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東庄町散策(3) 大友城址<その1>

 諏訪大神は昔は須賀山明神と呼ばれていたという。
江戸時代は神仏習合で明神様と呼ばれていたところは多い。
我が常陸国府中(現石岡)の常陸国総社宮も「六所明神」「明神様」などと呼ばれていたらしい。

この須賀山には中世の須賀山城が作られ、東氏の居城となっていたらしい。
ここには前に訪れている。
ブログ 「須賀山城跡(2014年6月)」 ⇒ こちら

ここでは、この東氏と須賀山城について以下のように書かれていた。

「千葉常胤(つねたね)及びその一族と共に、源頼朝の挙兵に尽力した東胤頼(とうのたねより)は、その功により、文治元年(1185)に東荘(とうのしょう)33郷、更に三崎荘(みさきのしょう)55郷を拝領した。
胤頼は、はじめ上代前掛城(かじろまえかけじょう)に居城したが、文治6年(1190)に、この地に須賀山城を築き、妙見尊星王(みょうけんそうせいのう)を勧請(かんじょう)し、所領の経営と祭事につとめた。
その後、隣接地に森山城を築き、建保6年(1218)森山城に移った。」

その時は、この内容が良く理解できていないとも私は書いた。
この東荘や三崎荘といった荘園名は平安時代10世紀の「倭名類聚抄」には郡名、郷名には出ていない。
ということは、鎌倉時代に各地に発達した荘園の名称だろうとWiki.で調べてみた。

○ 三崎荘(みさきのしょう)は、中世の下総国海上郡にあった荘園、海上荘ともいう。・・・・・荘域は、海上郡三前郷を中心として、横根郷、須加郷、本庄郷、船木郷などの地を含み、現在の銚子市および旭市一帯と推定される。と書かれている。

○ 東荘(とうのしょう)だが、一般的には「橘荘(たちばなのしょう)」と呼ばれていたようだ。
久安2年(1146年)8月10日の平常胤寄進状に「相馬・橘両郷」とみえ、千葉常胤が父常重から相馬郷とともに伝領した私領であったとみられる。・・・・・・・治承4年(1180年)源頼朝が房総に逃れた際、常胤の六男胤頼の進言により、藤原親通の孫親政を討ち取ったことから勢いを得て、様子見していた上総広常も参陣し治承・寿永の乱を制する。その後、胤頼に譲られ鎌倉時代を通して当荘は東氏に相伝された。とある。
これらは12世紀半ばから戦国時代ころまで発達した荘園なのだろう。

少しわかったようだが、益々混乱してきた気がしないでもない。

さて、ではもう少し時代を戻って千葉氏のルーツといわれる「平良文」が残した遺跡がこの東庄にあるというので、そちらを探して行って見た。
それは「大友城城址」です。

成田線の下総橘駅横から旭市側に続く県道267号線を道なりに進めば、途中で左に「大友城址」の案内看板があるので、この看板に従って北側から入れば迷う事はない。

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ただ、城址台地の手前の民家の辺りから先は民有地で、途中で車もすれ違えないので、このあたりで車を止めて歩いて行くほうが良い。

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また上り坂だが、整備もされており、歩いてもせいぜい2~3分程度で上の城址の空き地(農地、畑)に行くことができる。

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上の台地はこのように平らな平地で畑が広がっている。

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入口に置かれた説明看板

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比較的新しい看板で、この一面の畑部分が、昔の政所(まんどころ)がおかれた「政所台」というようだ。

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この政所台はいかにも長閑で住みやすかったのかもしれない。

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この政所台の南端部にもう一つの説明看板がある。
こちらの説明の方が歴史的に見る人にはありがたい。
ここには「旧椿海」の北端部に位置していると書かれている。

少しこの椿海(つばきのうみ)は私のイメージしていた場所とは少し違うのだが・・・・
これは次に検証してみたい。

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この看板があるところから南側に道が続くが、この先に見張台(遠所台)があったらしいが、私はここで引き返した。

なにしろこの城を最初に築いたのは「平良文」であるらしいので、次回に少し地形などを検証して書いてみたい。


小見川・東庄 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2022/11/16 13:07
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