常世の国(1) 常陸国風土記
2023年になり、気分を新たにしてまた1年を過ごして行きたいと思います。
当ブログも2010年に始めて、13年目に入りました。
昔は毎日書いていたのですが、これは6年で断念しましたが、これからも細々とやっていきましょう。
今年の初めは、「常世の国(とこよのくに)」を少しまとめて紐解いて見たいと思います。
「常世の国」とは古代に不老不死の理想郷をそのような呼び方をしていたようです。
古事記、日本書紀、常陸国風土記などのこの「常世の国」という表現が使われています。
まずは身近な常陸国風土記に書かれている内容です。

まず、各郡の詳細などを現す前に「総記」として書かれた前文の最後に
「それ常陸の国は、境はこれ広大く、地も亦緬邈(はろか)にして、土壌(つち)沃墳(うる)ひ、原野肥衍(こえ)たり。墾発(ひら)きたる処、山海の利(さち)ありて、人々自得(ゆたか)に、家々足饒(にぎは)へり。設(も)し、身を耕耘(たつく)るわざに労(いたつ)き、力を紡蚕(いとつむ)ぐわざに竭(つく)す者あらば、立即(たちどころ)に富豊を取るべく、自然に貧窮(まづしさ)を免(まぬか)るべし。況(いはむ)や復(また)、塩と魚の味を求めむには、左は山にして右は海なり。桑を植ゑ、麻を種かむには、後は野にして前は原なり。いはゆる水陸の府臓、物産の膏腴(かうゆ)といへるものなり。
古(いにしへ)の人、常世の国といへるは、蓋(けだ)し疑ふらくは此の地ならむか。(原文:古人曰常世国、 蓋疑此地)
但、有るところの水田、上は少なく、中の多きを以ちて、年に霖雨(ながあめ)に遇はば、即ち苗子の登(みの)らざるを歎(なげき)を聞き、歳に亢陽(ひでり:好天気)に逢はば、唯穀実の豊稔(ゆたか)なる歓(よろこび)を見む」
(常陸国風土記 全訳注 秋本吉徳著)
ここでは奈良時代初頭に書かれた常陸国風土記には、古代の人が理想郷として考えていた「常世の国」とは、この常陸国のことを指していたのかもしれないと書いています。常陸国は山と海があり、また野原があってまさに理想郷のようだというのです。
ただし、その後に各地から伝わる気候の変化などで本来の理想郷とは違う土地の姿も書き加えています。
さて、理想郷である「常世の国」は海のかなたにあり、中国思想などのように山の上であったり、天上であったり・・・・
そのうちに海の中にある竜宮城などとも考えられたようです。
少しずつ、古代の常世の国が書かれた記述をこれから数回にわたって調べて見たいと思います。
常陸国風土記の記述でもう一箇所気になっているところがあるので書き加えておきます。
それは「茨城郡(うばらきのこほり)」のところです
「ここにいう茨城の郡は、今は那珂の郡に属しており、その西部にある。昔は、そこに郡衙が置かれていたから、まさしく茨城の郡の内であった。土地の人々の伝えてきた言いならわしに、「水依(みづよ)り茨城の国」と言う。」
と書かれています。
現在の石岡の地に茨城郡の郡衙が移される前に、那珂郡の西部にその郡衙があったとあり、茨城郡の郡衙が移されたことが記されています。
さらに「水依(みづよ)り茨城の国」と言う表現ですが、「水依り」の表記は「「水泳(みづくぐ)る」のマチガイと考える説が有力ですが、茨城の名前の由来に「うまい水の依せるウマラキの意味との解釈もあるようです。前から気になった「水泳(くぐ)る茨城」の考え方も一つヒントを貰った気になりました。
これは前に百人一首にある在原業平の歌
「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
の水くくるの意味について、「くくり染め」という一般的な解釈がすっきりこないということにも通じます。
当ブログも2010年に始めて、13年目に入りました。
昔は毎日書いていたのですが、これは6年で断念しましたが、これからも細々とやっていきましょう。
今年の初めは、「常世の国(とこよのくに)」を少しまとめて紐解いて見たいと思います。
「常世の国」とは古代に不老不死の理想郷をそのような呼び方をしていたようです。
古事記、日本書紀、常陸国風土記などのこの「常世の国」という表現が使われています。
まずは身近な常陸国風土記に書かれている内容です。

まず、各郡の詳細などを現す前に「総記」として書かれた前文の最後に
「それ常陸の国は、境はこれ広大く、地も亦緬邈(はろか)にして、土壌(つち)沃墳(うる)ひ、原野肥衍(こえ)たり。墾発(ひら)きたる処、山海の利(さち)ありて、人々自得(ゆたか)に、家々足饒(にぎは)へり。設(も)し、身を耕耘(たつく)るわざに労(いたつ)き、力を紡蚕(いとつむ)ぐわざに竭(つく)す者あらば、立即(たちどころ)に富豊を取るべく、自然に貧窮(まづしさ)を免(まぬか)るべし。況(いはむ)や復(また)、塩と魚の味を求めむには、左は山にして右は海なり。桑を植ゑ、麻を種かむには、後は野にして前は原なり。いはゆる水陸の府臓、物産の膏腴(かうゆ)といへるものなり。
古(いにしへ)の人、常世の国といへるは、蓋(けだ)し疑ふらくは此の地ならむか。(原文:古人曰常世国、 蓋疑此地)
但、有るところの水田、上は少なく、中の多きを以ちて、年に霖雨(ながあめ)に遇はば、即ち苗子の登(みの)らざるを歎(なげき)を聞き、歳に亢陽(ひでり:好天気)に逢はば、唯穀実の豊稔(ゆたか)なる歓(よろこび)を見む」
(常陸国風土記 全訳注 秋本吉徳著)
ここでは奈良時代初頭に書かれた常陸国風土記には、古代の人が理想郷として考えていた「常世の国」とは、この常陸国のことを指していたのかもしれないと書いています。常陸国は山と海があり、また野原があってまさに理想郷のようだというのです。
ただし、その後に各地から伝わる気候の変化などで本来の理想郷とは違う土地の姿も書き加えています。
さて、理想郷である「常世の国」は海のかなたにあり、中国思想などのように山の上であったり、天上であったり・・・・
そのうちに海の中にある竜宮城などとも考えられたようです。
少しずつ、古代の常世の国が書かれた記述をこれから数回にわたって調べて見たいと思います。
常陸国風土記の記述でもう一箇所気になっているところがあるので書き加えておきます。
それは「茨城郡(うばらきのこほり)」のところです
「ここにいう茨城の郡は、今は那珂の郡に属しており、その西部にある。昔は、そこに郡衙が置かれていたから、まさしく茨城の郡の内であった。土地の人々の伝えてきた言いならわしに、「水依(みづよ)り茨城の国」と言う。」
と書かれています。
現在の石岡の地に茨城郡の郡衙が移される前に、那珂郡の西部にその郡衙があったとあり、茨城郡の郡衙が移されたことが記されています。
さらに「水依(みづよ)り茨城の国」と言う表現ですが、「水依り」の表記は「「水泳(みづくぐ)る」のマチガイと考える説が有力ですが、茨城の名前の由来に「うまい水の依せるウマラキの意味との解釈もあるようです。前から気になった「水泳(くぐ)る茨城」の考え方も一つヒントを貰った気になりました。
これは前に百人一首にある在原業平の歌
「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
の水くくるの意味について、「くくり染め」という一般的な解釈がすっきりこないということにも通じます。
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