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難破船とうつろ舟

 さて、常陸国風土記も一般によく引用やお話しに扱われる話も結構ありますが、全く無視されている箇所もたくさんあります。
まあ、ここでは余り説明も殆んど無い箇所を主に取り扱っていますが。
昨年くらいから、この江戸時代にUFOか? とか 養蚕伝承との関係は? とか 瀧澤馬琴の話し とか新聞や展示会などいろいろ取り上げられています。
どこまでが本当にあった話なのかはここでは検証はしませんが、常陸国風土記に書かれている記事の中に少し気になる箇所がありました。
一般にはただ素通りして読み進める程度なのですが・・・・・・・

「軽野より以東の大海の浜辺に、流れ着ける大船あり。長さ一十五丈(つえ)、濶(ひろ)さ一丈余、朽ち摧(くづ)れて砂に埋り、今に猶遺れり。淡海の世に、国覔(くにま)ぎに遣されむとして、陸奥の国の石城(いはき)の船造に令せて、大船を作らしめしに、此に至りて、岸に着き、即て破れきと謂ふ。」

この後に、「童子女の松原」伝説の話が書かれています。
ですから、この一つ前の話しは、ただそうですか・・・と読み通して終ってしまうのです。

銚子沖は親潮と黒潮がぶつかり、潮の流れが陸から外側に流れますので、昔から幾度と無く船の難破の話しは尽きません。
南北朝時代に神皇正統記を表わした北畠親房も、難破して陸奥にはいけずに常陸国南部に上陸。国木田独歩の父も船が難破して銚子に漂着し、そこで独歩が産れた。

この風土記の話は、天智天皇の時代(668年~672年)に住むのに良い国土を探すために、岩城国の船造者に依頼して大船を造らせたが、都にもって行く途中でこの鹿島灘南部の浜に打ち上げられて大破してしまったものが今もこの浜に遺されているという。
長さが15丈、船の内側の幅が1丈余という。
今参考にしている風土記では「丈=つえ」と読ませているが、当時中国から伝わっていた長さの単位は1丈=10尺=約3mくらいではないかと思う。すると船の長さは45m、巾は3mくらいとなる。

神栖市波崎の南東端に波崎かもめ公園があるが、そこにコンクリートの船の模型が置かれている。
これは、大きな漁船をイメージして「はさき丸」としているが、これくらいの船ではないかと思う。

はさき丸
(波崎かもめ公園の漁船モニュメント「はさき丸」)

さて、私が、今回この風土記の記述から、江戸時代初期に記録として書かれた、円盤型の舟に異国の女性が乗っていたという「うつろ舟」の話がどこかで繋がっていないかなどとつい発想を膨らませてしまったには理由がある。

江戸時代に滝沢馬琴が1825年「兎園小説」という中に書かれているというのですが、このうつろ舟が漂着した場所は「常陸原舎り浜」だという。これを常陸国の原舎り浜として、「原舎り=はらやどり」と解釈したようなのです。
「はらやどり浜」と思われる地名はありません。
しかし常陸原「舎り浜」ならばあります。 波崎の鹿島灘沿いに「舎利浜(しゃりはま)」があり、陸側に「舎利」があります。

ちょうど、常陸国風土記香島郡に書かれているこの難破船の残骸が残っていたのもこの舎利浜辺りだと推測されます。
むかしは良い砂鉄がとれる場所だが、鹿島の神の領地なのでむやみに人は立ちることができないとされている砂浜です。

ただ、昔は波崎も一昔前は「羽崎」と書き、そのもっと大昔は「刃先」と書かれていたような時代もありそうで、現在の姿になるにはかなり変貌を繰り返していたと考えられます。

太平洋からこの海岸には砂が運ばれ、それがまた風で内陸部に砂山を築いていきました。

神栖市にある市立図書館は中央図書館ともう一つ「うずも図書館」とい図書館があります。
この「うずも」という意味は「砂の丘」という意味だといいます。
このあたりはこの砂丘が広がり、砂山ができ、一時はここでサンドスキーなども行われたようです。
この風土記の頃から余り農業には適さず人も余り住んでいなかったようです。

このようにその土地の地形や成り立ちも理解しながら古書は読まなければならないのでしょう。

また滝沢馬琴は、うつろ舟の話と養蚕信仰の話を調べていたようです。
茨城県神栖市日川720に「蚕霊(さんれい)神社」(「日本養蚕事始」)がありますが、この神社が群馬県などの「絹笠神社」の始まりだといわれているようで、馬琴もこのあたりを探っていたのではないかと思われます。
(参考:「養蚕信仰について 宗教法人咲前神社」より)
【御祭神】大気津比売神、【御本尊】馬鳴菩薩(蚕霊尊)の神仏習合

蚕霊神社
(蚕霊神社)


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/03/16 11:57
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