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鹿島神宮(6 )跡宮

 鹿島神宮近くに「跡宮」という場所があるのをご存知ですか?
大生神社とは違います。大生神社は「元宮」などと呼ばれていますね。

場所は昨日紹介した「郡家跡:神野向遺跡」の丁度真西方向です。
鹿島小学校の脇の道を真直ぐに南に行く進み、高台の台地の先端部分です。
住所は「神野」です。

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現在はこの道も下へ降りて続いていますが、恐らく昔はこの下は一の鳥居のある大船津から水辺が広がっていたと思われます。

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跡宮はこの処をしたには降りずに、右手に曲がった所にあります。
このような鳥居があるのですぐわかると思います。

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少し行った所に神社がありますが、その手前に広場に木柵で四角く囲まれた場所があります。

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ここが跡宮といわれる場所でしょう。
ただ説明にもありますが、香島の天の大神がここに降り立った場所でもあり、鹿島から春日山にタケミカヅチの御分霊はここから飛び立ったといわれる場所です。

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説明にあるとおり、「物忌(ものいみ)」と呼ばれた巫女が住んでいた場所だそうです。
物忌は汚れ無き少女を亀も甲羅で卜して選んだそうで、少女の時から一生男子禁制の場所で過ごしたようです。
記録では全部で27人といいますので、それ程多くに人ではありませんが、一生を奉仕に捧げたそうですので大変なことだと思います。

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直ぐ横に、神社としての「跡宮」があります。

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ここは鹿島神宮の摂社の一つですが、地形を見ると、一の鳥居のある大船津にも近く、防人たちの「鹿島立ち」したのもこのあたりから下に下りて船で伊勢、奈良、大坂などに向かったのでしょう。
神野向遺跡とは東西関係にありますが、比較的近い場所でもありどのような関係にあったのかは大変興味をかんじる場所でもあります。

次回はここまで書いた香島郡の遺跡などを地図でその位置関係などを見てみたいと思います。


常陸国風土記と共に | コメント(2) | トラックバック(0) | 2023/03/07 22:12
コメント
No title
確かに鹿島神宮と大和との関係は興味深いですね。海進の時期、この地方と中部、関西の豪族との関係には興味があります。茨城の古墳形式から見ると中部系の後関西系が来たとも、本に書いてありました。
kincyanさん
 コメント有難うございます。
鹿島神宮と中部、関西の豪族? それも海進の時というともうわかりません。
私の知識もせいぜい1000年~1500延前位ですね。

確かに常陸国風土記を読むと見えてくるものもありますが、それが後の藤原氏や春日大社あたりの関係によるのか、その前なのかがわかりにくいですよね。
今テレビの朝ドラに出てくる九州の五島列島などともしかしたら同じ民族がやってきたのかもしれないなどと思うことがあります。
海人族の活動範囲などがよくわからずに、好き勝手に推論して楽しんでいます。

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