相鹿の里(丘前の宮)
常陸国風土記の行方郡の最後に、
「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘比売(おほたちばなひめ)命、倭(やまと)より降り来まして、此の地に参り遇(あ)ひたまひき。故、安布賀(あふか)の邑と謂ふ。」
と書かれている。
まあ田の里の南に「相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里」があるといい、その地名の由来を書いている。
古老の話しで、しかも倭武の天皇(ヤマトタケル)の話となれば、まともに信じることは出来ないが、平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に書かれた行方郡の郷名に「逢鹿」「大生」があるので、この名前で残っていることになる。
大生(おおう)郷は元鹿島といわれる大生神社や大生古墳群があるので、大体の場所は判る。
では「逢鹿郷」はどのあたりなのか。
ここはこの前の紹介に書いた「田の里(小牧など)」と大生の間の地域だ。南は「大賀」あたりで、北は「岡」あたりのようだ。
伝承ではヤマトタケルが「相鹿の丘前(おかざき)の宮」にいた時に、食事を大生で作っていたというので「大生(おおう)」となり、后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会した場所なので「相鹿(あふか)」という地名になったという訳のようだ。
この「丘前(おかざき)の宮」と言われる場所は、行方市の「岡」がその遺称地だという。地図には「雷神社」があり、その麓あたりだという。昔訪ねたことが有るので、その時の記事から少し抜き出してみよう。
「丘前の宮」は北浦大橋近くの旧麻生町岡にある。茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

「相賀山 寿福寺」と門柱がある。このあたりに丘前の宮があったと思われている。
この寿福寺という寺は現在この場所にはない。ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。


上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。

一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。

真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれている。
丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれている。

説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。
何ともやはりよくわからない。

常陸国風土記に書かれている内容も現代語で呼んでもどうも地理関係がよくわからない。
そこで、例によってFlood Mapsで海面の高さを+4mして当時の地形を見ながら解釈してみた。

ここに書いたように「岡」という地域が「丘」であり、雷神社の手前東側にヤマトタケルの居たという「丘前の宮」があり、大生神社あたりから水辺に降りた辺りに「大賀」という地区があるので、このあたりに煮炊きする炊事場の建物があったように思う。
ここと、丘前の宮へ通じる浜辺に小舟を繋いでこれを橋として行き来したということでいいのだろう。
やはり現地にいったり、地図を広げて当時の地形を考えてみたりしないと、本を読んだだけではよくわからないものだ。
さて、この丘(岡)は、相鹿山と呼ばれているようで、この台地の西側に中世の城「相賀城」があった。
雷神社から台地上を西に進むと、開けた畑が広がり、一つの立て看板があった。


「相賀城跡(あいがじょうあと)」と書かれていた。
このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。
「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」
と書かれています。
逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。
手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じような系列かもしれない。
やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。
この相賀城跡から下の「根小屋」地区にそのまま降りられる。
そのふもと近くの住宅街に、面白い看板が置かれていた。

「ナウマンゾウの化石」の発掘場所だという。

こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。
またこの「相賀城」の麓である根小屋地区に気になる寺と神社がありました。
「相賀山 龍翔寺」といい敷地の隣に保育所が併設されています。

相賀城の菩提寺だったようで、1501年に開山されたと記されています。
江戸時代はかなり大きな寺だったようです。
麻生町の領域のようですので、江戸時代は水戸藩ではなく麻生藩に属していたと思います。
白浜などと霞ケ浦の北浦に近い場所ですので、水運は発達していたのでしょう。
今は北浦大橋がかかっていますが、ここの交通量はあまり多くないのではないかと思います。

又この寺の直ぐ近くには「八幡神社」という古そうな大きな神社もありました。
「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり。古老の曰へらく、倭武の天皇、相鹿の丘前(おかざき)の宮に坐(いま)しき。此の時、膳(かしはで)の炊屋舎(かしぎや)を浦浜(うらべ)に構へ立て、小舟を編みて橋と作(な)し、御在所(みましどころ)に通ひき。大炊(おおひ)の義(こころ)を取りて、大生(おほふ)の村と名づく。又、倭武の天皇の后(きさき)、大橘比売(おほたちばなひめ)命、倭(やまと)より降り来まして、此の地に参り遇(あ)ひたまひき。故、安布賀(あふか)の邑と謂ふ。」
と書かれている。
まあ田の里の南に「相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里」があるといい、その地名の由来を書いている。
古老の話しで、しかも倭武の天皇(ヤマトタケル)の話となれば、まともに信じることは出来ないが、平安時代に書かれた「倭名類聚抄」に書かれた行方郡の郷名に「逢鹿」「大生」があるので、この名前で残っていることになる。
大生(おおう)郷は元鹿島といわれる大生神社や大生古墳群があるので、大体の場所は判る。
では「逢鹿郷」はどのあたりなのか。
ここはこの前の紹介に書いた「田の里(小牧など)」と大生の間の地域だ。南は「大賀」あたりで、北は「岡」あたりのようだ。
伝承ではヤマトタケルが「相鹿の丘前(おかざき)の宮」にいた時に、食事を大生で作っていたというので「大生(おおう)」となり、后の大橘比売命(弟橘姫命)に再会した場所なので「相鹿(あふか)」という地名になったという訳のようだ。
この「丘前(おかざき)の宮」と言われる場所は、行方市の「岡」がその遺称地だという。地図には「雷神社」があり、その麓あたりだという。昔訪ねたことが有るので、その時の記事から少し抜き出してみよう。
「丘前の宮」は北浦大橋近くの旧麻生町岡にある。茨城県道185号線(繁昌-潮来線)沿いの「岡農村集落センター」の南隣りである。

「相賀山 寿福寺」と門柱がある。このあたりに丘前の宮があったと思われている。
この寿福寺という寺は現在この場所にはない。ここを入っていくと「雷神社」という神社が建っている。


上に登っていくと正面に新しい神社の建物が建てられており、左側に古いお宮が3つある。

一番左側に鳥居があって「雷神社(らいじんじゃ)」と書かれている。

真ん中にあるのは「丘前宮道鏡大明神」と書かれている。
丘前宮(おかざきのみや)と呼ばれていたが途中から道鏡様(弓削道鏡)=男根 信仰が合わさって、この祠の中には何かそのようなものが置かれている。

説明は下記を読んでいただければある程度分かるが・・・・。
何ともやはりよくわからない。

常陸国風土記に書かれている内容も現代語で呼んでもどうも地理関係がよくわからない。
そこで、例によってFlood Mapsで海面の高さを+4mして当時の地形を見ながら解釈してみた。

ここに書いたように「岡」という地域が「丘」であり、雷神社の手前東側にヤマトタケルの居たという「丘前の宮」があり、大生神社あたりから水辺に降りた辺りに「大賀」という地区があるので、このあたりに煮炊きする炊事場の建物があったように思う。
ここと、丘前の宮へ通じる浜辺に小舟を繋いでこれを橋として行き来したということでいいのだろう。
やはり現地にいったり、地図を広げて当時の地形を考えてみたりしないと、本を読んだだけではよくわからないものだ。
さて、この丘(岡)は、相鹿山と呼ばれているようで、この台地の西側に中世の城「相賀城」があった。
雷神社から台地上を西に進むと、開けた畑が広がり、一つの立て看板があった。


「相賀城跡(あいがじょうあと)」と書かれていた。
このまわりに土塁とか城の名残が残されていたようだが、今はあまり畑が広がるだけ。
「相賀城(あいがじょう)は平安時代の末、逢賀太郎親幹(おうがたろうちかもと)が築いた逢賀城(おうがじょう)で、これを室町時代の末期に手賀左近尉義元(相賀入道)が再建し、相賀城と呼ぶようになった。」
と書かれています。
逢賀太郎親幹はこの名前(幹)からしても大掾氏の系統であることは確かで、行方四頭の系列であろう。
手賀氏は行方四頭の玉造氏の系列だから、同じような系列かもしれない。
やはり最後は佐竹によって滅ぼされた(南方三十三館)ようだ。
この相賀城跡から下の「根小屋」地区にそのまま降りられる。
そのふもと近くの住宅街に、面白い看板が置かれていた。

「ナウマンゾウの化石」の発掘場所だという。

こんな場所に1万5千年以上前にナウマンゾウがいたという。
またこの「相賀城」の麓である根小屋地区に気になる寺と神社がありました。
「相賀山 龍翔寺」といい敷地の隣に保育所が併設されています。

相賀城の菩提寺だったようで、1501年に開山されたと記されています。
江戸時代はかなり大きな寺だったようです。
麻生町の領域のようですので、江戸時代は水戸藩ではなく麻生藩に属していたと思います。
白浜などと霞ケ浦の北浦に近い場所ですので、水運は発達していたのでしょう。
今は北浦大橋がかかっていますが、ここの交通量はあまり多くないのではないかと思います。

又この寺の直ぐ近くには「八幡神社」という古そうな大きな神社もありました。
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