角折の浜
この角折の浜についても今まで何回か書いてきたが、いろいろ調べていくと知らない話しも出てきて面白い。
1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。
さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、
「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づく。或ひと曰へらく、倭武の天皇、此の浜に停宿りまして、御膳を薦め奉りし時、都(かつ)て水無かりき。即ち、鹿の角を執りて地を掘りしに、其の角折れ為りき。この所以に名づくといひき。(以下略く)」
と書かれています。
この後半の倭武の天皇(ヤマトタケル)の話はとくに、当時の謂れでわからないことは凡てヤマトタケル伝承にしてしまっているところが感じられますので、この前半の角のある大蛇(をろち)の話が面白いですね。
角のある蛇の話は「行方郡」の中に「夜刀の神」として出ています。
この大和朝廷の東北方面の蝦夷征伐では、原住民たちは山の佐伯、野の佐伯、土蜘蛛などと表現されていますが、の夜刀神(やとのかみ)なども谷津に住む原住民たちを表現しているものと考えられますが、これを「角のある蛇」と表現したものでしょう。
鬼に角があり、蝦夷征伐も「鬼退治」などと言う表現もあるように思いますので、蛇は神でもあり、そこに角を生やして退治すべき対象と区別するために表現したものでしょうか。
風土記の文章ではこの角のある大蛇が「東の海に通る(いた)らむと欲ひて」と書かれています。
このあたりの内海などの周りには海の恵みで生活する縄文人といわゆる九州あたりからやってきた海神族が住んでいたと思われます。するとこの角のある蛇は森や谷で生活していた原住民のことだったのでしょうか。
外洋に出ようと、山から下り、谷から這い出して、浜砂の地にやってきたが、力尽きて?角が折れてしまったのか、または海神族になったのか? いろいろ解釈できそうです。
現在、鹿島灘の鹿嶋と鉾田の中間くらいに鹿嶋臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という長い名前の駅があります。
この名前はいろいろなことを教えてくれます。
長者ヶ浜:御伽草子の文正草(双)紙の話しの元となった塩焼きで財を成し、貴族に上り詰めた文太こと「文正長者」のいたところ
はまなす:ここが日本のハマナスの南限地とされていること。
ですが、この角折伝説でいう「角折」という名前が残っている場所でもあります。
ただ、この文太は鹿島大宮司家に仕えていたが、大宮司より暇をもらって「つのおか」村に住み、製塩で巨財をなしたという話として伝わっています。したがって、奈良朝頃は「角折=つのをれ」で、中世には「つのおか」となり、また「つのおれ」に戻ったという様な経緯が見て取れます。
草紙の文の中では、文太は「つのをかヾ磯」にやって来て塩で財を成し、「文正つねおか」と名乗る長者となったとあります。
従って、江戸時代後期の則孝公の考察があり、そこに
「此村の名も今は、「つのをれ」と、云なり。皇學者中山信名、平四郎、氏が考には、昔は大方、假名文字を用ひしゆゑ、「を可」と書しを「をり」と、語り出て、又、真名に「折」と書き、それより「折」と称し、終に、今のごとく、「角折」になりしならん。「り」と「れ」と通音なれば、然か、称来りしならんと。此説當れりとおもはる。」と書かれています。
すなわち「文太長者の時代に「つのおか村」だった村名が「つのおれ村」に変化していった原因について国学者の考察が引用紹介されているのです。)
(鹿嶋デジタル博物館 七、角折村(つのれむら)の昔話 より)
でももっと前のこの風土記の時代に「角折」と書かれていたことは考慮されていません。
一方角川の「日本地名醍辞典 8茨城県」には
『主人公の文正(文太)は鹿島大宮司に仕えていたが、ある時大宮司よりいとまを申し渡され、やむなく「いづちともなく行く程に、つのをかヾ磯、塩焼く浦に着きにけり」とある。角折は太平洋に面し、鹿島半島の太平洋側は古くから塩の産地だったと思われる。角折も「塩焼く浦」であり、文正はそこで塩売りとして大成功し「つのをかが磯の塩屋ども、みなみな従ひける」ほどになって、名を改めて「文正つねおか」と名乗ったという。この名乗りにあわせて、角折という地名を物語上「つねおか」と変えたのであろう。』
と書かれており、上記の角折(つのれ)村の昔話の解説をひていしています。
私もこの角川の地名辞典の内容を支持したいと思います。
江戸時代から明治22年まで「角折村」がありましたが、明治22年に近隣の村が合併して「大同村大字角折」となりました。
その後昭和30年に中野村と合併し「大野村(大同の大と中野の野)」となり、平成7年に鹿島町に編入され、同時に鹿嶋市となりました。
では以前訪れたこのあたりにある「大野潮騒はまなす公園」に立ち寄ったときの記事を参考に復UPします。
非常に大きな公園で整備もされているのですが、水戸と鹿島を結ぶ国道51号線沿いから公園へのアクセスはあまりよくありません。

西側の駐車場近くには大きなタワーが建っており展望台と2F部分にプラネタリウムができています。
ハマナスは自生するものとして太平洋側はこの鹿島灘近くに南限地とされている場所があります。
ここより少し北の鉾田市と鹿嶋市の境付近です。(日本海側の南限は鳥取です)

こうしてプラネタリウムなども見られるのですが、平日となるとほとんどお客さんはいません。
お掃除の人と散歩をしているの数人だけです。
公園内部は遊具などもあり子供連れでも一日楽しめそうです。

公園の中に入ってみます。
山の地形を利用したように高低差があり川や池などが周りにあり中央に広場がある構成です。

森の中を下っていくと弁天池と名のついた池に赤い橋。
この公園には昔、大きな寺があったようです。
公園内には、日本一長いともいうジャンボローラー滑り台(長さは154m)があります。
公園内の美術館の建物裏に回ってみたら、そこに文正長者の屋敷跡の石碑がおかれていました。

文太長者屋敷跡
夕日かがやく
この岡に
黄金せんばい
にせんばい
屋敷の由来
「鹿島大明神 宮司の下僕であった文太が下僕をやめて角岡ヶ磯 角折の浜に来て塩炊き の家に雇われ 薪取りや、塩水汲みの仕事をするようになりました。
陰日向無く誰よりも良く働く文太の姿を見ていた主人から褒美に釜を上げるから自分で塩を作ってみないか と言われ釜をもらって塩を炊きはじめました。
作るからには 他の塩に負けない良い塩を作ろうと くふうをこらして作りました。 文太の作った塩は、真白で味も良く、その上病気もなおったと 大変な評判になりました。 そのため 作っても作っても間に合いません。 雇い人達にも屋さしく暖かい言葉をかけていたわったり励ましたりしました。 働いている人達も一生懸命働きましたので ますます良い塩ができたのです。
こうして何年も立たないうちに 大金持ちになり長者と呼ばれる身になりました。
名を文正角岡と改め 何の不自由も無かったのですが 何年たっても子供に恵まれませんでした。
そこで夫婦は鹿島大明神に子供が授かりますようにとお参りをしました。 そのかいがあって、翌年美しい女の子が生まれ、蓮華と名をつけました。その翌年 また女の子が生まれました 蓮御前と名をつけ可愛がった育てました。
姉妹ともに美しく成人し その噂が塩の評判とともに京の都まで届きました。 姉の蓮華は関白殿下の二位の中将の妻になり京に上りました。
妹の蓮御前は帝の后に迎えられ、都に上りました。
その後 文正夫婦にも京に上るようにとの使いが来ましたので角折をはなれました。
後に文正は 大納言にまで出世したということです。
この美術館、民俗資料館は文太長者の屋敷の跡に建てたのです。
平成二年三月 大野村教育委員会 大野村長 生井澤健二」 (現地石碑より)
一方、この角折にこのはまなす公園の東側の国道51号線に面した一角に「霜水寺(すいそうじ)」という真言宗の寺がある。

どうやらこの寺が昔、この公園となった場所にあったようで、かなり大きな寺であったようだ。
しかし今ではこの公園の一部を占めるだけで寺は無住であり、角折公民館と敷地が一体となっている。
寺はこのお堂の前に古びた石碑がおかれているが、よく読むことができない。
少し新しい石碑もあるが、こちらは「大野東部土地改良区完成記念碑」であった。

鹿嶋市の文化財に「霜水寺西堂跡」というものが登録されており、公園の西の方にこの場所があって礎石が確認されているそうだが、これが黄金輝く文太屋敷のお堂なのではないかとも言われているようだ。

広い公園の広場の一角にこの寺のものだと思われる墓地がひっそりと残っていた。
記録によると、寛政11年(1799)に、クジラ漁船七隻が遭難し57人が犠牲になったという。このときの墓がこちらにあるという。
この寺は文太の屋敷跡と言われていて、はまなす公園の敷地内にあったという。現在は霜水寺西堂跡が市指定史跡として公園内に残っています。
また、鹿島灘での製塩については前に書いた下記の記事を参照ください。
鹿島七釜 ⇒ こちら
1300年以上も経つとその間に歴史変わっていくものなのだろう。
さて、常陸国風土記には昨日書いた「白鳥の里」の話の後に、
「以南に有る所の平原を、角折(つのをれ)の浜と謂う。謂へらくは、古(いにしへ)、大蛇(をろち)有り。東の海に通る(いた)らむと欲ひて、浜を掘りて穴を作りしに、蛇の角折れ落ちき。因りて名づく。或ひと曰へらく、倭武の天皇、此の浜に停宿りまして、御膳を薦め奉りし時、都(かつ)て水無かりき。即ち、鹿の角を執りて地を掘りしに、其の角折れ為りき。この所以に名づくといひき。(以下略く)」
と書かれています。
この後半の倭武の天皇(ヤマトタケル)の話はとくに、当時の謂れでわからないことは凡てヤマトタケル伝承にしてしまっているところが感じられますので、この前半の角のある大蛇(をろち)の話が面白いですね。
角のある蛇の話は「行方郡」の中に「夜刀の神」として出ています。
この大和朝廷の東北方面の蝦夷征伐では、原住民たちは山の佐伯、野の佐伯、土蜘蛛などと表現されていますが、の夜刀神(やとのかみ)なども谷津に住む原住民たちを表現しているものと考えられますが、これを「角のある蛇」と表現したものでしょう。
鬼に角があり、蝦夷征伐も「鬼退治」などと言う表現もあるように思いますので、蛇は神でもあり、そこに角を生やして退治すべき対象と区別するために表現したものでしょうか。
風土記の文章ではこの角のある大蛇が「東の海に通る(いた)らむと欲ひて」と書かれています。
このあたりの内海などの周りには海の恵みで生活する縄文人といわゆる九州あたりからやってきた海神族が住んでいたと思われます。するとこの角のある蛇は森や谷で生活していた原住民のことだったのでしょうか。
外洋に出ようと、山から下り、谷から這い出して、浜砂の地にやってきたが、力尽きて?角が折れてしまったのか、または海神族になったのか? いろいろ解釈できそうです。
現在、鹿島灘の鹿嶋と鉾田の中間くらいに鹿嶋臨海鉄道の「長者ヶ浜潮騒はまなす公園前」という長い名前の駅があります。
この名前はいろいろなことを教えてくれます。
長者ヶ浜:御伽草子の文正草(双)紙の話しの元となった塩焼きで財を成し、貴族に上り詰めた文太こと「文正長者」のいたところ
はまなす:ここが日本のハマナスの南限地とされていること。
ですが、この角折伝説でいう「角折」という名前が残っている場所でもあります。
ただ、この文太は鹿島大宮司家に仕えていたが、大宮司より暇をもらって「つのおか」村に住み、製塩で巨財をなしたという話として伝わっています。したがって、奈良朝頃は「角折=つのをれ」で、中世には「つのおか」となり、また「つのおれ」に戻ったという様な経緯が見て取れます。
草紙の文の中では、文太は「つのをかヾ磯」にやって来て塩で財を成し、「文正つねおか」と名乗る長者となったとあります。
従って、江戸時代後期の則孝公の考察があり、そこに
「此村の名も今は、「つのをれ」と、云なり。皇學者中山信名、平四郎、氏が考には、昔は大方、假名文字を用ひしゆゑ、「を可」と書しを「をり」と、語り出て、又、真名に「折」と書き、それより「折」と称し、終に、今のごとく、「角折」になりしならん。「り」と「れ」と通音なれば、然か、称来りしならんと。此説當れりとおもはる。」と書かれています。
すなわち「文太長者の時代に「つのおか村」だった村名が「つのおれ村」に変化していった原因について国学者の考察が引用紹介されているのです。)
(鹿嶋デジタル博物館 七、角折村(つのれむら)の昔話 より)
でももっと前のこの風土記の時代に「角折」と書かれていたことは考慮されていません。
一方角川の「日本地名醍辞典 8茨城県」には
『主人公の文正(文太)は鹿島大宮司に仕えていたが、ある時大宮司よりいとまを申し渡され、やむなく「いづちともなく行く程に、つのをかヾ磯、塩焼く浦に着きにけり」とある。角折は太平洋に面し、鹿島半島の太平洋側は古くから塩の産地だったと思われる。角折も「塩焼く浦」であり、文正はそこで塩売りとして大成功し「つのをかが磯の塩屋ども、みなみな従ひける」ほどになって、名を改めて「文正つねおか」と名乗ったという。この名乗りにあわせて、角折という地名を物語上「つねおか」と変えたのであろう。』
と書かれており、上記の角折(つのれ)村の昔話の解説をひていしています。
私もこの角川の地名辞典の内容を支持したいと思います。
江戸時代から明治22年まで「角折村」がありましたが、明治22年に近隣の村が合併して「大同村大字角折」となりました。
その後昭和30年に中野村と合併し「大野村(大同の大と中野の野)」となり、平成7年に鹿島町に編入され、同時に鹿嶋市となりました。
では以前訪れたこのあたりにある「大野潮騒はまなす公園」に立ち寄ったときの記事を参考に復UPします。
非常に大きな公園で整備もされているのですが、水戸と鹿島を結ぶ国道51号線沿いから公園へのアクセスはあまりよくありません。

西側の駐車場近くには大きなタワーが建っており展望台と2F部分にプラネタリウムができています。
ハマナスは自生するものとして太平洋側はこの鹿島灘近くに南限地とされている場所があります。
ここより少し北の鉾田市と鹿嶋市の境付近です。(日本海側の南限は鳥取です)

こうしてプラネタリウムなども見られるのですが、平日となるとほとんどお客さんはいません。
お掃除の人と散歩をしているの数人だけです。
公園内部は遊具などもあり子供連れでも一日楽しめそうです。

公園の中に入ってみます。
山の地形を利用したように高低差があり川や池などが周りにあり中央に広場がある構成です。

森の中を下っていくと弁天池と名のついた池に赤い橋。
この公園には昔、大きな寺があったようです。
公園内には、日本一長いともいうジャンボローラー滑り台(長さは154m)があります。
公園内の美術館の建物裏に回ってみたら、そこに文正長者の屋敷跡の石碑がおかれていました。

文太長者屋敷跡
夕日かがやく
この岡に
黄金せんばい
にせんばい
屋敷の由来
「鹿島大明神 宮司の下僕であった文太が下僕をやめて角岡ヶ磯 角折の浜に来て塩炊き の家に雇われ 薪取りや、塩水汲みの仕事をするようになりました。
陰日向無く誰よりも良く働く文太の姿を見ていた主人から褒美に釜を上げるから自分で塩を作ってみないか と言われ釜をもらって塩を炊きはじめました。
作るからには 他の塩に負けない良い塩を作ろうと くふうをこらして作りました。 文太の作った塩は、真白で味も良く、その上病気もなおったと 大変な評判になりました。 そのため 作っても作っても間に合いません。 雇い人達にも屋さしく暖かい言葉をかけていたわったり励ましたりしました。 働いている人達も一生懸命働きましたので ますます良い塩ができたのです。
こうして何年も立たないうちに 大金持ちになり長者と呼ばれる身になりました。
名を文正角岡と改め 何の不自由も無かったのですが 何年たっても子供に恵まれませんでした。
そこで夫婦は鹿島大明神に子供が授かりますようにとお参りをしました。 そのかいがあって、翌年美しい女の子が生まれ、蓮華と名をつけました。その翌年 また女の子が生まれました 蓮御前と名をつけ可愛がった育てました。
姉妹ともに美しく成人し その噂が塩の評判とともに京の都まで届きました。 姉の蓮華は関白殿下の二位の中将の妻になり京に上りました。
妹の蓮御前は帝の后に迎えられ、都に上りました。
その後 文正夫婦にも京に上るようにとの使いが来ましたので角折をはなれました。
後に文正は 大納言にまで出世したということです。
この美術館、民俗資料館は文太長者の屋敷の跡に建てたのです。
平成二年三月 大野村教育委員会 大野村長 生井澤健二」 (現地石碑より)
一方、この角折にこのはまなす公園の東側の国道51号線に面した一角に「霜水寺(すいそうじ)」という真言宗の寺がある。

どうやらこの寺が昔、この公園となった場所にあったようで、かなり大きな寺であったようだ。
しかし今ではこの公園の一部を占めるだけで寺は無住であり、角折公民館と敷地が一体となっている。
寺はこのお堂の前に古びた石碑がおかれているが、よく読むことができない。
少し新しい石碑もあるが、こちらは「大野東部土地改良区完成記念碑」であった。

鹿嶋市の文化財に「霜水寺西堂跡」というものが登録されており、公園の西の方にこの場所があって礎石が確認されているそうだが、これが黄金輝く文太屋敷のお堂なのではないかとも言われているようだ。

広い公園の広場の一角にこの寺のものだと思われる墓地がひっそりと残っていた。
記録によると、寛政11年(1799)に、クジラ漁船七隻が遭難し57人が犠牲になったという。このときの墓がこちらにあるという。
この寺は文太の屋敷跡と言われていて、はまなす公園の敷地内にあったという。現在は霜水寺西堂跡が市指定史跡として公園内に残っています。
また、鹿島灘での製塩については前に書いた下記の記事を参照ください。
鹿島七釜 ⇒ こちら
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