鳥羽の淡海
最近少し真面目に読み始めた「常陸国風土記」だが、読み進めるに従っていろいろ疑問点が見つかってきた。
気がついたときにメモしておかないと後から探すのにも苦労すると思うので、このブログにメモ代わりに書いておきたいと思う。
最後は何かの形で書籍化をする予定だ。
今回は「騰波ノ江(とばのえ)」について
この騰波ノ江は、風土記の「筑波郡」に出てくる。
「郡の西十里に騰波の江在り。長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北はともに新治の郡、艮(うしとら:東北)は白壁の郡なり。」
また、その風土記が書かれた時にこの常陸国にいたとされる万葉歌人の高橋虫麻呂は当時筑波山に登って、次のような歌を詠んだ。
草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
思ひ積み来し 憂へは止みぬ
この新治の鳥羽の淡海が、「鳥羽の淡海=騰波の江」だ。
この「淡海」は「うみ」「おうみ」などと読まれるが、京(奈良・京都)から琵琶湖のことを「近つ淡海」、浜名湖のことを「遠つ淡海」と呼んでおり、大きな湖を指しての言葉だった。
また、この「遠つ淡海」は「遠江(とおとうみ)」となり、淡海は「江」とも表現された。
風土記を読んでいると、これらの区別を少しずつ理解しておかないと、解釈が違ってしまうこともありそうだ。
少し言葉を整理しておこう
・大海 ・・・ 平洋などの海
・淡海(うみ、おうみ)、江 ・・・ 現在の湖(淡水湖)
・○○の流海 ・・・ 霞ヶ浦(昔は海水がかなりおくまで流れ込んでいた気水湖)
・津・・・舟着き場(湊)
・湖(みなと) ・・・ 川の河口付近(水戸のこと)
:香島郡に「安是の湖」(銚子に近いところ)
:香島郡に「阿多加奈の湖」(涸沼から那珂川河口付近)
まずはこんなところだろうか?
この鳥羽の淡海の南端部は「下妻」だが、この「妻」もこれらに何か関係した言葉なのだろう。
少し地図に鬼怒川や小貝川などを書き込みながら当時の川の様子を想像してみている。

この鬼怒川は風土記の書かれた頃は「毛野河」で、この毛は昔の「毛国」を流れる川の意だった。
毛国は上下に別れ、上毛野国、下毛野国となり、2文字にする通達により、「上野(こうずけ)国」と「下野(しもつけ)国」になった。
2000年程前は、この鬼怒川は現国道125号線近くを西から東に流れ、小貝川と下妻の辺り(現:小貝川ふれあい公園)で、合流していたという。
またもっと昔は、この流れが現在の土浦市を流れる桜川に流れ込んでいたこともあったらしい。
現在の鬼怒川は守谷市あたりで利根川に合流し、小貝川はもう少し下流の利根町あたりで利根川に合流している。
この利根川は江戸時代に家康から3代にわたって東京湾への流れを銚子方面に人工的に付け替えたことはよく知られているが、この鬼怒川や、小貝川もこの流れの変更により大きく変化されているようだ。
江戸時代前は鬼怒川は守谷市手前辺りで小貝川と合流し、牛久沼の方に流れていた。
江戸時代の利根川東遷事業に伴ない、この守谷市付近で鬼怒川の流れを利根川まで掘削して流れを付け替える工事が行われた。
また、小貝川も牛久沼の先から霞ヶ浦に流れ込んでいたものを今の利根町あたりで利根川に流れを付け替える工事が行われた。
これは水害防止もあったが、船での物資運搬も考慮されたと思われる。
この鳥羽の淡海もいつ頃まであったのか、調べたがわからなかった。いつの間にかいくつかの沼になり、自然と湿地帯が広がっていき、そして最終的には江戸時代になって大規模な干拓が行われたようだ。
気がついたときにメモしておかないと後から探すのにも苦労すると思うので、このブログにメモ代わりに書いておきたいと思う。
最後は何かの形で書籍化をする予定だ。
今回は「騰波ノ江(とばのえ)」について
この騰波ノ江は、風土記の「筑波郡」に出てくる。
「郡の西十里に騰波の江在り。長さ二千九百歩、広さ一千五百歩なり。東は筑波の郡、南は毛野河、西と北はともに新治の郡、艮(うしとら:東北)は白壁の郡なり。」
また、その風土記が書かれた時にこの常陸国にいたとされる万葉歌人の高橋虫麻呂は当時筑波山に登って、次のような歌を詠んだ。
草枕 旅の憂へを 慰もる 事もありやと
筑波嶺に 登りて見れば 尾花散る
師付の田居に 雁がねも 寒く来鳴きぬ
新治の 鳥羽の淡海も 秋風に 白波立ちぬ
筑波嶺の 良けくを見れば 長き日に
思ひ積み来し 憂へは止みぬ
この新治の鳥羽の淡海が、「鳥羽の淡海=騰波の江」だ。
この「淡海」は「うみ」「おうみ」などと読まれるが、京(奈良・京都)から琵琶湖のことを「近つ淡海」、浜名湖のことを「遠つ淡海」と呼んでおり、大きな湖を指しての言葉だった。
また、この「遠つ淡海」は「遠江(とおとうみ)」となり、淡海は「江」とも表現された。
風土記を読んでいると、これらの区別を少しずつ理解しておかないと、解釈が違ってしまうこともありそうだ。
少し言葉を整理しておこう
・大海 ・・・ 平洋などの海
・淡海(うみ、おうみ)、江 ・・・ 現在の湖(淡水湖)
・○○の流海 ・・・ 霞ヶ浦(昔は海水がかなりおくまで流れ込んでいた気水湖)
・津・・・舟着き場(湊)
・湖(みなと) ・・・ 川の河口付近(水戸のこと)
:香島郡に「安是の湖」(銚子に近いところ)
:香島郡に「阿多加奈の湖」(涸沼から那珂川河口付近)
まずはこんなところだろうか?
この鳥羽の淡海の南端部は「下妻」だが、この「妻」もこれらに何か関係した言葉なのだろう。
少し地図に鬼怒川や小貝川などを書き込みながら当時の川の様子を想像してみている。

この鬼怒川は風土記の書かれた頃は「毛野河」で、この毛は昔の「毛国」を流れる川の意だった。
毛国は上下に別れ、上毛野国、下毛野国となり、2文字にする通達により、「上野(こうずけ)国」と「下野(しもつけ)国」になった。
2000年程前は、この鬼怒川は現国道125号線近くを西から東に流れ、小貝川と下妻の辺り(現:小貝川ふれあい公園)で、合流していたという。
またもっと昔は、この流れが現在の土浦市を流れる桜川に流れ込んでいたこともあったらしい。
現在の鬼怒川は守谷市あたりで利根川に合流し、小貝川はもう少し下流の利根町あたりで利根川に合流している。
この利根川は江戸時代に家康から3代にわたって東京湾への流れを銚子方面に人工的に付け替えたことはよく知られているが、この鬼怒川や、小貝川もこの流れの変更により大きく変化されているようだ。
江戸時代前は鬼怒川は守谷市手前辺りで小貝川と合流し、牛久沼の方に流れていた。
江戸時代の利根川東遷事業に伴ない、この守谷市付近で鬼怒川の流れを利根川まで掘削して流れを付け替える工事が行われた。
また、小貝川も牛久沼の先から霞ヶ浦に流れ込んでいたものを今の利根町あたりで利根川に流れを付け替える工事が行われた。
これは水害防止もあったが、船での物資運搬も考慮されたと思われる。
この鳥羽の淡海もいつ頃まであったのか、調べたがわからなかった。いつの間にかいくつかの沼になり、自然と湿地帯が広がっていき、そして最終的には江戸時代になって大規模な干拓が行われたようだ。
以前、下妻市大宝には、大宝沼という沼がありました。
鳥羽の淡海の残った部分だったのかなと思います。
個人的な意見、失礼いたしました。
おっしゃる通り、大宝沼があったですね。
昔、大宝八幡宮や大宝城、関城などを見学しましたが、大宝沼の記述がありました。
大生天満宮あたりも結構沼だったようですね。
またコメントください。