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常世の国(4) 御毛沼命(みけぬのみこと)

 さて、古事記や日本書紀などの古代の記述にある「常世の国」には、ここまで書いた橘を持ち帰った田道間守(タヂマモリ)の他に行ったきりで帰ってこない人物がいます。
そんな人物に焦点を当ててみましょう。
まずは、御毛沼命(古事記:みけぬのみこと、日本書紀は三毛入野命)です。
あまり聞きなれない人物ですが、初代天皇となる神武天皇の兄です。
神武天皇は第4子で、御毛沼命はその上の第3子(または第2子)とされています。
名前の御(ミ)は敬称、毛(ケ)は食物、「沼」は「主」を表わしているといわれています。

常世の国(4)

さて、時代は神武東征のとき(『日本書紀』神武即位前紀)です。
神武東征時には、後の神武天皇となる弟の「神日本磐余彦尊(書紀)」「神倭伊波礼毘古命(古事記)」と共に九州高千穂から大和を目指して進んだとされますが、熊野で暴風雨にあい、母も海神であるのになぜこのように進むのを阻むのかと嘆き、「波頭を踏んで常世国に渡った」と書かれています。
たったこれだけです。

これは、常世の国は理想郷と言うよりは「霊界」的な意味合いを持つ場所と思われます。

ヤマトタケルが走水(神奈川県)から東京湾を富津岬(千葉県)に船で渡るときに、波が荒れ、それを妻の弟橘姫が自ら入水して波を鎮めた話とどこかで繋がっているように感じます。

御毛沼命は神武東征の人柱的な犠牲になったのでしょうか?

もっとも、東京湾で入水したとされる弟橘姫も常陸国風土記の行方郡の「相鹿(あうか)」及び、久慈郡の「遭鹿(あふか)」の地名由来としてここで倭武(ヤマトタケル)は皇后の大橘比命とめぐり会ったとされるので、古代の神話では常世の国へ渡っても死んだとは限らないでしょう。

この御毛沼命も高千穂へ舞い戻り、そこ(高千穂神社)で祀られてもいるのです。

さて、常世の国に行った話ではなく、伊勢神宮の創設に纏わる話の中に「常世の国」が出てきます。
さらっと書かれていてあまり注目はされないみたいですが、少し気になるので下記に書いておきます。

日本書紀 垂仁天皇の即位25年のところです。

(原文)
三月丁亥朔丙申、離天照大神於豊耜入姫命、託于倭姫命。
爰倭姫命、求鎭坐大神之處而詣菟田筱幡(筱、此云佐佐)、更還之入近江国、東廻美濃、到伊勢国。
時、天照大神誨倭姫命曰
是神風伊勢国、則常世之浪重浪歸国也、傍国可怜国也。欲居是国。」
故、隨大神教、其祠立於伊勢国。
因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也。

(解釈)
ここには、伊勢に天照大神を祀る神宮が移された経緯が書かれています。
年代としては垂仁天皇即位25年の三月です。神話の年号はこの頃は実際より2倍ほど早く進んでいるようですので、今から推察していけば西暦270年前後でしょうか。
天照大神が鎮座する地を求めてあちこち探し回るのですが、天照の係りを前の崇神天皇の娘である「豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)」から垂仁天皇の娘の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に替えます。まだ倭姫命は幼い子どのように思われますが、霊的能力が高かったようです。倭姫命は大神を鎮座する場所を求めて、菟田(ウダ)の筱幡(ササハタ)に至り、そして引き返して近江国から、東の美濃を巡って、伊勢国にやって来ました。そこで天照大神が倭姫命に言うのです。

「この神風の伊勢国は、常世の国から繰り返し浪が打寄せてはまた帰る国です。また、大和の国の側でももある「可怜国(ウマシクニ:すばらしい国)です。この国にいたいと思う」

そこで大神の教えに従って、ここ伊勢国に祠(ヤシロ)を建てたのです。
斎宮(イワイノミヤ)を五十鈴川の川上に立て、それは磯宮(イソノミヤ)といい、天照大神が初めて天より降りた場所です。

ここで、常世の国が伊勢国そのものを指すとも解釈できますが、垂仁天皇90年に田道間守(タジマモリ)が「非時香実=橘」を探しに常世の国へ遣わされますので、伊勢国には常世の国から波が打ち寄せ、帰ると解釈するべきでしょう。

「常世の国」を最初から読むには ⇒ こちら


常世の国 | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/01/07 10:37
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