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当麻の郷

 常陸国風土記の行方郡の後半の記述に現鉾田市あたりの事が書かれている。

「都より東北十五里に当麻(たぎま)の郷(さと)あり。古老の曰へらく、倭武の天皇(ヤマトタケル)、巡り行でまして、此の郷を過ぎたまふに、佐伯、名は鳥日子(とりひこ)と曰ふもの有り。其の命に逆ひしに縁りて、随便ち(すなはち)略殺したまひき。即(すなは)ち、屋形野の帳の宮に幸(いでま)ししに、車駕の経るところの道狭く地深浅しかりき。悪しき路の義を取りて、当麻(たぎま)と謂ふ。・・・野の土(つち)埆(や)せたり。然れども紫艸(むらさき)生ふ。二つの神子の社あり。其の周の山野に、櫟(いちい)・柞(ははそ)・栗・柴、往々林を成し、猪・猴(さる)・狼、多に住めり。」

この悪路でデコボコしている様を、この地方の言葉で「たぎたぎし」というともあり、この言葉から「当麻(たぎま)」となったとされ、今の鉾田市「当麻(とうま)」がその場所と考えられています。

そこに二つの神子の社があったということで、これは鹿島(香島)と香取の二つの社があったと解釈されるのですが、上記風土記の表現では2つの社なのか、1つの社に鹿島の神と香取の神が祀られているのがはっきりしない。

そこで、地図を頼りに少し探してみた。

当麻

この当麻地区の西側境界を「巴川」という一級河川が流れている。
この川沿いを上流に進むと、「鹿島神社」があり、その少し東に「黒栖神社」という神社があった。
この川沿いの道はそのまま少し行くと、先日紹介した親鸞上人ゆかりの「無量寿寺」に行く。

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この道から右に車がやっと通れるかどうかと言うくらいの比較的細い道がある。
その入口角に「村社鹿島神社」という石柱が立てられている。

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神社の社殿はここから少し山を登った所にあるが、余り道はよくなく、「危険登るな」などという地元小学校の立て看板などがあった。
私も、登りに適した靴もはいていなかったので、上に行くのはあきらめた。

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そこから地図ではこの細い道を少し行った所に「黒栖神社」があるはずで、車は通りの空き地において歩いて向かった。

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少し行った所に神社の鳥居が見えた。

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どういうことかわからないが、この黒栖神社と思われる神社は「村社鹿嶋神社」と書かれていた。
先程あった神社は同じ村社だが「島」と「嶋」と漢字が違っている。
昔も同じ村同士だと思うが、どちらも村社である。

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入り口にあった神社よりもこちらは拝殿・本殿ともに立派である。
地図を眺めていると、川の反対側(西側)に「香取鹿島神社」という神社もあった。

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少しわからなくなり通りへ戻ったが、巴川へ下っていくこの道も、昔はもっと河の水量も多かったであろうし、江戸時代には船で荷物を運ぶために、涸沼に注ぐ川とこちらの上流地点を水路で繋ぐ計画も進んでいたようだ。

常陸国風土記にはこの地方にいて、成敗された現地人(佐伯)の名が「鳥日子(とりひこ)」というと書かれている。
この当麻の北の地域は「鳥栖(とりす)」という。
どこか発音も似ている。

黒栖(くろす)と言う名前にも何か意味合いがありそうに思う。
現地に行く前は、この黒栖神社が香取神社から鹿嶋神社に変ってしまった(このありではよくあること)と思っていたのだが、もう少し深い意味合いがあるのかもしれない。

また、鹿島と鹿嶋だが、現在の鹿嶋市誕生時に九州佐賀県に「鹿島市」がすでにあったため、「鹿嶋市」となったと思い込んでいたが、市のHPなどを読むとそればかりともいえないようだ。
かなり昔から「鹿島」と「鹿嶋」は両方混在して使われていたという。

参考まで:鹿嶋の地名の由来と表記 ⇒ こちら



常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/13 05:50
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