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若海香取神社

 常陸国風土記の行方郡。
ここまで、現原の丘、鴨の宮と書いて来ましたが、この鴨野の北として書かれている場所を見てみましょう。
 「野の北に、櫟(いちい)・柴(くぬぎ)・鶏頭樹(かへりで)等の木、往々森々りて、自ら山林を成せり。即ち、枡の池有り。此は高向の大夫(まへつぎみ)の時、築きし池なり。北に香取の神子の社有り。社の側の山野は、土壌腴衍(こへ)て、草木密生れり。」
とあります。でもこの記述について、あまり詳しい記載がされているものもありません。

その前の文では、「鴨野」は土壌塉捔(やせ)て・・・・ とあるのに対し、こちらは土壌腴衍(こへ)て・・・と対照的に書かれています。
そこで、「鴨野=鴨の宮地区や加茂地区」に比べて当時、人々が暮らすには良い場所で、「香取の神子の社」があるところを探してみます。何か土地柄にそんな差がある場所なのでしょうか?

若海香取神社2

現在の地図(航空写真)で見てみましょう。
ここに前に書いた「現原の丘」看板位置と、鴨の宮の2箇所の場所を書き込み、今回書かれている「香取の神子の社」と思われる「若海香取神社」及び、「捻木香取神社」及び、この後に出てくる提賀の里の北にあるとされる「香島の神子の社」の遺称地という「大宮神社」の位置を記しておきます。
この大宮神社は確かに古社であり、タケミカヅチが祭られていますので、鹿島の神の神社ですが、こちらの風土記に書かれている場所は現在地よりもう少し東にあったように思われますので、後に現在地に移されたものかもわかりません。。

風土記の本に書かれている「香取の神子の社」が捻木と若海地区のどちかであろうとありますが、梶無川の東側が行方郡であったという推定により、若海香取神社がもっとも遺称地と考えられそうです。

ということで、この若海香取神社に行って見ました。

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県道116号を梶無川に沿って上流側に向かい、若海ゴルフコースという案内にしたがってきれいに舗装された道路を東へ登っていきます。
少し行った先に気になる社がありました。
「若海観音堂」となっています。
ただ、このお堂の謂れなどはまだよく知れべていませんのでわかりません。

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その観音堂から少し行った道沿いに「香取神社」の入り口看板があります。

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神社の本殿

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かなり古くからある神社のようです。

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道路とほぼ平行に参道があり、東側に鳥居があります。

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また、神社の入口に近い道路沿いに「若海貝塚」の立て看板が置かれていました。
この香取神社もこの貝塚の上に立てられているようです。
もちろんこの前の舗装されたきれいな道路も貝塚を削り取ってしまっているようにも思います。
ここも、ゴルフ場開発により作られた道路でしょう。

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この貝塚も規模が大きく、ここの発掘で、人骨、それも当時の人としてはかなり大柄な身長が170cm前後の男性の骨が見つかったというのです。
なぜ、貝塚に人骨があったのか、当時の埋葬形式ではないで棄てられたのか?
謎のようです。

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さてこの神社の下は、広々とした谷津田が広がっております。
神社から少し東へ進んだあたりから見下ろすと、枡池のような灌漑用の池もあります。
池が築かれたのは「高向の大夫(まへつぎみ)の時」とあります。
また、この行方郡は653年に茨城郡の国造らと那珂郡の国造らが惣領であった「高向の大夫(まへつぎみ)」らに申し出て、2つの郡の領地を分けて設けられたともあります。
時代はやはりこの653年頃だと思われます。
また高向(たかむく)氏族は武内宿禰後裔氏族の一つだそうです。
やはり灌漑用に作られた池だったのだろうと思われます。

若海

このあたりに昔も枡の池があったのかもしれません。

風土記によればこのあたりは土地が肥えていて草木も密集していたと書かれています。
貝塚があり、かなり昔から縄文人が暮らしていたのでしょう。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/12 07:20
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