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那賀郡郡衙、台渡里廃寺跡

 常陸国風土記に、現在の水戸を中心とした那賀郡の記載内容は意外に少ない。
少ないのか、写本に省略されて残っていないのかは良くわからないが、とにかく余り多くは残されていない。
そのため、まり訪れてみる機会もなく、今迄やり過ごしてきてしまった。
この風土記の勉強をするに当って、もう少し知っておかねばならないことを痛感して、遺称地を訪ねてみる事にした。

まず向かったのは、那珂郡の郡衙(郡家)があったとされる「台渡里廃寺跡」である。

風土記には余り詳しいことは書かれていない。

「郡家より東北の粟川(現那珂川)の両岸に駅家(うまや)が置かれた。駅家が粟川に近く囲まれているようなので「河内」の名がついた。」

と記載が残っているだけ。
この地名の「河内」は現在那珂川の東北岸に「中河内町」、「上河内町」という町名があり、「かわち」とは読まずに「ガチ」と読ませている。もっとも「なかかわち」「かみかわち」を悠長な発音などしない水戸っぽが発音すれば、「ナカガチ」「カミガチ」と短くしてしまったのだと推察は付く。

駅家はこの那珂川の両岸にあったので、南西側の地名は「渡里町」となる。
これも川を渡る場所(里)として付けられたものだろう。
ここに「台渡里廃寺跡」という国指定の史跡が残されている。

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直ぐ前は道路でくるまの交通量も結構あるところだが、この一角は広々して草が茂って開けている。

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道路側の入口に「国指定史跡」の看板が掲げられている。
この場所は真中の「観音堂山地区の台渡里廃寺跡」と思われる。

この南側に塔などがあったようだ。

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北側の長者山地区に那賀郡郡家跡が見つかっているようだ。
この長者については確か八幡太郎の伝説が残されている。
(茨城の民話アーカイブ:こちら

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この台渡里廃寺跡の広場の一角に神社「台渡里八幡神社」が残されている。

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境内はまだボタン桜(八重桜)の花ビラがハラハラと散っている最中でした。

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この広場の奥は住宅が立ち並び、木の生い茂った林も残されています。

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地図で見てみると、この原の奥の道路を東(右)に少し行った所に「長者山城跡」があり、「一盛長者伝説地」という石碑が置かれているようだ。

常陸国国府のあった石岡の鹿の子より、この台渡里まで奈良時代から鎌倉時代頃まで古代の官道が真っ直ぐに続いていました。
ここで那珂川(粟川)を渡り、官道は海側の道と山側の道に分れたようです。
ただ海側の道は船での輸送が盛んになると徐々に廃れ使われなくなったと推察されます。


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/04/25 10:34
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