大生の里(その三)
常陸国風土記を紐解き、関係のありそうな所を調べながら記事にしています。
今回は行方郡の最後に記述されている大生の里にある古社「大生(おおう)神社」を紹介します。
ここを最初の訪れたのは2014年でした。 今から9年近く前になります。
いろいろなサイトで「元鹿島」といわれるとの紹介があり訪れてみたのです。
当時の記事から少し引用します。
元鹿島といわれる大生神社は、鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少し高台になった潮来市の北端にあります。
長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。

大同元年(806年)創建とも言われるが、年代は明らかではない。
祭神は鹿島神宮と同じ健御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)(武甕槌神)であるが、ここが元鹿島と言われるのは、タケミカズチが最初にこの地で祭られた場所と言い伝えられていることにあります。
そして、今の鹿島神宮に遷宮されたと伝えられているようです。
真実のところは私にはよくわからない。
大和国の多(飯富)族がこの地に移住し、その氏神として祀ったのではないかと考えられています。
神社には天正8年(1590)の棟札が残されていて、鹿島神宮の神職を勤めている東家の文書に、この大生神社は南部大生邑(多村)から移されたあるといいます。
この大和の神社は「多坐弥志理都比古神社」です。
そして、この大和の神社は多(おお)氏の太安麻呂の子孫が神主となって続いています。
この本殿は県指定の文化財に指定されています。
この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばならないようです。
奈良時代初期713年頃にまとめられたと言われる常陸国風土記の行方郡の項に「建借間命(たけかしまのみこと)」の事が記述されていますが、詳細は別途として概略を述べると、
「タケカシマはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。
対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。こまったタケカシマは、7日7夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いてにぎやかに大騒ぎをしたのです。
最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきました。
そこを隠れていたタケカシマの兵士たちが、彼らの住居としていた穴を塞いで、原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまいました。
その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。

この地を制圧したタケカシマの一族(=多氏、飯富氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思います。
そして、この神社にタケミカヅチが祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになった。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)であると言われています。
これは私の勝手な解釈ですが、鹿島神宮は大昔は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。
この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないでしょうか。
ですから最初は大生神社に祭られたタメミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。

大生神社の本殿の現地説明板です。

この神社に伝わる祭りに「巫女舞」があります。13歳までの少女が毎年選ばれます。
石岡染谷地区に伝わる十二座神楽の巫女舞も小学生が選ばれます。(2名)
この神事も同じようなものとも言えます。
さて、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。(昨日紹介)
この古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。
これまでタケミカヅチについて書いてきましたが、この地にヤマトタケルがやはり上陸し、ここから西側の行方方面を進んだという伝承が残されています。
東京湾(走水)を渡るときに妻である弟橘媛が入水して死に別れたのに、この近くの相鹿(あうか)で天から降りてきて再会したとも言われているのです。(常陸国風土記)
1500~1600年くらい前に古代大和朝廷の氏族の多氏がここに移り住んだのだと思います。
そのため元鹿島とも呼ばれているのだと思います。

この本殿は戦国末期の天正18年(1590年)の建立といわれるのでかなり古い。
この年に石岡の大掾氏の滅んだ年です。
現地の看板に書かれていることを少し載せます。
「大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのおがみ)を祭神とする元郷社で、その創紀年代は詳らでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富(おふ)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御紀したのに始まるといわれている。・・・・」
時の流れが止まったように静かな森の中に佇むこの古社も時々訪れて見たいと思っています。
さて、ここまでは以前書いた内容だけれど、いまでもこのタケカシマとタケミカヅチの関係がよくわからない。
大生神社の創建はこの前に紹介した「熱田神社」と同じ、大同元年(806)であり、風土記が編纂された頃にはまだ無かった。
しかし、熱田神社ではその前に祠が在り、大同元年にその建屋を建立したとしていたが、ここも同じことなのかもしれない。
大同元年は桓武天皇が崩御し、平城(へいぜい)天皇が即位した年です。
その前の桓武天皇の時代では、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で活躍を見せ、蝦夷の長であるアテルイとモレが500人の見方を引き連れて投降させた。
この二人は都へ護送され、田村麻呂の助命嘆願は無視して、公家たちの意見により都で処刑(清水寺に碑がある)された。
この後、大和朝廷の財政は長引いた蝦夷征伐にもより、極端に悪化した。
その後を継いだ平城天皇は金融引き締めと同時に、蝦夷に対しては関東から東北にかけてたくさんの神社を創建し、武人や朝廷の先祖神を祭り、蝦夷の平定を図ったのだと思っています。
今回は行方郡の最後に記述されている大生の里にある古社「大生(おおう)神社」を紹介します。
ここを最初の訪れたのは2014年でした。 今から9年近く前になります。
いろいろなサイトで「元鹿島」といわれるとの紹介があり訪れてみたのです。
当時の記事から少し引用します。
元鹿島といわれる大生神社は、鹿島神宮とは北浦を挟んだ反対側(西側)の少し高台になった潮来市の北端にあります。
長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。

大同元年(806年)創建とも言われるが、年代は明らかではない。
祭神は鹿島神宮と同じ健御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)(武甕槌神)であるが、ここが元鹿島と言われるのは、タケミカズチが最初にこの地で祭られた場所と言い伝えられていることにあります。
そして、今の鹿島神宮に遷宮されたと伝えられているようです。
真実のところは私にはよくわからない。
大和国の多(飯富)族がこの地に移住し、その氏神として祀ったのではないかと考えられています。
神社には天正8年(1590)の棟札が残されていて、鹿島神宮の神職を勤めている東家の文書に、この大生神社は南部大生邑(多村)から移されたあるといいます。
この大和の神社は「多坐弥志理都比古神社」です。
そして、この大和の神社は多(おお)氏の太安麻呂の子孫が神主となって続いています。
この本殿は県指定の文化財に指定されています。
この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばならないようです。
奈良時代初期713年頃にまとめられたと言われる常陸国風土記の行方郡の項に「建借間命(たけかしまのみこと)」の事が記述されていますが、詳細は別途として概略を述べると、
「タケカシマはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。
対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。こまったタケカシマは、7日7夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いてにぎやかに大騒ぎをしたのです。
最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきました。
そこを隠れていたタケカシマの兵士たちが、彼らの住居としていた穴を塞いで、原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまいました。
その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。

この地を制圧したタケカシマの一族(=多氏、飯富氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思います。
そして、この神社にタケミカヅチが祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになった。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)であると言われています。
これは私の勝手な解釈ですが、鹿島神宮は大昔は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。
この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないでしょうか。
ですから最初は大生神社に祭られたタメミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。

大生神社の本殿の現地説明板です。

この神社に伝わる祭りに「巫女舞」があります。13歳までの少女が毎年選ばれます。
石岡染谷地区に伝わる十二座神楽の巫女舞も小学生が選ばれます。(2名)
この神事も同じようなものとも言えます。
さて、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。(昨日紹介)
この古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。
これまでタケミカヅチについて書いてきましたが、この地にヤマトタケルがやはり上陸し、ここから西側の行方方面を進んだという伝承が残されています。
東京湾(走水)を渡るときに妻である弟橘媛が入水して死に別れたのに、この近くの相鹿(あうか)で天から降りてきて再会したとも言われているのです。(常陸国風土記)
1500~1600年くらい前に古代大和朝廷の氏族の多氏がここに移り住んだのだと思います。
そのため元鹿島とも呼ばれているのだと思います。

この本殿は戦国末期の天正18年(1590年)の建立といわれるのでかなり古い。
この年に石岡の大掾氏の滅んだ年です。
現地の看板に書かれていることを少し載せます。
「大生神社は健御雷之男神(たけみかづちのおがみ)を祭神とする元郷社で、その創紀年代は詳らでないが、鹿島の本宮と云われ古く大和国の飯富(おふ)族の常陸移住の際氏神として奉遷し、御紀したのに始まるといわれている。・・・・」
時の流れが止まったように静かな森の中に佇むこの古社も時々訪れて見たいと思っています。
さて、ここまでは以前書いた内容だけれど、いまでもこのタケカシマとタケミカヅチの関係がよくわからない。
大生神社の創建はこの前に紹介した「熱田神社」と同じ、大同元年(806)であり、風土記が編纂された頃にはまだ無かった。
しかし、熱田神社ではその前に祠が在り、大同元年にその建屋を建立したとしていたが、ここも同じことなのかもしれない。
大同元年は桓武天皇が崩御し、平城(へいぜい)天皇が即位した年です。
その前の桓武天皇の時代では、坂上田村麻呂が蝦夷征伐で活躍を見せ、蝦夷の長であるアテルイとモレが500人の見方を引き連れて投降させた。
この二人は都へ護送され、田村麻呂の助命嘆願は無視して、公家たちの意見により都で処刑(清水寺に碑がある)された。
この後、大和朝廷の財政は長引いた蝦夷征伐にもより、極端に悪化した。
その後を継いだ平城天皇は金融引き締めと同時に、蝦夷に対しては関東から東北にかけてたくさんの神社を創建し、武人や朝廷の先祖神を祭り、蝦夷の平定を図ったのだと思っています。
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