鹿島神宮(7)拝殿の向き
香島の天の大神の関係を追いかけてきて、やはりこれらの神社などの向きが気になります。
勿論これは鹿島灘や鹿島地方がある台地の方向に関係していると思われますが、一応検証してみましょう。
まず、神宮の拝殿の向きです。

このように北北西を向いています。
ただこれも手で書かれた地図であり余り細かく見ても正確と言えるかどうかはわかりません。

では、神宮本殿(拝殿)と郡家(神野向遺跡)などの位置関係です。
これも社殿の位置関係などで示していますが、大雑把であり、ほぼ北北西にほぼ等間隔に並んでいるといっていいでしょう。
ただ、前の境内の配置図の方向とは必ずしも一致せず、少しずれています。

ではもっと広げて、常陸国一宮(鹿島神宮)と二宮(静神社)を結んでみました。
しかし前の地図の線とは少し方向がずれました。
まあ誤差範囲として大きくくって見ればほぼ同じ方向といえます。
ではこの地図に三宮(吉田神社)を載せると、ほぼこの直線の下にきます。
これも細かな話をすれば正確とまではいえません。
さらに鹿島から水戸方面に進出し、那珂国の国造(くにのみやつこ)に任じられたタケカシマの墓といわれる水戸市愛宕町にある「愛宕山古墳」を書いてみると、やはりこの線の下あたりに来ます。
地図には那珂郡郡家といわれる台渡里(長者屋敷跡)場所も示します。
少しずれはありますがやはり近くにきます。
これも三本の線の角度がみな微妙に違いますので、都合よく線を引いただけかもしれません。
しかし、タケカシマが制圧できなかった天香香背男(あめのかかせお)を倒した、建葉槌神が祀られている常陸国二宮の静神社
もこの鹿島神宮に高房神社が置かれた経緯もどこかでつながりがありそうです。
まあ一般には東北(蝦夷地方)へのにらみを利かせているなどと言われていますので、その程度に思うのも良いでしょうね。
また、三宮の吉田神社も常陸国へやってきた平氏一族がここに進出して吉田氏を名乗り、府中(石岡)の大掾(だいじょう)氏を輩出し、行方二郎、鹿島三郎と常陸国南部を排出した家柄ですので、常陸国には大いに関係があり、大昔に何かあったのかも気になる所です。佐竹氏もこの吉田氏から娘を嫁に迎えて勢力を伸ばしています。
また、石岡の鹿の子遺跡場所から台渡里まで昔の官道が通っていたことも確認されますので、この方向も反対方向ですが意味があるかもしれません。
勿論これは鹿島灘や鹿島地方がある台地の方向に関係していると思われますが、一応検証してみましょう。
まず、神宮の拝殿の向きです。

このように北北西を向いています。
ただこれも手で書かれた地図であり余り細かく見ても正確と言えるかどうかはわかりません。

では、神宮本殿(拝殿)と郡家(神野向遺跡)などの位置関係です。
これも社殿の位置関係などで示していますが、大雑把であり、ほぼ北北西にほぼ等間隔に並んでいるといっていいでしょう。
ただ、前の境内の配置図の方向とは必ずしも一致せず、少しずれています。

ではもっと広げて、常陸国一宮(鹿島神宮)と二宮(静神社)を結んでみました。
しかし前の地図の線とは少し方向がずれました。
まあ誤差範囲として大きくくって見ればほぼ同じ方向といえます。
ではこの地図に三宮(吉田神社)を載せると、ほぼこの直線の下にきます。
これも細かな話をすれば正確とまではいえません。
さらに鹿島から水戸方面に進出し、那珂国の国造(くにのみやつこ)に任じられたタケカシマの墓といわれる水戸市愛宕町にある「愛宕山古墳」を書いてみると、やはりこの線の下あたりに来ます。
地図には那珂郡郡家といわれる台渡里(長者屋敷跡)場所も示します。
少しずれはありますがやはり近くにきます。
これも三本の線の角度がみな微妙に違いますので、都合よく線を引いただけかもしれません。
しかし、タケカシマが制圧できなかった天香香背男(あめのかかせお)を倒した、建葉槌神が祀られている常陸国二宮の静神社
もこの鹿島神宮に高房神社が置かれた経緯もどこかでつながりがありそうです。
まあ一般には東北(蝦夷地方)へのにらみを利かせているなどと言われていますので、その程度に思うのも良いでしょうね。
また、三宮の吉田神社も常陸国へやってきた平氏一族がここに進出して吉田氏を名乗り、府中(石岡)の大掾(だいじょう)氏を輩出し、行方二郎、鹿島三郎と常陸国南部を排出した家柄ですので、常陸国には大いに関係があり、大昔に何かあったのかも気になる所です。佐竹氏もこの吉田氏から娘を嫁に迎えて勢力を伸ばしています。
また、石岡の鹿の子遺跡場所から台渡里まで昔の官道が通っていたことも確認されますので、この方向も反対方向ですが意味があるかもしれません。
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