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麻績王(をみのみこ)のこと

常陸国風土記の行方郡の後半に、気になる記述があった。

「郡の南二十里(約10km)に、香澄の里あり。・・・・・・・・此の郷(霞の郷)より以西の海の中の北の洲を新治の洲と謂う。・・・・・・・・
此れより往南十里(約5km)に板来の村あり。近く海浜に臨みて、駅家を安置けり。此を板来の駅と謂う。その西、榎木、林を成せり。飛鳥の浄見原の天皇の世(天武天皇と持統天皇2台代)、麻続王(をみのみこ)を遣らひて居処らしめき。其の海に、塩を焼く藻・海松(みる)・白貝(おふ)・辛螺(にし)・蛤(うむぎ)、多に生へり。」

板来(潮来)の駅家(うまや)は府中(石岡)から鹿島への官道の途中に設置された陸路の駅だが、陸路は810年前後に廃止されたらしい。やはり荷物を運んだりするのも馬より船が良かったのだろう。
この板来の駅家がどこにあったかははっきりしていない。
現在潮来市街地にある「長勝寺」の境内にこの駅家(うま)跡の標識板が置かれている。

潮来駅家

ただ、廃止されたのも早く、実際の駅家のあった場所ははっきりしていないようだ。当時もう少し東側の内陸部にあったのではないかと推測している。潮来の町の東側に「辻」という場所がある。
この辻は昔は「津知村」と言っており、南北に細長い地形に広がっている。

近くに「津=湊」があったことを感じさせる。元々「辻」の言葉は、街道から津の方向に向かう分かれ道部分(津を知る)につけられて、それが「辻」に変わっていったのだと思っている。
この常陸国風土記には、この駅家の西に麻績王がここに派遣されて住んでいた。と書かれている。
これが問題の箇所だ。

麻績王は「麻続王」とか「麻續王」などとも書く。

1) 日本書紀の記述(天武天皇4年夏4月の条)では675年に罪があり、因播に流され、その子供2人が伊豆嶋と血鹿嶋に流されたとなっている。

原文から見てみましょう。

(原文)
庚寅、詔諸國曰「自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類。亦、四月朔以後九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」
辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。
丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。

(現代語訳)
(夏四月)十七日、諸国に詔して、「今後、漁業や狩猸に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。四月一日以後、九月三十日までは、隙間のせまい梁を設けて魚を獲ってはならぬ(稚魚の保護)。また牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない。もし禁を犯した場合は処罰がある」と言われた。
十八日(675年5月17日)、三位麻続王(おみのおおきみ)に罪があって因幡(いなば)に流された。一子を伊豆島(いずのしま)に、一子を血鹿島(ちかのしま)(長崎の五島列島)に流した。
二十三日、種々の才芸のある者を選んで禄物を賜わった。
この月、新羅の王子忠元(ちゅうげん)が難波(なにわ)に着いた。

このように、因播=因幡(いなば)=鳥取県で、伊豆嶋=伊豆島=伊豆のどこかの島で、血鹿嶋=値嘉島(ちかのしま)=(長崎の五島列島)と一般には解釈されています。値嘉島(ちかのしま)という島の名前はありませんが、昔の五島列島をそのように呼んでいたようです。NHKの朝ドラに出てくる五島列島の島の名前も「知嘉島」という名前ですが、実際には現在存在しません。

さて、常陸国風土記の地から見ると、因播=印旛(いんば、いには)? とか 血鹿嶋=鹿嶋 ではないかなどとも考えてしまいます。
それにこの風土記は麻績王が、板来(潮来:いたこ、いたく)にやって来て住んでいたとなると日本書紀の一般的な解釈の場所と違いがありすぎる。風土記が書かれたのは、この麻績王が流されて50年ほど後の事であり、それほど年数も経っていないので、意外にこの記述は正しいのではないかと思える。
麻続王は貴族でその位が三位というのでかなり上の位になる。一位、二位などは全部で3人ほどしかいないようなので、上位4~5番目くらいになるし、朝廷の一族とも考えられる。
一般的にはこの麻績氏は麻(を)を績(う)むということからの名前で、麻を細く裂いてより合わせて麻糸をつくることを職業とする集団と言われていますが、いわゆる「海人族」の共通の先祖としてあがめられているといいます。

2) 日本書紀の記述と違った記述が万葉集にある。

 (2-1) 万葉集 第一 23番 読人不知(麻績王を哀れんで人々が詠んだ歌)
(原文)
麻績王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌

打麻乎 麻績王 白水郎有哉 
射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須

(読み下し)
打麻を 麻績王 白水郎なれや 
  伊良虞の島の 珠藻刈ります

(意味)
麻績王が伊勢国の伊良虞島に流されたときを哀傷して作った歌(詠み人知らず)

麻績王は漁師(海人)であられるのか
 いいえ、漁師(海人)でもないのに伊良虞の島のよい藻を刈っておられる

(注)
伊良虞(いらご)の島:現在の渥美半島の伊良湖岬辺りではないかという。
この時代は伊勢とも距離は近く、この辺りの島は伊勢国に属していたようです。
伊賀国から行く古東海道も、伊賀から伊勢に行き、伊勢からは陸路より船で海路の方が一般的だったようです。
ここでは確かに伊勢国となっていますが、「いらご」という名前は昔の潮来も古代には呼ばれていたらしく、この「いらご」が「いたこ」となったという説もあるようです。ただこの「いらご」の意味はよく判っていません。またこの情報も、どこまでが正確な情報であるかもはっきりしません。

地名では「砂」と書いて「いさご」と読むところは近くにもあります。これは「石子」が細かな石で「いさご=砂」となったといわれています。また砂鉄のことも「いさご」ともいうらしいです。
その他に浜の真砂(まさご)などという言葉もありますね。でも「いらご」と「いさご」は明らかに違いますね。

 (2-2) 万葉集にはこの詠み人知らずの麻績王を憐れんだ歌に対する麻績王の返答の歌も載っています。
実際に会っての歌ではなく、人伝に聞いて、それに寄せた返歌のようです。

 万葉集第1巻 24番 作者:麻績王

(原文)麻績王聞之感傷和歌

空蝉之 命乎惜美 浪爾所湿 
伊良虞能嶋之 玉藻苅食

(読み下し)
うつせみの 命惜しみ 浪にぬれ 
  伊良虞の島の 玉藻刈りをす
(意味)
 この世の命が惜しいので波に濡れて
伊良虞の草を刈って食べているのです

どうですか? 確かにこれだけでは、万葉集には伊勢国の伊良虞島とはっきり書かれていますので、万葉集の編者は渥美半島あたりを伊良虞島と思って書いていると思います。
因播に流されたといいながら、罪を軽減されて、近くの伊良虞へ流されたなどとも考える方もおられるようですが、常陸国風土記では潮来に来たといているのですから、どちらが本当なのでしょう。

ただ、潮来近辺を調べただけでは麻績王のいたと思われる地名などは見つかりません。
しかし、昔は舟で潮来からも近い下総国にはこの痕跡と思われる場所が存在します。

平安時代の倭名類聚抄(倭名称)に当時の郡名と郷名が書かれていますが、下総(しもふさ)国・海上(うなかみ)郡の中に15の郷名が書かれていますが、その一つに「麻續(をみ)郷」があるのです。
この場所は今の香取市小見川(旧小見川町)地域です。
例によってFlood Maps地図で海面の高さを+5mして見ました。

麻績郷

地図に示したように潮来からは昔の内海「香取の海」ではすぐ対岸になります。
ただ、5m海面が上昇するだけで、このあたりは殆んど水没してしまいます。
ただ、このように山側に入り込んだ内海の回りは獲物を取り過ごすにはとても良い環境だったのではないかと思われます。
現在、小見川駅方面から内陸のほうに進むと、あたり一面は水田が広がりその奥の山に府馬の大クスという古木があり、そこの公園の展望だからこの平野部が一望できます。
そこに書かれた説明にはこの平野部は「麻績千丈ヶ谷」と呼ばれているとありました。
(参考:以前書いた「麻績千丈ヶ谷」記事 ⇒ こちら

また、この麻績郷の隣の山側の地域はとても貝塚の多いところで、古代は「編玉郷」と呼ばれていた地域です。
貝塚としては国の史跡でもある「阿玉台貝塚」「良文貝塚」などがあり、中世の千葉氏の祖とも言われた平良文が住んだ場所でもあります。
この編玉郷にある「豊玉姫神社」はその名の通り「海人」族の象徴とも言える豊玉姫が祀られており、江戸時代までは編玉郷の総社で「編玉総社大宮大明神」といったそうです。
(参考:豊玉姫神社の記事 ⇒ こちら

まさにこのあたりには海人族がかなり前から移り住んでいたと思われます。

まあ、これだけではこれ以上の探求も難しそうですが、これからの展開もまたあるかもしれません。

<全国の地名> 参考まで

麻績の付く所:
長野県東筑摩郡麻績村 ナガノケンヒガシチクマグンオミムライカニケイサイガナイバアイ
愛知県稲沢市北麻績町 アイチケンイナザワシキタオウミチョウ
愛知県稲沢市南麻績町 アイチケンイナザワシミナミオウミチョウ

小見という地名
山形県酒田市小見 ヤマガタケンサカタシオミ
山形県西村山郡大江町小見 ヤマガタケンニシムラヤマグンオオエマチオオミ
福島県会津若松市神指町小見 フクシマケンアイヅワカマツシコウザシマチオミ
茨城県石岡市小見 イバラキケンイシオカシオミ
栃木県佐野市小見町 トチギケンサノシオミチョウ
埼玉県行田市小見 サイタマケンギョウダシオミ
埼玉県比企郡川島町小見野 サイタマケンヒキグンカワジママチオミノ
埼玉県比企郡川島町上小見野 サイタマケンヒキグンカワジママチカミオミノ
埼玉県比企郡川島町下小見野 サイタマケンヒキグンカワジママチシモオミノ
千葉県香取市小見 チバケンカトリシオミ
千葉県香取市小見川 チバケンカトリシオミガワ
新潟県新潟市南区中小見 ニイガタケンニイガタシミナミクナカオミ
新潟県新潟市西区小見郷屋 ニイガタケンニイガタシニシクオミゴウヤ
新潟県新発田市小見 ニイガタケンシバタシオミ
新潟県糸魚川市小見 ニイガタケンイトイガワシオミ
新潟県岩船郡関川村小見 ニイガタケンイワフネグンセキカワムラオウミ
新潟県岩船郡関川村小見前新田 ニイガタケンイワフネグンセキカワムラオウミマエシンデン
富山県富山市小見 トヤマケントヤマシオミ

 ~ 以上 ~


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/14 12:51
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