豊浦について
以前、このブログでも常陸の養蚕神社(三蚕神社)について書いたことがある。
・金色姫伝説(蚕影山神社:つくば市神郡) ⇒ こちら
・蚕養神社(日立市川尻) ⇒ こちら
・蚕霊神社(神栖市日川) ⇒ こちら
この常陸の三蚕神社と呼ばれる三箇所の神社は共に「豊浦」と名付けられた場所にあり、今は海や川に面していなくとも昔はここに金色姫を乗せた舟がインドから流れ着き、養蚕が伝わったとする昔話が存在する。
これは前に書いたことで、この時この三箇所の地名が何故「豊浦(とようら)」になっているのかが不思議に思っていた。
今日、家にある会津八一氏の「自註鹿鳴集」の文庫本を手に取り眺めていた。
するとそこに「豊浦(とよら)にて」という箇所があった。
豊浦(とよら)にて
ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を
おして たて けむ この むら の へ に
豊浦・岡寺駅の東北3キロ。欽明天皇13年(552)百済国より献じたる仏像を、この地なる豊浦宮に安置して豊浦寺といひ、仏法最初の寺と称せらる。
かみのいむとふ・「いむ」は「忌む」。「とふ」は「といふ」の略。
日本在来の八百万の神達は、これを好みたまはざるべしといふ懸念、その頃一般に行われたり。
と書かれていました。
そうだったのかと遅咲きの知識に加えて始めて何処か納得したしだい。
豊浦宮は「とゆらのみや」と読ませているが、現在の地名は「奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)」となっている。
宮と名がつくのはここを推古天皇(女帝)が即位後しばらくの間宮殿として使っていたためという。
会津八一の説明にあるように、推古天皇より前の552年(欽明天皇13年)に百済(聖明王)から金銅仏が日本で最初にもたらされた仏像だといわれています。
欽明天皇は蘇我稲目に仏像を与えてこれを崇拝させてみたのです。蘇我馬子はこの稲目の子です。
蘇我稲目の自宅が小墾田の向原(むくはら)にあり、ここを寺に改造してこの仏像を祀ったと伝えられており、これが豊浦宮・豊浦寺(日本最古の尼寺)となり、現在は「向原寺」となっています。
豊浦寺に仏像が祀られ、仏教を広めようとしていた蘇我氏でしたが、八百万の神が日本にはあり、仏教を嫌う物部氏により、寺は焼かれ、この仏像は近くの難波の堀江に投げこまれたといわれています。
その後物部氏をやぶり、仏教を広めようと蘇我馬子が飛鳥寺を建立しました。
この豊浦宮・豊浦寺(現向原寺)が日本仏教発祥の地と言っても良いでしょう。
投げ捨てられた仏像ですが、これを拾い上げて信濃に持ち帰り祀ったと言うのが信濃善光寺の始まりといわれています。
しかし、ここの向原寺にも飛鳥の仏像が存在します。
善光寺の仏像は釈迦三尊像で実物は秘仏で殆んど拝顔することはできません。
一方この向原寺の仏像は金銅観音菩薩立像1体で、近くの難波池で1772年に首から上は発見され、胴体部分は江戸時代に造られたものといわれています。
これが1974年に厨子ごと盗難に会い、2010年にオークションに出品されていたのを寺が買い戻したといいます。
仏像は元の姿でありましたが、厨子はなくなっていたそうです。
豊浦は昔、止由良、等由良などと書いていたようですので、発音はトユラが正しいのでしょう。
只今は、トヨウラと殆んどの場所で読まれていて、全国各地にたくさん存在するようです。
また、日本に仏教が伝わったのはもう少し前という説もあり、奈良の元興寺に残された「元興寺縁起」によれば戊午年(538年)とされているようです。
地名もいろいろな歴史的な出来事に関係しているのかもしれませんね。
玄翁が打ち砕いた那須野の九尾狐の殺傷石は全国の「高田」という地名の所に飛んで行ったとも言われています。
これらもきっとその地に神楽などが伝えられているようですので、関係があるのでしょう。
南総里見八犬伝などを思い出してしまいます。
・金色姫伝説(蚕影山神社:つくば市神郡) ⇒ こちら
・蚕養神社(日立市川尻) ⇒ こちら
・蚕霊神社(神栖市日川) ⇒ こちら
この常陸の三蚕神社と呼ばれる三箇所の神社は共に「豊浦」と名付けられた場所にあり、今は海や川に面していなくとも昔はここに金色姫を乗せた舟がインドから流れ着き、養蚕が伝わったとする昔話が存在する。
これは前に書いたことで、この時この三箇所の地名が何故「豊浦(とようら)」になっているのかが不思議に思っていた。
今日、家にある会津八一氏の「自註鹿鳴集」の文庫本を手に取り眺めていた。
するとそこに「豊浦(とよら)にて」という箇所があった。
豊浦(とよら)にて
ちよろづ の かみ の いむ とふ おほてら を
おして たて けむ この むら の へ に
豊浦・岡寺駅の東北3キロ。欽明天皇13年(552)百済国より献じたる仏像を、この地なる豊浦宮に安置して豊浦寺といひ、仏法最初の寺と称せらる。
かみのいむとふ・「いむ」は「忌む」。「とふ」は「といふ」の略。
日本在来の八百万の神達は、これを好みたまはざるべしといふ懸念、その頃一般に行われたり。
と書かれていました。
そうだったのかと遅咲きの知識に加えて始めて何処か納得したしだい。
豊浦宮は「とゆらのみや」と読ませているが、現在の地名は「奈良県高市郡明日香村豊浦(とようら)」となっている。
宮と名がつくのはここを推古天皇(女帝)が即位後しばらくの間宮殿として使っていたためという。
会津八一の説明にあるように、推古天皇より前の552年(欽明天皇13年)に百済(聖明王)から金銅仏が日本で最初にもたらされた仏像だといわれています。
欽明天皇は蘇我稲目に仏像を与えてこれを崇拝させてみたのです。蘇我馬子はこの稲目の子です。
蘇我稲目の自宅が小墾田の向原(むくはら)にあり、ここを寺に改造してこの仏像を祀ったと伝えられており、これが豊浦宮・豊浦寺(日本最古の尼寺)となり、現在は「向原寺」となっています。
豊浦寺に仏像が祀られ、仏教を広めようとしていた蘇我氏でしたが、八百万の神が日本にはあり、仏教を嫌う物部氏により、寺は焼かれ、この仏像は近くの難波の堀江に投げこまれたといわれています。
その後物部氏をやぶり、仏教を広めようと蘇我馬子が飛鳥寺を建立しました。
この豊浦宮・豊浦寺(現向原寺)が日本仏教発祥の地と言っても良いでしょう。
投げ捨てられた仏像ですが、これを拾い上げて信濃に持ち帰り祀ったと言うのが信濃善光寺の始まりといわれています。
しかし、ここの向原寺にも飛鳥の仏像が存在します。
善光寺の仏像は釈迦三尊像で実物は秘仏で殆んど拝顔することはできません。
一方この向原寺の仏像は金銅観音菩薩立像1体で、近くの難波池で1772年に首から上は発見され、胴体部分は江戸時代に造られたものといわれています。
これが1974年に厨子ごと盗難に会い、2010年にオークションに出品されていたのを寺が買い戻したといいます。
仏像は元の姿でありましたが、厨子はなくなっていたそうです。
豊浦は昔、止由良、等由良などと書いていたようですので、発音はトユラが正しいのでしょう。
只今は、トヨウラと殆んどの場所で読まれていて、全国各地にたくさん存在するようです。
また、日本に仏教が伝わったのはもう少し前という説もあり、奈良の元興寺に残された「元興寺縁起」によれば戊午年(538年)とされているようです。
地名もいろいろな歴史的な出来事に関係しているのかもしれませんね。
玄翁が打ち砕いた那須野の九尾狐の殺傷石は全国の「高田」という地名の所に飛んで行ったとも言われています。
これらもきっとその地に神楽などが伝えられているようですので、関係があるのでしょう。
南総里見八犬伝などを思い出してしまいます。
記事で取り上げた善光寺の御本尊と浅草寺の御本尊は時代的な共通点がありますし、時代は下りますが銚子の飯沼観音の御本尊も同じような縁起だったように思います。
他にも同じような縁起を持つお寺があるのかなと思います。
そしてこれは善光寺信仰の広がりと共に善光寺縁起が広がり地域に伝承等と結びついたのかと勝手な想像をしています。
向原寺の仏さまは秘仏ではないので拝観した事がありますが、とても良いお顔をした仏さまでした。
仏像などもお好きですか?
確かにお寺の縁起などでは、近くの海、湖、河などから拾い上げた仏像が本尊になっているところは多いですね。
善光寺の話しは有名ですので、後に(鎌倉時代ころから)善光寺信仰も各地に広がっていたらしいのでまねたのもあるかもしれないですね。
私は向原寺に行っていないので、写真で見ただけですが、素朴な少し笑った仏さんですね。
蘇我氏、物部氏などの争いと同じようなことが明治維新でもあって、仏像がたくさん壊されたのは残念でした。
又お越しください。