東庄町散策(9) 大友地区の小さな薬師堂
千葉県香取郡東庄町(とうのしょうまち)をぶらぶらと散策した記事を書いています。
東大社(とうだいしゃ)を紹介する前に「大友城址」を紹介しましたが、大友城址から東大社に向かう途中に見つけた気になったお堂を紹介します。
大友地区は東北から西南に斜めに細長い地形をしています。
その中心部から南西側に広がる台地の上に「大友城」があり、その中心部の名前が「政所台(まんどころだい)」「遠台(とおのだい)」などの字名が残されています。
ただ人家のある中心部は北東側にあり、ここに「大友区民館」と書かれた地区の集会所がありました。

その直ぐ前に朱色い屋根のお堂があり、気になって立ち寄ってみました。

周りには地区のお墓が置かれていて、地図で見ると「卍」のお寺のマークが書かれていますが、名称等は見つかりません。

道路側に小さな石碑がありお花が手向けられていました。
「奉納大乗妙典日本・・・・・・ 飯田○○・・」と書かれています。
これは、ここの地元の飯田さんといわれる方が、仏教の経典を持って日本全国を六部となって廻り終えた記念に奉納された物のようです(日本回国記念)。 日付は江戸後期の寛政7年(1795年)のようです。
石岡の染谷地区にも変ったこの回国記念の石碑が残されていますが、石岡の石碑には地図も書かれており、年代も元禄7年(1694)ですから、こちらの物より100年も古いです。
しかし、このように信心深く全国を回るにはかなりの路銀も必要だったと思いますので、多分地元の名士的な方だったのでしょう。
参考:石岡市染谷の回国記念碑 ⇒ こちら

正面に廻ると、両脇に2本の石柱が立っています。
右に「聖観世音」、左に「薬師如来」と彫られているようです。

お堂の変額は上に奉納、右に大友、左に飯田とありますが、お堂の名称は読めません。

お堂の内部に2つの厨子が置かれていました。
恐らくこの中に聖観音像と薬師如来像がまつられているのかも判りません。

お堂の周りはお墓ですが、その中にいろいろな石像が置かれていました。
左は下の方に三猿が折られていますので庚申塔、右は二十三夜塔でしょうか。

何かこのように地区の道端などにあったものを、ここに集めたものと思いますが、何時までも大切に守って欲しいと思います。
東大社(とうだいしゃ)を紹介する前に「大友城址」を紹介しましたが、大友城址から東大社に向かう途中に見つけた気になったお堂を紹介します。
大友地区は東北から西南に斜めに細長い地形をしています。
その中心部から南西側に広がる台地の上に「大友城」があり、その中心部の名前が「政所台(まんどころだい)」「遠台(とおのだい)」などの字名が残されています。
ただ人家のある中心部は北東側にあり、ここに「大友区民館」と書かれた地区の集会所がありました。

その直ぐ前に朱色い屋根のお堂があり、気になって立ち寄ってみました。

周りには地区のお墓が置かれていて、地図で見ると「卍」のお寺のマークが書かれていますが、名称等は見つかりません。

道路側に小さな石碑がありお花が手向けられていました。
「奉納大乗妙典日本・・・・・・ 飯田○○・・」と書かれています。
これは、ここの地元の飯田さんといわれる方が、仏教の経典を持って日本全国を六部となって廻り終えた記念に奉納された物のようです(日本回国記念)。 日付は江戸後期の寛政7年(1795年)のようです。
石岡の染谷地区にも変ったこの回国記念の石碑が残されていますが、石岡の石碑には地図も書かれており、年代も元禄7年(1694)ですから、こちらの物より100年も古いです。
しかし、このように信心深く全国を回るにはかなりの路銀も必要だったと思いますので、多分地元の名士的な方だったのでしょう。
参考:石岡市染谷の回国記念碑 ⇒ こちら

正面に廻ると、両脇に2本の石柱が立っています。
右に「聖観世音」、左に「薬師如来」と彫られているようです。

お堂の変額は上に奉納、右に大友、左に飯田とありますが、お堂の名称は読めません。

お堂の内部に2つの厨子が置かれていました。
恐らくこの中に聖観音像と薬師如来像がまつられているのかも判りません。

お堂の周りはお墓ですが、その中にいろいろな石像が置かれていました。
左は下の方に三猿が折られていますので庚申塔、右は二十三夜塔でしょうか。

何かこのように地区の道端などにあったものを、ここに集めたものと思いますが、何時までも大切に守って欲しいと思います。
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