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常世の国(2)-非常香果(ときじくのかぐのこのみ)

この「まほらにふく風に乗って」というブログのタイトルは
「まほら=真秀ら」(真によい処)=常世の国
ということにもなる。
そして、このブログのスタートは2010年8月だから、今から12年以上前となる。

今回、「常世の国=古代の理想郷」をどのように見るかを考えているのだが、まず、古事記や日本書紀に記載のある「常世の国」との表現がある箇所をピックアップしていきたいと思う。

常世の国(2)

第2回目は「非常香果=日本書紀」「登岐士玖能 迦玖能木實(時じくの香の木の実)=古事記」について紹介しよう。
まずは古事記の内容を見ていこう。

1)古事記(和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上されたとされる)
古事記には橘の実について非時香果(ときじくのみ:いつでも香り高い果実)であり、常世の実であるという記述があります。

中巻 (11代)垂仁天皇の条

<原文>
・又天皇 以三宅連等之祖 名多遲麻毛理遣常世國 令求登岐士玖能 迦玖能木實。
・故 多遲摩毛理 遂到其國 採其木實 以 縵八縵。矛八矛 將來之間 天皇既 崩
・爾多遲摩毛理 分 縵四縵 矛四矛 獻于大后 以 縵四縵 矛四矛 獻置天皇之 御陵戸而。
・擎其木實 叫哭以白 常世國之 登岐士玖能 迦玖能木實 持參上侍 遂叫哭死也
・其登岐士玖能 迦玖能木實者 是今橘者也。

<読み下し>
・また天皇、三宅の連(むらじ)等の祖先の名前をタヂマモリ(田道間守)という者を常世の国に遣わして、時じくの香(か)ぐの木の実を求めしめたまひき
・依ってタヂマモリ、遂にその國に到りて、その木の實を採りて、縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)を、將(もち)來(つる)間に、天皇既に 崩(かむあがり)ましき
・ここにタヂマモリ、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に獻り、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を、天皇の御陵の戸に獻り置きて、
・その木の實を擎(ささげ)て、叫び哭(おらび)て白(さく)、「「常世の國の 時じくの香(か)くの木(こ)の實(み)を 持ちまゐ上りて侍(さもら)ふ」とまをして 遂に哭(おら)び死にき。
・その時じくの香(か)くの木の實は今の橘なり。

<話の概要>
11代垂仁(すいにん)天皇の在位90年の所に、天皇は三宅の連(むらじ)の祖先である多遲麻毛理(タヂマモリ)という人に、海の彼方にあるという理想郷の国=常世の国に行って、何時までも香りのよい実をつける(不老不死の果物)「時じくの香(か)ぐの木の実」という果物を取ってきてほしいと命令したのです。
タヂマモリは海の彼方にある常世の国を目指して大海原に船を漕ぎ出し、荒波を越え、やっとの思いで常世の国に到着しました。
そこにあった「時じくの香(か)ぐの木の実」の実を八つ、実を連ねた木の枝を八本持って、また必死の思いで海を渡り天皇のいる国へ戻って来ました。
しかし、国に戻ってきたときには、すでに天皇は崩御されていたのです。嘆き悲しんだタヂマモリは持って帰って来た「「時じくの香(か)ぐの木の実」の半分(四縵、四矛)を天皇の大妃に差し上げ、残りの半分を天皇の御陵に持って行き、その場で持って帰ったことを報告し、悲しみ、泣き叫んで死んで(自害?)しまいました。
その「時じくの香(か)ぐの木の実」というのが、現在の橘(たちばな)のことです。

(解説)
 この垂仁天皇は『日本書紀』での名は活目入彦(いくめいりびこ)五十狭茅天皇です。兄は東国に派遣された豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)です。豊城入彦命が東国の統一に進攻している間、活目入彦が天皇の位を継いで、まず畿内周辺の四街道へ四道将軍を派遣し、周りを固めます。そして余命も少なくなって、この不老不死の木の実を欲したのでしょう。しかし、在位99年(年令は古事記153歳、日本書紀140歳)で崩御してしまい、木の実を持ち帰ったのは、出かけてから10年経っていたのです。
神話(古事記、日本書紀)に書かれた年代をそのまま信じるの無理ですので、この話の年代は三世紀後半から四世紀始めの頃と考えられます。
垂仁天皇の後が 景行天皇で、景行天皇の子がヤマトタケル(日本武尊)となります。

一方持ち帰ったという「時じくの香(か)くの木の實」は「縵八縵(かげやかげ)、矛八矛(ほこやほこ)」という表現がされていますが、この畳み掛けるような数の表現は謎賭けのような要素を持ち、八は末広がりで縁起が良く沢山と言う意味も持っているようです。八百万(やよろず)などの表現にもその事が表われています。
縵(かげ)は実を表わし、矛(ほこ)は実が串刺しとなって連なった枝を意味します。
ただ、矛(ほこ)も茅(ち)と通じ、茅の輪のようにこれをくぐって疫病などの災害を防ぐなどの意味ともつなっがているのかもしれません。

さて、この橘の木は、常陸国風土記にも出てきます。場所は行方郡のところです。
「郡の側(かたはら)の居邑(むら)に、橘樹(たちばな)生(お)へり。」と書かれています。
行方郡は茨城郡と那珂郡の地域から653年に分割して成立しました。
(行方)郡衙が何処にあったかは不明ですが、現在の玉造の少し東側にあったと推察されます。

少し長くなりましたのでこの続きは次回へ




 

常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/05 10:52
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