東庄町散策(10) 千葉県民の森(その一) 福聚寺と鉄牛和尚
東庄町の南東側、銚子市と旭市に近い場所に「千葉県民の森」という施設がある。
バーベキューをしたり、森の小鳥を観察したり、テニスコートなどもあるかなり広い施設です。
先週、東庄町散策としてここに行って見ました。
江戸時代に干拓で埋め立てられた「椿海」の東北部の高台にこの施設はあります。
前に紹介した大友城跡のすぐ近くにあります。
共に、この椿海と関係があったことが伺える場所です。
銚子側や旭市側からは椿海干拓後の平野部から行く事ができますが、今回は西側の東庄町側から行って見ました。
先ず、成田線の下総豊里駅から西に向かって延びている県道74号線を進みます。
豊里駅は銚子市笹本町ですが、すぐに上り坂となり下総台地へと上っていき、駅から2kmほどで東庄(とうのしょう)町に入ります。
やがて道は少し狭くなり、古い家並みがあります。
暫く行くと左側に美容室があり、その直ぐ先に「県民の森」への矢印看板があります。
そこを看板に従って左折します。
ここは県民の森の奥にある高台に建つ見晴台、城山の森に通じる道です。
曲がってから直ぐ、左へ「夏目の堰(八丁堰)」への道を左に分かれて、右の道を上っていきます。
暫く行くと切り開かれた森の中に駐車場があり、車を此処に止めて歩いて行きます。

歩いて直ぐの右手に変った門のお寺が建っているのが見えます。
寺の名前は「福聚寺」(禅寺)といいます。
1678年に鉄牛道機の開山による黄檗宗(おうばくしゅう)の禅寺です。
黄檗宗は江戸時代初期に日本に持ち込まれた禅宗です。どこか中国式を思わせる門ですね。

この寺は椿海の干拓事業に尽力した鉄牛和尚の寺で、県指定史跡の鉄牛和尚の墓があります。
鉄牛和尚とこの墓石について県教育委員会の説明には
「鉄牛和尚は、寛永5年(1628)に現在の山口県で生まれた。14歳で出家、諸所を遍歴し27歳で長崎に行き、そこで中国から渡来した木庵と隠元から教えを受け、木庵の侍者となって京都の宇治で黄檗山万福寺の創建に尽力しました。
椿海の新田干拓計画は、寛永16年(1639)頃から計画されていたものであったが、幕府の要人から重きを置かれるようになっていた鉄牛が、幕府を説得するとともに工事費用を調達し、寛文11年(1671)にこの大工事を完成させたのである。この事業により、干潟8万石といわれる良田2,741町歩が整備された。
鉄牛は、この干拓による功績により幕府から寺地を寄進され、その寺地に創建した福聚寺(ふくしゅうじ)で晩年を過ごし、同寺において元禄13年(1700)、73才で没した。遺言により境内で荼毘(だび)に付され、その場所には高さ約2mに及ぶ巨大な石塔が建てられた。この石塔は、墓石が仙台藩主伊達綱村、台座・基壇は佐倉藩主稲葉正通の寄進によるものである。」
と書かれていました。


黄檗宗という宗派はよくわかりませんが、本尊は十一面観音で、日本の臨済宗と同じような教義のようです。
境内には上の写真のような石柱が並べられ、観音像などが彫られています。


またお寺の隣には明るい森が広がり、散策できるエリアが広がっています。
この場所は山の上で、この下にこの鉄牛和尚が指導した椿海の干拓地が広がっています。
こちらはまた次に書きます。
バーベキューをしたり、森の小鳥を観察したり、テニスコートなどもあるかなり広い施設です。
先週、東庄町散策としてここに行って見ました。
江戸時代に干拓で埋め立てられた「椿海」の東北部の高台にこの施設はあります。
前に紹介した大友城跡のすぐ近くにあります。
共に、この椿海と関係があったことが伺える場所です。
銚子側や旭市側からは椿海干拓後の平野部から行く事ができますが、今回は西側の東庄町側から行って見ました。
先ず、成田線の下総豊里駅から西に向かって延びている県道74号線を進みます。
豊里駅は銚子市笹本町ですが、すぐに上り坂となり下総台地へと上っていき、駅から2kmほどで東庄(とうのしょう)町に入ります。
やがて道は少し狭くなり、古い家並みがあります。
暫く行くと左側に美容室があり、その直ぐ先に「県民の森」への矢印看板があります。
そこを看板に従って左折します。
ここは県民の森の奥にある高台に建つ見晴台、城山の森に通じる道です。
曲がってから直ぐ、左へ「夏目の堰(八丁堰)」への道を左に分かれて、右の道を上っていきます。
暫く行くと切り開かれた森の中に駐車場があり、車を此処に止めて歩いて行きます。

歩いて直ぐの右手に変った門のお寺が建っているのが見えます。
寺の名前は「福聚寺」(禅寺)といいます。
1678年に鉄牛道機の開山による黄檗宗(おうばくしゅう)の禅寺です。
黄檗宗は江戸時代初期に日本に持ち込まれた禅宗です。どこか中国式を思わせる門ですね。

この寺は椿海の干拓事業に尽力した鉄牛和尚の寺で、県指定史跡の鉄牛和尚の墓があります。
鉄牛和尚とこの墓石について県教育委員会の説明には
「鉄牛和尚は、寛永5年(1628)に現在の山口県で生まれた。14歳で出家、諸所を遍歴し27歳で長崎に行き、そこで中国から渡来した木庵と隠元から教えを受け、木庵の侍者となって京都の宇治で黄檗山万福寺の創建に尽力しました。
椿海の新田干拓計画は、寛永16年(1639)頃から計画されていたものであったが、幕府の要人から重きを置かれるようになっていた鉄牛が、幕府を説得するとともに工事費用を調達し、寛文11年(1671)にこの大工事を完成させたのである。この事業により、干潟8万石といわれる良田2,741町歩が整備された。
鉄牛は、この干拓による功績により幕府から寺地を寄進され、その寺地に創建した福聚寺(ふくしゅうじ)で晩年を過ごし、同寺において元禄13年(1700)、73才で没した。遺言により境内で荼毘(だび)に付され、その場所には高さ約2mに及ぶ巨大な石塔が建てられた。この石塔は、墓石が仙台藩主伊達綱村、台座・基壇は佐倉藩主稲葉正通の寄進によるものである。」
と書かれていました。


黄檗宗という宗派はよくわかりませんが、本尊は十一面観音で、日本の臨済宗と同じような教義のようです。
境内には上の写真のような石柱が並べられ、観音像などが彫られています。


またお寺の隣には明るい森が広がり、散策できるエリアが広がっています。
この場所は山の上で、この下にこの鉄牛和尚が指導した椿海の干拓地が広がっています。
こちらはまた次に書きます。
森の遊歩道の先に笹川繁蔵、一の子分勢力富五郎最後の地「金毘羅山」があります。
もしも御存じでしたらすみません。
この展望場所に「天保水滸伝の遊歩道」の案内板がありました。
時間もあまりなく、勢力富五郎の自刀場所へは行かなかったのですが、ここが最後に富五郎たちが立てこもった山だったのですね。
名前は聞いていましたがこの場所とはすぐに思いつかなかったです。各地の史跡などは前に廻ったのですが、富五郎の関係はあまり行っていません。たしかに任侠物に今はあまり興味もないのですが、やはり梁山泊をイメージした場所であるのでもう少し調べて行ってみればよかったですね。又機会があれば行ってみましょう。ありがとうございます。