白鳥の里
この記事は以前書いたものの再話ですが、こちらにも少し変えて残しておきます。
常陸国風土記の香島郡の記述
「郡の北三十里に、白鳥(しろとり)の里あり。古老の曰へらく、伊久米の天皇の世に、白鳥有り。天より飛び来たり、僮女(をとめ)と化為りて、夕に上り朝に下る。石を摘(ひろ)ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒(いたづら)に日月を積みて、築きては壊えて、得作成さざりき。僮女等、
白鳥の 羽が 堤を つつむとも あらふまもうきはこえ
斯く口口に唱ひて、天に升りて、復降り来ざりき。此に由りて、其の所を白鳥の郷と号く。(以下省く)」
とあります。
(現代語訳)
鹿島郡の郡家の北三十里のところに、白鳥の里というところがあります。
第11代天皇の垂仁天皇の代の頃のお話です。
あるとき、天より飛来した白鳥の一群がありました。
白鳥たちは、朝に地上に舞ひ降りて来て、乙女の姿になり、石を拾い集めては水をせき止めて、池の堤を少しづつ築き、夕方になると、また白鳥の姿にもどり、天へと帰っていくのでした。
しかし、池の堤は、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりでなかなか池の堤は完成できませんでした。
さうしてこの白鳥たちは、
「白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え」
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるようなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
と歌いながら天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはありませんでした。
この謂れにより、白鳥の里と名付けられました。
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さて、この話は第11代天皇の垂仁天皇の頃に池を造るというお話です。
垂仁天皇(すいにんてんのう)は実在した可能性が高い天皇と考えられてもいますが、紀元前の生まれではなく、時代としては3世紀後半から4世紀前半の天皇だと思われます。
垂仁天皇は崇神天皇の3番目の子供で、大和朝廷の生産力の拡充や、新羅などとの交流も積極的に行ったと言われています。
特に水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作りました。
この白鳥伝説も、こ白鳥や乙女の美化された話ではなく、水田に使う水を貯める池の構築が、かなりの難事業であったことを物語る話としてみると、内容が少しわかってくるように思います。
また、垂仁天皇は天皇などが亡くなった時に、人の殉死などの風習があったのを排除し、代わりに埴輪を使うことをはじめたとされています。
なんかとてもいろいろな事が想像される話に思えます。
この白鳥の里ですが、旧太陽村(現鉾田市)の中居あたりではないかとされています。
というのもこの中居地区の西側の霞ヶ浦北浦近くには「白鳥西小学校、東側の鹿島灘近くには「白鳥東小学校」があります。
遺称地として、地元などに看板などがある場所は、この中居に「白鳥山大光寺照明院」という天台宗のお寺があります。
昔行ったときの写真ですが、

(白鳥山大光寺照明院)
寺は無住で、人の気配はない。
寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。
もう1箇所の候補地が、北浦に架かる鹿行大橋に近い札村の「白鳥山普門寺」である。

(白鳥山普門寺 白鳥観音堂)
こちらも昔訪れた時の写真だが、忘れ去られたように残されていた「白鳥観音堂」が記憶に残っている。
この札村は芭蕉の禅の師である「仏頂禅師」が江戸初期の1642年2月18日に生まれている。
仏頂禅師は、大田原の雲厳寺裏の山の草庵で禅の修行をしたといわれる。
その後潮来の根本寺の住職をしていた。寺領の争いのため、江戸を訪れていたときに芭蕉と知り合った。
また、小林一茶が1817年5月に鹿島詣での途中に、この地を訪れている。
いろいろあるが、今この地を訪れる人はあまりいないようだ。
常陸国風土記では鹿島郡の郡家から北三十里(約16km)と書かれており、郡家跡とされる場所から16kmというのは「大光寺照明院」の方が近い。
ただ、白鳥(はくちょう)の里という名前は結構あちこちで使われるので、混乱も起きる。
常陸国風土記の香島郡の記述
「郡の北三十里に、白鳥(しろとり)の里あり。古老の曰へらく、伊久米の天皇の世に、白鳥有り。天より飛び来たり、僮女(をとめ)と化為りて、夕に上り朝に下る。石を摘(ひろ)ひて池を造り、其が堤を築かむとして、徒(いたづら)に日月を積みて、築きては壊えて、得作成さざりき。僮女等、
白鳥の 羽が 堤を つつむとも あらふまもうきはこえ
斯く口口に唱ひて、天に升りて、復降り来ざりき。此に由りて、其の所を白鳥の郷と号く。(以下省く)」
とあります。
(現代語訳)
鹿島郡の郡家の北三十里のところに、白鳥の里というところがあります。
第11代天皇の垂仁天皇の代の頃のお話です。
あるとき、天より飛来した白鳥の一群がありました。
白鳥たちは、朝に地上に舞ひ降りて来て、乙女の姿になり、石を拾い集めては水をせき止めて、池の堤を少しづつ築き、夕方になると、また白鳥の姿にもどり、天へと帰っていくのでした。
しかし、池の堤は、少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりでなかなか池の堤は完成できませんでした。
さうしてこの白鳥たちは、
「白鳥の 羽が堤を つつむとも あらふ真白き 羽壊え」
(小石を集めて池の堤を作らうとしても、白鳥の羽を抜いて積み上げるようなもので、この真白き羽はすっかり損はれてしまった。)
と歌いながら天に舞ひ昇り、ふたたび舞ひ降りてくることはありませんでした。
この謂れにより、白鳥の里と名付けられました。
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さて、この話は第11代天皇の垂仁天皇の頃に池を造るというお話です。
垂仁天皇(すいにんてんのう)は実在した可能性が高い天皇と考えられてもいますが、紀元前の生まれではなく、時代としては3世紀後半から4世紀前半の天皇だと思われます。
垂仁天皇は崇神天皇の3番目の子供で、大和朝廷の生産力の拡充や、新羅などとの交流も積極的に行ったと言われています。
特に水田開発を熱心に行い、諸国に800余りの池・溝を作りました。
この白鳥伝説も、こ白鳥や乙女の美化された話ではなく、水田に使う水を貯める池の構築が、かなりの難事業であったことを物語る話としてみると、内容が少しわかってくるように思います。
また、垂仁天皇は天皇などが亡くなった時に、人の殉死などの風習があったのを排除し、代わりに埴輪を使うことをはじめたとされています。
なんかとてもいろいろな事が想像される話に思えます。
この白鳥の里ですが、旧太陽村(現鉾田市)の中居あたりではないかとされています。
というのもこの中居地区の西側の霞ヶ浦北浦近くには「白鳥西小学校、東側の鹿島灘近くには「白鳥東小学校」があります。
遺称地として、地元などに看板などがある場所は、この中居に「白鳥山大光寺照明院」という天台宗のお寺があります。
昔行ったときの写真ですが、

(白鳥山大光寺照明院)
寺は無住で、人の気配はない。
寺の入り口に置かれている石像はほとんどが子安観音像で女人講中などの文字が読めるが年代はよく読めない。
一番手前には文政11年(1828)の銘がある念仏供養塔である。
もう1箇所の候補地が、北浦に架かる鹿行大橋に近い札村の「白鳥山普門寺」である。

(白鳥山普門寺 白鳥観音堂)
こちらも昔訪れた時の写真だが、忘れ去られたように残されていた「白鳥観音堂」が記憶に残っている。
この札村は芭蕉の禅の師である「仏頂禅師」が江戸初期の1642年2月18日に生まれている。
仏頂禅師は、大田原の雲厳寺裏の山の草庵で禅の修行をしたといわれる。
その後潮来の根本寺の住職をしていた。寺領の争いのため、江戸を訪れていたときに芭蕉と知り合った。
また、小林一茶が1817年5月に鹿島詣での途中に、この地を訪れている。
いろいろあるが、今この地を訪れる人はあまりいないようだ。
常陸国風土記では鹿島郡の郡家から北三十里(約16km)と書かれており、郡家跡とされる場所から16kmというのは「大光寺照明院」の方が近い。
ただ、白鳥(はくちょう)の里という名前は結構あちこちで使われるので、混乱も起きる。
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