現原の丘
常陸国風土記は現在完全な物はなく、全て省略本でしかない。
その中で「行方郡」は、今残されている写本で「不略之=略かず」と注記されている唯一の郡になる(総記も短いが省かれていない)。
そのため、結構細かなことまでを詳細に記述がされている。
恐らく、他の郡も同じように省かれる前は、細かなところまで記述されていたのではないかと考えても不思議儀ではない。
また、この行方郡も現在の玉造・井上・芹沢あたりから徐々に南下していき、潮来(板来)地方まで順番に書かれている。
1300年も前の事でもあり、当時の地形や町や集落の様子などは全く違っていたであろうから、書かれている場所を正確に探すことはかなり困難でもある。
地名として残されていたりしても、そこが当時からそのように呼ばれていたとは限らない。
まあ、それでもこのあたりのことを言ったのであろうと推察して楽しむことはできる。
そんなところを勝手に推察したりしていくのもまた良いだろうということで、勝手に決めた遺称地なるものをいくつか載せて見よう。
まずは、行方(なめかた)の地名由来とされている現原(あらはら)の丘からの眺めである。
風土記には
「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、車駕(みこし)を廻らして、現原(あらはら)の丘に幸し、御膳を供へ奉りき。時に、天皇、四を望みまして、侍従を顧て曰りたまひしく、「・・・・・・此の地の名を、行細(なめくわし)の国と称ふべし」とのりたまひき。・・」
と書かれています。
この現原の丘からの眺めがまるで山や谷などが、細かなヒダのように織り成していて行細しと言う表現がぴったりするから「行方(なめかた)」と言うのだと・・・・
まあ、この名前の説明はこじつけであることは明らかですが、その話は別にして、この現原の丘がどこかと言うと、これは行方市の教育委員会で指定されている場所があります。
梶無川を上流に行った芹沢地区に近い場所です。
河童伝説でおなじみの手奪橋の直ぐ横に架かる橋を渡って、玉造工業高校の方へ少し進んだところに「現原の丘」の矢印看板が出ています。(玉造工業高校側からは約1.7kmです)
この看板にしたがって右に進むとこのようなゴルフコースの案内板があります。

玉造ゴルフクラブの若海コース

そして坂を登る道が続きますが、両脇はゴルフ場のきれいな芝のエリアが広がり、その間をこのような金網のフェンスで仕切られた道を進みます。

途中に左右をゴルファーが行き来できる解放された場所もあり、また上を渡る歩行者用の橋もあります。

そしてゴルフ場の途切れたあたりが水田(今は水は無い)となっていて、そこに「現原の丘」の看板があります。

風土記の内容は説明看板を読んでください。
行方の名前由来は私も含めて、別な解釈もたくさんありますので、ここにはこのように書かれているとだけ書いておきましょう。

それにしても現原の丘はこの看板のところと言うよりは、現在のゴルフ場そのものの場所でしょうね。
優雅にプレーをしておられる人たちもおられましたが、このように一部が残されているだけでも仕方ないかもしれませんね。
行政的な市町村合併の歴史を見て見ましょう。
1889年(明治22年)4月1日に「捻木村」・「若海村」・「芹沢村」・「谷島村」が合併し「行方郡現原村」が発足し、昭和30年に玉造町に編入されています。
常陸国風土記にはこの行方郡と隣の茨城郡との境はこの梶無川となっていますが、明治22年に発足した「現原村」のうち、捻木(ねじき)村と谷島村は川の西側ですので、昔は茨城郡であったかもわかりません。
現在の看板がある場所は昔は「若海(わかうみ)村」です。
もっとも地元の人は「わかうみ」とは発音しないようで「わごうみ?」と呼んでいるのかも知れません。
ただ住所表示のふりがなは「わかうみ」となっていました。
その中で「行方郡」は、今残されている写本で「不略之=略かず」と注記されている唯一の郡になる(総記も短いが省かれていない)。
そのため、結構細かなことまでを詳細に記述がされている。
恐らく、他の郡も同じように省かれる前は、細かなところまで記述されていたのではないかと考えても不思議儀ではない。
また、この行方郡も現在の玉造・井上・芹沢あたりから徐々に南下していき、潮来(板来)地方まで順番に書かれている。
1300年も前の事でもあり、当時の地形や町や集落の様子などは全く違っていたであろうから、書かれている場所を正確に探すことはかなり困難でもある。
地名として残されていたりしても、そこが当時からそのように呼ばれていたとは限らない。
まあ、それでもこのあたりのことを言ったのであろうと推察して楽しむことはできる。
そんなところを勝手に推察したりしていくのもまた良いだろうということで、勝手に決めた遺称地なるものをいくつか載せて見よう。
まずは、行方(なめかた)の地名由来とされている現原(あらはら)の丘からの眺めである。
風土記には
「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、車駕(みこし)を廻らして、現原(あらはら)の丘に幸し、御膳を供へ奉りき。時に、天皇、四を望みまして、侍従を顧て曰りたまひしく、「・・・・・・此の地の名を、行細(なめくわし)の国と称ふべし」とのりたまひき。・・」
と書かれています。
この現原の丘からの眺めがまるで山や谷などが、細かなヒダのように織り成していて行細しと言う表現がぴったりするから「行方(なめかた)」と言うのだと・・・・
まあ、この名前の説明はこじつけであることは明らかですが、その話は別にして、この現原の丘がどこかと言うと、これは行方市の教育委員会で指定されている場所があります。
梶無川を上流に行った芹沢地区に近い場所です。
河童伝説でおなじみの手奪橋の直ぐ横に架かる橋を渡って、玉造工業高校の方へ少し進んだところに「現原の丘」の矢印看板が出ています。(玉造工業高校側からは約1.7kmです)
この看板にしたがって右に進むとこのようなゴルフコースの案内板があります。

玉造ゴルフクラブの若海コース

そして坂を登る道が続きますが、両脇はゴルフ場のきれいな芝のエリアが広がり、その間をこのような金網のフェンスで仕切られた道を進みます。

途中に左右をゴルファーが行き来できる解放された場所もあり、また上を渡る歩行者用の橋もあります。

そしてゴルフ場の途切れたあたりが水田(今は水は無い)となっていて、そこに「現原の丘」の看板があります。

風土記の内容は説明看板を読んでください。
行方の名前由来は私も含めて、別な解釈もたくさんありますので、ここにはこのように書かれているとだけ書いておきましょう。

それにしても現原の丘はこの看板のところと言うよりは、現在のゴルフ場そのものの場所でしょうね。
優雅にプレーをしておられる人たちもおられましたが、このように一部が残されているだけでも仕方ないかもしれませんね。
行政的な市町村合併の歴史を見て見ましょう。
1889年(明治22年)4月1日に「捻木村」・「若海村」・「芹沢村」・「谷島村」が合併し「行方郡現原村」が発足し、昭和30年に玉造町に編入されています。
常陸国風土記にはこの行方郡と隣の茨城郡との境はこの梶無川となっていますが、明治22年に発足した「現原村」のうち、捻木(ねじき)村と谷島村は川の西側ですので、昔は茨城郡であったかもわかりません。
現在の看板がある場所は昔は「若海(わかうみ)村」です。
もっとも地元の人は「わかうみ」とは発音しないようで「わごうみ?」と呼んでいるのかも知れません。
ただ住所表示のふりがなは「わかうみ」となっていました。
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