名前であり、これも僧侶の名前であったのかもしれません。
また長くなってしまいましたのでこの玄蕃山を少し散策した記事は次に書きます。
玄蕃山(その1)は ⇒ こちら
これが思ったより難題を与えられたようで、奥が深そうです。わたしの手に負えるかどうか・・・・。
一般的な地図にはこの玄蕃山の表記がなく、これまでこの名前を聞いても場所が良くわからなかったのですが、国道を銚子電鉄に沿って東に進むと、飯沼観音のあるところの信号を過ぎて、犬吠崎方面に向かうと、銚子電鉄の踏切を渡ります。
この踏切の手前の左側が浅間山で、これは前回書いたように3つの神社(浅間神社・愛宕神社・天満宮)が一緒に祀られています。
さて、玄蕃山というのは、この踏切を渡る手前の右手側、手前に公園があり、その奥の林(小山)です。
そしてその奥に「飯沼小学校」があります。
まあ何ということもない荒れた林のような山です。
でも、銚子電鉄が出来る前は、たぶんこちら側の浅間山と続いていた小山で、こちら側には「アタゴ」があったのだと思われる雰囲気です。
まあ、今も先ほど書いた踏切を渡って、直ぐ右手の上には「愛宕神社」が祀られています。
ただ、後ほど紹介しますが、この銚子電鉄が施工された後に後から建てらえたのではないかと思われます。
なにしろこの線路の南側は結構広い範囲で住所は「愛宕町」となっている地域なのです。
天狗湯は愛宕町より北側ですが、寅吉たちは、恐らくこの南東側のこんもりした森を愛宕山と理解していたようなのです。
ここで少し愛宕神社に付いて考えて見たいと思います。
愛宕さんといえば、京都の愛宕山ですよね。この位置を地図で見てみましょう

京都の人は西の愛宕山、東の比叡山と二つの山を特に意識して眺めているようです。
この2つの山はほとんど同じ高さなのです。(愛宕山:924m、比叡山:848m)
京都の町から北東(鬼門の方向)に、比叡山があり、この方向を延ばしていくと、琵琶湖北岸の長浜に多くの寺院跡が残されている己高山があり、その先に山岳信仰の霊地「白山」があります。

この白山信仰を広めたのは泰澄といわれています。
歴史上の気になる人物(3)-泰澄(たいちょう) ⇒ こちら
また、こちらも関係しているかもしれないので
歴史上の気になる人物(1)- 役小角(えんのおづぬ) ⇒ こちら
でも、天狗といえば愛宕山なのです。嵐山の渡月橋から西北に見える山です。
この京都の愛宕山には一番天狗?の「太郎坊」天狗がいるといわれています。
京都の愛宕神社HPを除いてみましょう。神社の由緒によると
「その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。
その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えられます。早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられました。神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していましたが、明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。」
と書かれていました。
まあ、この内容については縁起ですので、何処まで信憑性があるかはわかりません。今はこのように書かれているという事にしておきます。
私が京都の愛宕山と聞いて、頭に浮かぶのは平家物語に出てくる「一条戻橋の鬼女」の話です。
この話しは後に能の演目になった「羅城門(羅生門)」の話しの元になったといわれるものです。
(参考文献:福娘童話集 > 日本のこわい話(百物語) 百物語 第82話 ⇒ こちら)
ただし、上記の参考文献は途中で終わっていますが、その後陰陽師の安倍晴明もでてきますので、興味のある方は検索して探してみてください)
ただ、ここでは鬼女が渡辺綱を愛宕山に連れて行こうとしています。鬼女は愛宕山に住んでいたことになります。
後の能の演目「羅城門」では羅城門(羅生門)に鬼が住んでいたとなっています。
当時の愛宕山は今と同じようにその近隣の町の「火防」として祀られているのは同じなのですが、鬼(一部で土蜘蛛)が住んでいたり、天狗が飛び回っていたりしていたようです。
もっとも天狗が火を消すという話と、火事の火の中で天狗が走り回っていたり、いろいろな話がありますね。
(参考:甲子夜話 三篇 巻之67 〔10〕 天狗が走りて火を引く、妖魔を見た者語る ⇒ こちら)
さて、銚子の玄蕃山ですが、地元でも今の若い方はあまりご存じないようですが、ある程度年配の方はこの一帯を「田中玄蕃」という方の住んでおられた場所で、銚子で最初に醤油製造を始めた「ヒゲタ醤油」の創業者がいたところだと知っておられるようです。
だから「玄蕃さま」といえばこの田中玄蕃とすぐに頭に浮かぶようです。
ここで、ヒゲタ醤油のHPを見てみましょう。
○ 創業:1616(元和2年)第三代田中玄蕃が、銚子でたまりしょうゆの製造販売を開始(ヒゲタ醤油の創業)
○ 玄蕃蔵物語:ヒゲタしょうゆの醸造を、下総銚子の地で始めたのは田中玄蕃(げんば)という人である。
元和2年(1616年)、・・・・土地の有力者であった田中玄蕃は、西の宮の真宣九郎右衛門(さなぎくろうえもん)という人にすすめられて醤油を醸造するようになったと伝えられている。
はじめは、大豆を主原料とした、「大極上々溜醤油」と称していたが、元禄時代に、第五代田中玄蕃が江戸の食味に合うように醸造法を改良(小麦の活用、米麹の利用など)して、現在の関東濃口しょうゆの基礎が出来上り、江戸庶民の食生活にヒゲタしょうゆが愛用されるようになった。銚子を母に江戸を父に育てられた関東最古の醤油蔵として、しょうゆ造りの原点にたち帰ると共に、ヒゲタの創始者に感謝し、その名を後世に伝えてゆくために、・・・第十二代濱口吉右衞門社長の提案のもとに、関連部門の担当者が集まり検討を開始したのは、平成元年(1989年)の秋であった。 製品のコンセプトは、往時の「造り」を現代の技術と設備で再現してみるということにした。(玄番蔵は毎年九月九日の重陽の節句に蔵出しされる)
と書かれていた。
ところで、この会社のHPでは第3代田中玄蕃が創業者と書かれているが、デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク によれば、田中玄蕃(初代)のページには次のように書かれている。
「江戸時代前期の醤油(しょうゆ)醸造家。
下総(しもうさ)海上郡飯沼村(千葉県銚子市)の名主。摂津西宮(兵庫県)出身の酒造家真宜(さなぎ)九郎右衛門から関西の溜(たまり)醤油の製法を伝授され,元和(げんな)2年(1616)醸造を開始。江戸本船町の真宜の支店で販売,現在のヒゲタ醤油の始祖となる。石橋源右衛門と名のっていたが,承応(じょうおう)4年(1655)田中玄蕃と改名。」
さて、これによれば石橋源右衛門という銚子の名主が醤油つくりをはじめ、1655年に「田中玄蕃」と改名したとなっている。
という事は、江戸?で田中玄蕃という名士がいて、その名前を受け継いで3代目となったのかもしれません。
戦国時代から江戸時代は、いわゆる役職をその人の名前のように呼ぶことが一般的になっていました。
たとえば吉良上野介は義央(よしひさ?)という名前であったが、一般には「上野介(こうずけのすけ)」で呼ばれ、そちらが正式な名前のようになっていたのです。
私の住んでいる茨城県石岡市は、もと常陸府中藩で、藩主は江戸の小石川にいた。水戸の松平家(徳川家)の親戚であるので常陸の領地には殆んど来ない。小石川の地元では播磨守であるので「播磨(はりま)様」と呼ばれていた。
この場所は今は「播磨坂」と呼ばれる桜の名所になっています。
このように正式に役職を任命されて、その名をつけていた人物以外にも結構昔の官職を自分の名前につけていた人々がいたらしい。
特に官職でも下部組織の役職はそのうちに任命もされないから勝手に名乗ってものあまり問題とはならなかったようだ。
さて、「玄蕃(げんば)」というのは、実は昔の役職名で 「玄」は僧侶、「蕃」は海外からの人をもてなす職をさし、遣唐使などの時代には唐からの人をもてなす役職で、当然言語は漢字文化であり、理解出来るのは僧侶に限られたのであろう。
石橋を田中としたのには、別に何か理由があったものと思うが、今のところ良くわからない。
今は分からないが、メモとして残しておけば、其の内情報も入るかもしれない。
また、天狗湯の場所を提供した「西広重源」という人物と聞いているのだが、こちらも記録では分らない。
ただ、西広家は和歌山からやって来て、銚子で金貸しから敷地を広げ、船の網元からイワシ漁、缶詰加工などで財を成して行った西広家の人物の一人ではないかと考えられます。また重源は奈良東大寺を再興した「重源(ちょうげん)上人」と同じ名前であり、これも僧侶の名前であったのかもしれません。
また長くなってしまいましたのでこの玄蕃山を少し散策した記事は次に書きます。
玄蕃山(その1)は ⇒ こちら
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