東庄町散策(4) 大友城址<その2>
さて、ここで千葉氏について調べてみよう。
なぜなら千葉氏の始まりがこの大友城にあったというのを記事で見たような・・・・・
Wiki.によると、
「桓武天皇を先祖とする桓武平氏、平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が、千葉氏の初代,千葉忠常(下総国のナンバーツー・千葉介)である。」と書かれている。
まあ、常陸国国府(現石岡)の歴史を少しかじっている人間にとっては、最初の方はなじみ深い。
このブログの「常陸国における源平合戦」などでも散々に書いてきた。
要は桓武天皇の曾孫である高望王(桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王)が臣籍降下して民間に下り、「平(たいら)姓」をもらいます。
そして、898年にまだ開拓余地のある「下総(しもふさ)国」の「下総介」として3人の息子(国香・良兼・良将)を連れてやってきます。
この3人の息子たちが下総・常陸などの豪族と手を結びながら領地を広げて行ったのです。
三男良将の息子が平将門で有名な大騒動(西暦935~940年)が起こります。
このとき国香が死に、将門も死んで騒動は治まりますが、その後、千葉県では千葉氏が興るようです。
まず、高望王の5男の平良文は、兄の国香などとは腹違いらしく、暫くしてから関東にやってきます。
やってきたのは923年で36歳の時でした。相模国の賊退治を命じられたようです。
そして武蔵国熊谷郷村岡(現埼玉県熊谷市)に居したため、村岡五郎(五郎は5男のため)を名乗り始めます。
そして、その後相模国鎌倉郡村岡(現神奈川県藤沢市村岡)へ移ったとされています。
藤沢市の村岡は恐らく村岡五郎が移り住んだので村岡という地名になったのだと推察されますが、詳細は不明です。
他にも下妻市の村岡などにも領地を持っていたようです。
その後この東庄の「大友」に城を築いたようです。
また、隣の小見川(現香取市)の阿玉台貝塚付近にも館をもっていたのでしょう。
旧小見川町とこの東庄町の境界附近に遺跡が点在しており、それぞれの行政が異なると、何処か歴史の継続も途絶えてしまうようです。
各遺跡などを現在の地図で確認してみましょう。

以前に「小見川に平良文を見る」として2013年にブログのまとめています。(⇒ こちら)
何故この地に拠点を移したのでしょうか?
今の地図では理解しがたいので、例によってFlood Mapsソフトで海面の高さを+5mとして昔の地形を想像してみましょう。

海面を5mほど高くすると、古代の地形が見えてきます。
平安・鎌倉時代頃も結構この地形で考えたほうが理解しやすいようです。
大友城は南に広がる「椿海(つばきのうみ)」の北端部の高台に築かれています。

もう少し広域に広げてみてみましょう。
椿の海は江戸時代に干拓されて、広大な農地となりました。
小見川辺りも低地いったいは今では広大な農地です。昔がどのようであったかははっきりしませんが、平良文が城もしくは館をここに置いたとすればこの地形は海洋族が常陸国を経て、蝦夷へ攻め入る拠点として良い位置だったのかもしれません。
九十九里浜の横芝光町に「屋形」という地名が残されています。
ここへは、多古町方面から栗山川という川が流れており、この川沿い一帯には、縄文時代の遺跡や丸木舟がたくさん発掘されています。
また国香の弟の平良兼は上総の介として父の平高望の後を継いでおり、この屋形あたりに館が存在したのではないかとも思われます。
東庄町は下総国になりますが、陸路をきて、横須賀から東京湾を船で渡った上総国府(市川)あたりよりも、都から海路で九十九里浜へ渡ったほうが東北方面への近道でもあったではないでしょうか。
そのため、この東庄町は東北への玄関口などとも言われているのだと思われます。
なにしろこの良文にはじまる一族は坂東平氏の祖とも言われ、各地に子孫が広大な領地を有するようになって行きます。
939年には陸奥守となり、蝦夷征伐に出かけ、翌940年に関東に戻り、上総・下総・常陸国などにかなりの領地を獲得していたようです。この940年頃にこの大友城を築き、本拠地としたようです。将門が死亡した直後です。
そのまた晩年には阿玉台貝塚近くで過ごしていて、952年に亡くなりました。
千葉氏の祖といわれるのはこの平良文(村岡五郎)の次男(平忠頼)の子「平忠常」(良文の孫)です。
平忠常は良文(村岡五郎)、忠頼(村岡次郎)の地盤を引き継ぎ、次第に勢力を強め、税も納めずに傍若無人に振舞うようになります。
上総の国府を襲撃したりして、都より平直方が鎮圧に派遣されますが、なかなか抑え切れません。
そこで、1031年に道長四天王の一人であり、河内源氏の祖といわれる源頼信(当時甲斐守)に忠常鎮圧を直方から変更します。
すると、平忠常は戦わずして、源頼信に従い降伏し、一族子孫を守ることを願い出たようです。
このため、この平忠常の子孫は守られ、各地にて生き延びていったのです。
ところで千葉介という役職があちこちで表記されていますが、国の役職にある「介(すけ)」はあるので、上総介、下総介などはあっても千葉介は存在しません。
どうやら地域のまとめ役の「権介」である「下総権介」が「千葉介」と称して、この地のナンバー2となったようです。
平忠常から数えて4代目の平常重が現在の千葉市近郊に亥鼻城(千葉城)を築き(1126年)、千葉荘を領して「千葉氏」を名乗った。
その後、千葉常胤(1118-1201)から鎌倉幕府の御家人となり名前に胤(たね)の一字を踏襲していきます。
かなり複雑ですので、ここは又別途としておきましょう。
これくらいの事がわかれば又別な機会に呼び起こされて繋がって行く事になるはずです。
なぜなら千葉氏の始まりがこの大友城にあったというのを記事で見たような・・・・・
Wiki.によると、
「桓武天皇を先祖とする桓武平氏、平良文(村岡良文)の孫・村岡忠常(平忠常)が、千葉氏の初代,千葉忠常(下総国のナンバーツー・千葉介)である。」と書かれている。
まあ、常陸国国府(現石岡)の歴史を少しかじっている人間にとっては、最初の方はなじみ深い。
このブログの「常陸国における源平合戦」などでも散々に書いてきた。
要は桓武天皇の曾孫である高望王(桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王)が臣籍降下して民間に下り、「平(たいら)姓」をもらいます。
そして、898年にまだ開拓余地のある「下総(しもふさ)国」の「下総介」として3人の息子(国香・良兼・良将)を連れてやってきます。
この3人の息子たちが下総・常陸などの豪族と手を結びながら領地を広げて行ったのです。
三男良将の息子が平将門で有名な大騒動(西暦935~940年)が起こります。
このとき国香が死に、将門も死んで騒動は治まりますが、その後、千葉県では千葉氏が興るようです。
まず、高望王の5男の平良文は、兄の国香などとは腹違いらしく、暫くしてから関東にやってきます。
やってきたのは923年で36歳の時でした。相模国の賊退治を命じられたようです。
そして武蔵国熊谷郷村岡(現埼玉県熊谷市)に居したため、村岡五郎(五郎は5男のため)を名乗り始めます。
そして、その後相模国鎌倉郡村岡(現神奈川県藤沢市村岡)へ移ったとされています。
藤沢市の村岡は恐らく村岡五郎が移り住んだので村岡という地名になったのだと推察されますが、詳細は不明です。
他にも下妻市の村岡などにも領地を持っていたようです。
その後この東庄の「大友」に城を築いたようです。
また、隣の小見川(現香取市)の阿玉台貝塚付近にも館をもっていたのでしょう。
旧小見川町とこの東庄町の境界附近に遺跡が点在しており、それぞれの行政が異なると、何処か歴史の継続も途絶えてしまうようです。
各遺跡などを現在の地図で確認してみましょう。

以前に「小見川に平良文を見る」として2013年にブログのまとめています。(⇒ こちら)
何故この地に拠点を移したのでしょうか?
今の地図では理解しがたいので、例によってFlood Mapsソフトで海面の高さを+5mとして昔の地形を想像してみましょう。

海面を5mほど高くすると、古代の地形が見えてきます。
平安・鎌倉時代頃も結構この地形で考えたほうが理解しやすいようです。
大友城は南に広がる「椿海(つばきのうみ)」の北端部の高台に築かれています。

もう少し広域に広げてみてみましょう。
椿の海は江戸時代に干拓されて、広大な農地となりました。
小見川辺りも低地いったいは今では広大な農地です。昔がどのようであったかははっきりしませんが、平良文が城もしくは館をここに置いたとすればこの地形は海洋族が常陸国を経て、蝦夷へ攻め入る拠点として良い位置だったのかもしれません。
九十九里浜の横芝光町に「屋形」という地名が残されています。
ここへは、多古町方面から栗山川という川が流れており、この川沿い一帯には、縄文時代の遺跡や丸木舟がたくさん発掘されています。
また国香の弟の平良兼は上総の介として父の平高望の後を継いでおり、この屋形あたりに館が存在したのではないかとも思われます。
東庄町は下総国になりますが、陸路をきて、横須賀から東京湾を船で渡った上総国府(市川)あたりよりも、都から海路で九十九里浜へ渡ったほうが東北方面への近道でもあったではないでしょうか。
そのため、この東庄町は東北への玄関口などとも言われているのだと思われます。
なにしろこの良文にはじまる一族は坂東平氏の祖とも言われ、各地に子孫が広大な領地を有するようになって行きます。
939年には陸奥守となり、蝦夷征伐に出かけ、翌940年に関東に戻り、上総・下総・常陸国などにかなりの領地を獲得していたようです。この940年頃にこの大友城を築き、本拠地としたようです。将門が死亡した直後です。
そのまた晩年には阿玉台貝塚近くで過ごしていて、952年に亡くなりました。
千葉氏の祖といわれるのはこの平良文(村岡五郎)の次男(平忠頼)の子「平忠常」(良文の孫)です。
平忠常は良文(村岡五郎)、忠頼(村岡次郎)の地盤を引き継ぎ、次第に勢力を強め、税も納めずに傍若無人に振舞うようになります。
上総の国府を襲撃したりして、都より平直方が鎮圧に派遣されますが、なかなか抑え切れません。
そこで、1031年に道長四天王の一人であり、河内源氏の祖といわれる源頼信(当時甲斐守)に忠常鎮圧を直方から変更します。
すると、平忠常は戦わずして、源頼信に従い降伏し、一族子孫を守ることを願い出たようです。
このため、この平忠常の子孫は守られ、各地にて生き延びていったのです。
ところで千葉介という役職があちこちで表記されていますが、国の役職にある「介(すけ)」はあるので、上総介、下総介などはあっても千葉介は存在しません。
どうやら地域のまとめ役の「権介」である「下総権介」が「千葉介」と称して、この地のナンバー2となったようです。
平忠常から数えて4代目の平常重が現在の千葉市近郊に亥鼻城(千葉城)を築き(1126年)、千葉荘を領して「千葉氏」を名乗った。
その後、千葉常胤(1118-1201)から鎌倉幕府の御家人となり名前に胤(たね)の一字を踏襲していきます。
かなり複雑ですので、ここは又別途としておきましょう。
これくらいの事がわかれば又別な機会に呼び起こされて繋がって行く事になるはずです。
コメント