大生の里(その一)
大生の郷については、常陸国風土記の行方郡最後に「此(田の里)より以南に、相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里あり・・・」と出てくるだけで、相鹿の里と大生の里は合体しているような書き方がされています。
又説明も倭武の天皇(ヤマトタケルの命)が相鹿の丘前の宮にいたときに、飯を炊いた建屋を浦浜に建てたので「大炊(おほひ)」から「大生の村」という名前になったという謂れしか紹介されていません。
そのため、角川の日本地名大辞典には、古代の大生郷について、
「『新編常陸』は、この風土記の記述から【上古ハ合シテ一里ニテアリシヲ、風土記を撰バルゝ比ハ、既に二里トナリケレド、旧一里ナリシ故ニ、由来モ列ナレルカラニ、古来相鹿大生里と云ヒナレシマゝニ注セシト見エタリ】としている。」と書かれています。
確かに、現在の感覚からすると、鹿島神宮との関係が深いとされる大生神社があり、鹿島神宮に関係の深いとされる古代皇室一族のオフ氏の古墳と見られる大生古墳群があるので、何故常陸国風土記に書かれた大生の里に関する記述が余りも少ないことは不思議に思われますね。
此れを理解するには、少し詳しく歴史を辿ってみる必要がありそうです。
まずは古代の大生郷の範囲を絞って見たいと思います。
角川の地名辞典では、「潮来町(現潮来市)大生を中心に、釜谷、水原、築地(ついじ)、延方(のぶかた)あたりとしています。
とくに延方は北浦を隔てて鹿島神宮の対岸に位置する要地で、板来駅(うまや)鹿島神宮に至る駅路にあたっていた。」と書かれています。現在の大生神社の北側湖岸に「大賀(おおが)」がありますが、ここから北は相鹿郷で、大生神社のある台地(大生原)から、鹿島神宮に渡る神宮橋や大船津、鰐川橋あたりまでの広い範囲が大生郷であった可能性があります。
ただ、この延方は鎌倉期には独立して「延方郷」となり、江戸期には延方村となり、天保年間には古高(ふったか)村を合併し、江戸時代は水戸藩の「延方郷校」もありました。そして昭和30年に潮来町の一部になりました。鹿島神宮との関係や、鹿島工業地帯などとも近く、昔の面影を想像するのは難しいのかもしれません。

現在の潮来市の範囲に古代の大生郷範囲を書き込んで見ました。
当然中心は大生神社のある「大生原」地域であり、その南側に築地(ついじ)、古高(ふったか)、水原、釜谷と現在の東延方・西延方・延方の行政範囲を概略で入れました。
ただ、延方の南の水郷地帯や埋立地帯は江戸時代に延方村に編入された地域です。
江戸時代にこの地域(徳島)が次第に田として増え、領地争いが起きました。
江戸幕府の裁定が延方村に軍配が上がり、現在延方にある鹿嶋吉田神社にこの勝利を祝って相撲が奉納され、現在の「延方相撲(小さな子供の花相撲を含む)」が始まったといわれています。
そのため、古代の大生郷は現在の神宮橋付近(大船津)までと考えても良いのではないかと思います。
ではこの中にあるところで気になった熱田神社、大生神社、大生古墳群を紹介します。
まず、熱田神社ですが、大生原を南北に横切っている県道187号線と国道50号線が交叉する場所に在ります。
県道側が山側の高い場所に在り、国道がその下を削り取ったように走っています。
以下の記事は前に書いた記事を一部抜粋して載せています。

熱田神社は街道から少し脇に入った場所の少し高くなった場所にあった。
まわりは木々に覆われ古くからあることが分かる。

鳥居のところに少し変わった表情の狛犬が置かれていた。

大正9年

拝殿前の狛犬?はどうやら鹿を表わしているようだ。
この神社の由緒があったが、少し気になるのでそのまま載せます。

「日本武尊、東征の折当地に立ちより、東は鹿島、南向香取、西方遥かに筑波の霊峰を望み、北は北浦に接し展望絶景高燥の地なるを以って戦勝祈願を行ったという。この地にあって尊の命に従い功のあった三十番神を褒め称えた。
村人はその跡を都恵地(築地)と称し祠ありしが、大同元年(806)社殿をつくり日本武尊を祭神とし三十番神を合祀、尊崇した。
延宝3年(1673)水戸藩主・光圀公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。」
まず、簡単にわかりやすく書くと次のような意味でしょうか。
1)ヤマトタケルがこの地でこの辺りに住んでいた部族を退けたので、戦勝を祝って戦功のあった三十の勇者を讃えた。
2)そしてこの地の名前を「都恵地」と名付け、後に「築地」となった。
3)水戸黄門さんがヤマトタケルの戦勝記念の話を聞いて、草薙の剣が奉納されている熱田神宮と同じだと言うことで「熱田神社」と改名した。
ただ、常陸国風土記が書かれたのは、この神社が創建された大同元年(806年)よりも前の720年頃ですので、この神社はまだありません。
常陸国風土記には上記の内容は書かれていません。ヤマトタケルをタケカシマと読み替えると少しわかったような気にもなります。
大生原の古墳群はオフ氏(多氏、飯富氏)一族が葬られていると考えられていますので、何か関係してくるのかもしれません。
この築地(都恵地)という地名も、江戸の築地(つきじ)などのような埋立地とは考えにくいので、この説明も興味深いものがあります。
さて、この神社の隣りが空地になっていますが、「津知第二小学校跡地」となっていました。
潮来市街地となりに昔あった「津知村」は現在「辻」と地名は変わっています。
(続く)
又説明も倭武の天皇(ヤマトタケルの命)が相鹿の丘前の宮にいたときに、飯を炊いた建屋を浦浜に建てたので「大炊(おほひ)」から「大生の村」という名前になったという謂れしか紹介されていません。
そのため、角川の日本地名大辞典には、古代の大生郷について、
「『新編常陸』は、この風土記の記述から【上古ハ合シテ一里ニテアリシヲ、風土記を撰バルゝ比ハ、既に二里トナリケレド、旧一里ナリシ故ニ、由来モ列ナレルカラニ、古来相鹿大生里と云ヒナレシマゝニ注セシト見エタリ】としている。」と書かれています。
確かに、現在の感覚からすると、鹿島神宮との関係が深いとされる大生神社があり、鹿島神宮に関係の深いとされる古代皇室一族のオフ氏の古墳と見られる大生古墳群があるので、何故常陸国風土記に書かれた大生の里に関する記述が余りも少ないことは不思議に思われますね。
此れを理解するには、少し詳しく歴史を辿ってみる必要がありそうです。
まずは古代の大生郷の範囲を絞って見たいと思います。
角川の地名辞典では、「潮来町(現潮来市)大生を中心に、釜谷、水原、築地(ついじ)、延方(のぶかた)あたりとしています。
とくに延方は北浦を隔てて鹿島神宮の対岸に位置する要地で、板来駅(うまや)鹿島神宮に至る駅路にあたっていた。」と書かれています。現在の大生神社の北側湖岸に「大賀(おおが)」がありますが、ここから北は相鹿郷で、大生神社のある台地(大生原)から、鹿島神宮に渡る神宮橋や大船津、鰐川橋あたりまでの広い範囲が大生郷であった可能性があります。
ただ、この延方は鎌倉期には独立して「延方郷」となり、江戸期には延方村となり、天保年間には古高(ふったか)村を合併し、江戸時代は水戸藩の「延方郷校」もありました。そして昭和30年に潮来町の一部になりました。鹿島神宮との関係や、鹿島工業地帯などとも近く、昔の面影を想像するのは難しいのかもしれません。

現在の潮来市の範囲に古代の大生郷範囲を書き込んで見ました。
当然中心は大生神社のある「大生原」地域であり、その南側に築地(ついじ)、古高(ふったか)、水原、釜谷と現在の東延方・西延方・延方の行政範囲を概略で入れました。
ただ、延方の南の水郷地帯や埋立地帯は江戸時代に延方村に編入された地域です。
江戸時代にこの地域(徳島)が次第に田として増え、領地争いが起きました。
江戸幕府の裁定が延方村に軍配が上がり、現在延方にある鹿嶋吉田神社にこの勝利を祝って相撲が奉納され、現在の「延方相撲(小さな子供の花相撲を含む)」が始まったといわれています。
そのため、古代の大生郷は現在の神宮橋付近(大船津)までと考えても良いのではないかと思います。
ではこの中にあるところで気になった熱田神社、大生神社、大生古墳群を紹介します。
まず、熱田神社ですが、大生原を南北に横切っている県道187号線と国道50号線が交叉する場所に在ります。
県道側が山側の高い場所に在り、国道がその下を削り取ったように走っています。
以下の記事は前に書いた記事を一部抜粋して載せています。

熱田神社は街道から少し脇に入った場所の少し高くなった場所にあった。
まわりは木々に覆われ古くからあることが分かる。

鳥居のところに少し変わった表情の狛犬が置かれていた。

大正9年

拝殿前の狛犬?はどうやら鹿を表わしているようだ。
この神社の由緒があったが、少し気になるのでそのまま載せます。

「日本武尊、東征の折当地に立ちより、東は鹿島、南向香取、西方遥かに筑波の霊峰を望み、北は北浦に接し展望絶景高燥の地なるを以って戦勝祈願を行ったという。この地にあって尊の命に従い功のあった三十番神を褒め称えた。
村人はその跡を都恵地(築地)と称し祠ありしが、大同元年(806)社殿をつくり日本武尊を祭神とし三十番神を合祀、尊崇した。
延宝3年(1673)水戸藩主・光圀公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。」
まず、簡単にわかりやすく書くと次のような意味でしょうか。
1)ヤマトタケルがこの地でこの辺りに住んでいた部族を退けたので、戦勝を祝って戦功のあった三十の勇者を讃えた。
2)そしてこの地の名前を「都恵地」と名付け、後に「築地」となった。
3)水戸黄門さんがヤマトタケルの戦勝記念の話を聞いて、草薙の剣が奉納されている熱田神宮と同じだと言うことで「熱田神社」と改名した。
ただ、常陸国風土記が書かれたのは、この神社が創建された大同元年(806年)よりも前の720年頃ですので、この神社はまだありません。
常陸国風土記には上記の内容は書かれていません。ヤマトタケルをタケカシマと読み替えると少しわかったような気にもなります。
大生原の古墳群はオフ氏(多氏、飯富氏)一族が葬られていると考えられていますので、何か関係してくるのかもしれません。
この築地(都恵地)という地名も、江戸の築地(つきじ)などのような埋立地とは考えにくいので、この説明も興味深いものがあります。
さて、この神社の隣りが空地になっていますが、「津知第二小学校跡地」となっていました。
潮来市街地となりに昔あった「津知村」は現在「辻」と地名は変わっています。
(続く)
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