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義人助六(2)

 さて、今日は昨日の続きで、江戸時代におきた百姓一揆「助六一揆」の話である。
皆さんには恐らく興味もないと思うのですが、私にとって、歴史の見方が変ってくる出来事でもありますので、少しばかりお付き合いください。

まず、現地の福田家の前に掲げられた案内板で概要はおわかりになると思います。

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1778年というと江戸中期後半で、10代将軍、徳川家治の時代であります。
私が興味を抱くのは、この志筑(しづく)藩の歴史的な背景です。
常陸の国は戦国時代に源氏の直系「佐竹氏」により統一されましたが、家康の命で秋田へ転封となりました。
そこへ、本堂氏が秋田(出羽国)本堂(美郷郡)からこの志筑の地に8983石から8500石に減封された形でやってきます。2代目の時に500石を分けてしまいますので8000石となります。

この佐竹氏の国替は、関ヶ原の戦いで徳川への態度が曖昧であったためで、これはいわば左遷です。
しかし、この本堂氏は普通ならば多少の上乗せがあってもよいはずです。
しかし、本堂氏はこの地が気に入ったようで、減封でもやってきました。
本堂氏の家紋は源氏直系のしるし「笹竜胆(ささりんどう)」です。

さて、徳川の世では1万石に満たないと大名にはなれませんでした。
そのため、この本堂氏は交代寄合衆の身分(いわゆる旗本です)でしたが、江戸に屋敷を構え、志筑には家老を置き、参勤交代が義務付けられていました。
(一般の旗本は義務ではなかったようですが、本堂氏は寄合衆の中でも上の方で義務となったようです)

また、この地には水戸街道の稲吉宿があり17軒も旅館が並んでおり、この助郷役を科せられ、かなりの負担があったようです。
このため、度々一揆がおこり、何とかなだめてきていたが、この助六一揆の少し前にもたびたび一揆が起こりました。

その時、他領の26ヶ村で200両を集め、これを元にして宿場の人馬を雇う和解が成立します。
しかし、この和解金を財政が厳しい藩は農民には渡さなかったと言います。

とうとう我慢できずに窮状および和解金の返還をもとめて江戸屋敷に直訴に及び、その結果、義にかられての直訴でしたが、当然重罪が科せられました。
裁きは、首謀者福田助六(下佐谷村の与惣左衛門)は獄門さらし首、三人が永牢、二人が手鎖となりました。

しかし、この事件はこの地の郷人にとって、皆に代わって訴えてくれたものであり義人としてたたえられたのです。
またさらし首となった所に水戸藩主が通りかかり、これを不憫に思い、首は福田家に帰され、懇ろに弔われたといいます。

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さて、まだ続きがあります。
この時の本堂氏は、直系がとだえて、大名であった板倉家から当主を迎えていました。
どうもこの変更が藩体制を強化して、農民を締め付けて行ったようです。

本堂氏の志筑が藩となったのは江戸幕府が大政奉還をした後です。
戊辰戦争の功労で2010石加増されて、1万110石となり、大名に列するようになるのですが、廃藩置県は明治4年ですから藩として存続したのは4年くらいです。

さて、興味があるのはこの藩から「伊東甲子太郎」「鈴木三樹三郎」の兄弟がでます。
新撰組などに興味のある方にはよく知られた名前だと思います。
何か江戸末期に藩になりたくて、勤王色を強めて行ったように思います。

身近なところの歴史も背景を読むことも必要ですね。

少し長文になってしまいました。ご容赦を・・・。
 
 

志筑・かすみがうら地区 | コメント(10) | トラックバック(0) | 2011/06/02 20:09
コメント
No title
 Roman様。6月というのに寒い日が続きますね。暑いのが苦手な私には有難いのですが・・。
 さて、以前ホームページで紹介されていた磨崖仏がある閉居山に、かつて、「マハラバ村」という脳性まひ障碍者の共同体があったのをご存じですか?その中心になったのが、願成寺の住職の大仏空(おさらぎあきら)さん。
 2009年春には土浦で、「マハラバ伝説」が劇団態変(たいへん)により上演されました。
 このマハラバ村に深くかかわっていた人物が、
石岡にいたのです。一人は当時のモリコーストアのご主人す。大仏空さんの知り合いで、個人的に支援されてたようです。もう一人は親見産婦人科の院長。(当時金丸に合った病院。わたしもここで生まれてます。)マハラバ村の出産はすべて、親見さんが引き受けてくれたといいます。(断られることが多かったのかもしれませんね)
 マハラバ村があったのは、大変短い期間であり、個人的な付き合いだったようなので、石岡でこのことを知る人はほとんどいないかもし知れません。私もつい最近調べものをしていて偶然知りました。
 大仏空さんの子孫にあたる方が、「マハラバ文庫」というホームページを開いてます。そこに、「助六地蔵和讃」という詩が掲載されてます。

 モリコーというといつも「象さんの滑り台」の話になってしまうので、隠れたエピソードを紹介させていただきました。
Re: No title
べあべあ様
ご連絡ありがとうございます。
このマハラバ村というのはなんとなく聞いています。
しかし実態はあまり分かりませんでしたが、べあべあさんのコメントで少しわかった気がします。
実は先日この助六首塚の見学の後に、この磨崖仏を訪れました。
助六地蔵を見るのが目的ですが、ここにまだ住むという坊さんがいるのかということも少し気になりました。

今は荒れ果てた廃屋が3軒。ブルーシートで囲った小屋が1軒。ありましたが、磨崖仏への登り口に新しくきれいな小屋が1軒出来ていました。
現在どのような活動になっているのかはわかりません。
今回のご連絡いただいたことで少し調べて見たいと思います。
ところで願成寺なる寺は現存していないことになっています。
この住職という方が住んでいたというのですが、どのような活動であったのか、またその支援にいろいろか方がおられるようですが実態がまだつかめません。
またわかることがありましたらお教え下さい。
 
No title
ROMAN様
芹澤鴨の血縁は今も市内にいらっしゃったと思います。
甲子太郎さん、志筑とは。また弟さんが東耀寺に
お眠りとは。
水戸藩中心に茨城は幕末動乱で、桜田門外など諸々活躍していたのですが、内ゲバなどで自滅し、明治になって逆賊扱いとなったゆえ、歴史の表からこれらの人々が葬られたのでしょうか。

手塚治虫先生、陽だまりの樹 の主人公は常陸府中藩士でしたね。上野で討ち死にした最後だった?

べあべあ様、
存じ上げませんでした。
ただの頑迷で閉鎖的な田舎かと思うと、こういう
深い情もあるのもまた石岡です。
昔からの旦那衆のノブレスオブリージュなのでしょう。

水戸学の伝統がどこかで通低しているのでしょう
か。
有難うございます。
No title
 Roman様。行徳様。当時は「マハラバ村」を異端視する人も少なからずいたのではないでしょうか?
 しかし現在では、つくば市の元市議員の野口修氏のブログなどでも、語られているので、大仏空さんの活動は、一定の評価を得られてるものと思います。私はネットで見ただけですので、現在のことはわかりませんが・・。
 

 話は変わって、私は新撰組が大好きです。きっかけは中学時代に読んだ少女漫画という、ミーハーぶりですが、「新撰組写真集」を見て、石岡にも元新撰組隊士がいた、とビックリしたのを覚えてます。
 大河ドラマで「新撰組!」が放送されたこといによって、三木三郎氏の存在は、石岡でも知られるところとなりました。
 三木三郎氏は城中山付近に住んでいられたようで、お孫さんが、鈴ヶ池付近にふきのとうを取りに行ったことがある(三木三郎さんが好きだったので)と語っています。
 しかし鈴が池があった場所が、私にはわかりません。上池と呼ばれる場所とは、別ですか??
 もしわかるようでしたら、教えてください。
 昔の市民プール(今のプールとは市民会館をはさんで、反対側)付近で池をみた記憶はあるのですが・・。
Re: No title
行徳さま
新撰組や赤報隊、また天狗党も時代に翻弄され消えて行きました。
この話は好きな人には良いのですが、結果を考えるとどうしても暗くなります。
あまりにも影の部分が多いのです。
そのため、積極的にはブログでは書けません。
鈴木三木三郎さんも余生は石岡で過ごされていますが、ほとんど御自身のことは語られていません。
墓も東耀寺にありますが、鈴木の名前ではありませんし案内板などはありません。
そっとしておいてほしいと言っているようです。

Re: No title
べあべあ様
ありがとうございます。
ネットで「マハラバ文庫」を見て見ました。
現在もまだこのように活動し支援者もおられるのですね。
閑居山は名前の通り、昔に僧侶が閑居した場所ですね。
その場所に小屋を建てひっそりと暮らしていた僧侶がいたのでしょう。
障碍者への取り組みとして評価もされていたようですが、私にはまだわからないことばかりで評価もできません。
現地で受けたイメージと少しギャップがありもう少し理解できるまでには時間がかかりそうです。

>  鈴が池があった場所が、私にはわかりません。上池と呼ばれる場所とは、別ですか?

・・・私もわからずに随分探しました。この場所は上池の場所ではなく、石岡小学校の裏側(西側)です。
小学校の北側(駐車場側)の道をそのまま行くと坂を下ります。
この坂を下った左手側で住宅が立ち並んでいる少し手前です。
今は何もありません。池は瓦礫などで埋められてしまったようです。
面影がまったくないのでこの昔の話が空しく響きます。残念です。

Re: No title
行徳様

> 手塚治虫先生、陽だまりの樹 の主人公は常陸府中藩士でしたね。
・・・手塚治虫氏の先祖(曾祖父である手塚良仙)が常陸府中藩の藩医で、その墓が清涼寺にあると聞きます。
御存知でしたか?
おはようございます
 Roman様、さっそくお返事有難うごさいます。面影はなくても、今度帰省したときには、行ってみたいと思います。
 総社宮の表参道も、もとは堀だったのではないかという話を聞いたことがありますが、本当なんでしょうか?
 今はネットですぐに情報が得られ便利ですが、いろいろな立場があり、いろいろなご意見もあるので、真実をきちんと把握するのは、難しいですね。
 私も評価はできませんが、石岡に関係があり、また時代も経っているので、エピソードを紹介させていただきました。
 またいろいろ教えて頂けたら幸いです。
No title
Roman様

手塚曽祖父様は大阪滴塾で学ばれ、大阪に居住。
そこで生まれたのが陽だまりの樹に出てくる
息子(祖父)だったというわけですね。府中の
家系でありながら、大阪育ちで、それが後の手塚
さんの誕生地に繋がって行ったとは。いまさらな
がらビックリします。
陽だまりの主人公の府中藩士、中高の同級生に
にておりまして、またあの融通の利かない、よく言えばまっすぐな性格は石岡人そのものですね。
自分の中にも彼がいます。
Re: おはようございます
べあべあ様
鈴姫と鈴ヶ池の話や残念坂また、府中の抜け穴、など面白い話がありますが、
お話としては歴史価値がないと思うのでしょうか。あまり積極的に残しませんね。
お話はかならずそこに当時の人の思いが込められています。
出来るだけ大事にして後世にも伝えてほしいと思います。

「マハラバ通信」はすでにお亡くなりになった大仏空さんの娘さんであるレアと言う人が東京で出しているようです。
http://www.kinyobi.co.jp/news/?p=703
に書かれていることで大体が想像されました。
ところで、今年3月に土浦駅で大仏空という僧侶と名乗る人が2回にわたり逮捕されました。
社会にとっては受け入れられなくなってきていると思います。
一度行かれて現地を見て置かれるといいですよ。現実が見えてきます。
ネットだけではやはりよくわからないですから・・・。

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