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道標 追分(1)

 追分とは道の分かれ道となっている場所のことだが、一般には分かれ道に置かれた道しるべ・道標をいうようだ。
石岡の街にも江戸時代の追分がいくつか残されているようなのだが、先日とあるこの道標が石岡小学校の校庭にある「陣屋門」の脇にそっと移動されたと聞いて見に行ってきました。

oiwake03.jpg

陣屋門のすぐ脇になにげないように置かれていましたが、何も説明がありません。
この陣屋門も市民会館ができた時に移設したものですのでどちらも元の位置とは違う場所に置かれたことになります。

  oiwake02.jpg  oiwake01.jpg

この追分道標には「右 かさま  道」「左 根あた」横には「香丸町 鈴木○○・・」
などと書かれていました。あまり良く判読できません。(朱記訂正:2010.6.11)
少し丁寧な説明をかかげてほしいと思います。

さて、ではこの追分が置かれていた場所はというと、七谷家具さんのあるところの分かれ道だそうです。



確かに右は笠間方面です。 左の道は石岡二高の方に行く道ですが、根当(ねあたり)方面につながっています。その先には園部~部原~瓦会~(宇都宮街道に合流?)だったのでしょうか。

また、昔(江戸時代)の地図では千手院の大きな寺院が手前にあり、左側に国分寺がありました。
水戸街道はこの手前で泉町の方に右側に曲がっており、この笠間への街道も千手院をまくようにつながっていたようです。
 


道標 | コメント(30) | トラックバック(0) | 2011/06/07 19:07
コメント
道標
 Roman様、おはようございます。
 この道標の記憶あります。七谷あたりは、子供の頃のエリアでしたので。(若松の道標も)
 もとの実家は笠間街道に面していました。(現在は引っ越してます)
 ただ、すっかり忘れてました。大人になれば、車で移動しますから、この辺を歩く機会もなくなってしまって・・。このブログを読まなければ、忘れたままだったでしょう。有難うございます。
 しかし、せっかく移動させたなら、説明文の看板くらいつけてほしいと私も思います。こういうものに興味ある人の「知りたい気持ち」を考えれば・・・。そういうことって、大事ですよね。
Re: 道標
べあべあ様
この道標が移されたのも歴史ボランティアの方から偶然聞きました。
移すことに反対の意見もあったそうですが移されてしまいました。
記録が残されないと後からわからなくなってしまいますね。
昔から何も考えずに多くのことが行なわれてきたのでしょう。
そんなこともわかれば少しでも記録に残しますね。

先日モリコーの屋上がどうなっているかを知りたいと思い行ってみました。
昔から屋上には右側の外付けの階段を使っていたのですか?
この地震で大分危なっかしくなっていました。
また昔洋品店であったと記録にありますが、ゲームセンターも
やっていたのですか?
ぞうさんの滑り台は屋上のどの辺りにあったのでしょう。ジュースの噴水も。
覚えていたら教えてください。
父から聞いた話
 すみません、正確な配置などは、記憶があいまいで、わかりませんが、外の階段は非常用と思われ使ったことがありません。、私が小学生だった頃は、エスカレーターがありました。売ってたのは洋服やスポーツ用品、ランドセルなどで、名前も「モリコーストアデパート」となってるので、現在のデパートのような感覚だったのでしょうか?
 私の父から聞いた話では、昭和13年頃は、
屋上でローラースケートをやっていた、そのころ石岡で唯一の地下があり、喫茶店だったそうです。
 私が遊びに行った昭和46年頃の屋上では、
滑り台と、売店があり、売店ではみそおでんや、ちょとした玩具が売っていました。ゲームは、記憶にないのですが、あったのかもしれません。
 笠間街道ですが、七谷に沿った355の道路の裏に細い道があり、それが旧道だったようです。
 (地図で見ると右側)と、父が申しておりました。そういえば、子供の頃「きゅーどー」と言ってました。ピアノやお習字に行くときは、この道を通っていました。そこから、また裏道を通って泉町の方まで歩いてました。子供ってわざわざ遠回りしても、おもしろいルートを選ぶんですね。
 あまり参考にならない話ですみません。
 余談ですが、八間道路ができたとき、私の祖父は、「石岡にこんなに広い道路ができたのか」とびっくりしたそうです。その頃は細くて曲がった道がほとんどだったのでしょうか?
ぞうさん
ROMANさま、べあべあ様
全く自信がありませんが、ぞうさんは355側のコーナーだったような。
また原始k的なクレーンゲームとかパチンコもどき
のようなものがあった気も。
祖父母とも早世だったので、戦前の話などは知りませんでした。
それにしてもべあべあ様。意外とご近所ですね。
当方も泉町、香丸町から国分寺辺りまでが
遊び場でした。
府中小生と石小生のテリトリー差ですね。
エスカレーター
べあべあ様
そうでした。私もうっすら記憶があったのですが、こちらのコメントでようやく確認できました。
有難うございます。
石岡初エスカレーターがモリコー、二番目がコーキ、三番目が西友だったと思います。
みんななくなっちゃいましたが。
小学生だけでタカギで立ち読みして、モリコーの
エスカレータで屋上上がってとか、結構傍若無人に遊んでたように思います。
赤いベルトでした、よね?
Re: ぞうさん
べあべあ様、行徳様
ご連絡ありがとうございます。
皆さん昔の話を覚えておいでですね。
昭和10年ころの地図を発行しているのがありますが、モリコービルは
当時「モリ幸洋品店」となっています。
当時から立派なビルのようです。
現在のまちかど情報センターの所には「篠塚本店」その隣りが「石岡郵便局」
でその次が「モリ幸洋品店」です。

モリコーの屋上の写真を参考までに下記にUPしました。

http://www.rekishinosato.com/morikoo.htm

あまり載せておく写真ではないので明日には削除します。
参考まで。
Re: 父から聞いた話
べあべあ様
詳細連絡ありがとうございます。
地図を見たら確かに右側の道が旧道のようですね。
355に平行な道は確かに昔からの家並みがこちらにはあります。

また355号からこの横に入った道は真っ直ぐ行くと杉並のパワーマートの所に出ますが、
このパワーマートが撤退してしまいました。段々寂しくなります。

私がブログで紹介した七谷のところの道標はY字路のところではなく、もしかしたら
もう少し駅側の、この脇道の入口に置かれていたのですか?
No title
行徳様。もしあったとすれば、野球盤ではないかと思うのですが。エスカレーター確かに赤いベルトです。
 裏道通って、井筒屋前を通り、駅まで行ったりしてました。
Roman様、わざわざお写真有難うごさいます。何もありませんね。もしあったとしても、ぼろぼろになったゾウさんをみたら、悲しいですしね・・・。
No title
ROMAN様
有難うございます。
御陰様ですっきりしました。355側右側コーナーだったか左側コーナーだったか、、、。
郵便局の記憶もかすかながら、カギヤ楽器の並びの駐車場には地銀の東陽銀行があったりしました。
お店ばかりでなく、公共機関、金融なども香丸町
T字路の回りに集まっていて、町としてきちんと
完成していたのですよね。
ここから355号の国分寺、七谷家具に至る通りも
商店がきっちり並んでいました。
今はなくなって私が覚えているお店:
荒物屋さん、魚屋さん、本屋さん、大判焼き屋さん、レーシングサーキットのある模型屋さん、
サッポロラーメンどさん娘。
べあべあ様いかがでしょうか?国分寺の近くに
も本屋さんが一軒あったような気も?
道標
 はい、父に電話して聞きました。旧道のところにあったと申しておりました。
 父は昔話をするのが、楽しいみたいで、これもRoman様のブログのおかげですね。
No title
 レーシングサーキットがある模型屋さん、覚えてます。小学生がたくさん集まってました。大判焼きは「甘太郎」めったに買ってもらえず、今では大判焼きが売ってると、ついつい買ってしまう私です。国分寺の近くの本屋は、石川園の隣(?)くらいにありました。
 Roman様、プライベートな話ですみません。
 テリトリーが近いのは、それだけ石岡の街が賑わっていたからでしょうね・・。
No title
行徳様、べあべあ様
お話の仲間に入れず残念。
ただし、昔をこちらの方が知っていることもあるかもしれません。
石川園は昔「石川幸助商店さん?」、カギヤの駐車場は「信用組合石岡金庫」があり、そこはもしかしたら子規の泊まった「万屋」があった場所かもしれません。
灰吹屋の隣りには常陽銀行の前身の国立五十銀行がありました。(昭和10年頃)
灰吹屋
 私が今住んでるところに「ハイブキヤ」というドラックストアがあって、昔は「灰吹屋」という薬屋さんだったそうです。「灰吹屋」という屋号は(石岡ではハイフキヤみたいですが)薬屋さんで多く使われたんでしょうか・・・?
 つまらないことが気になる私です・・。
Re: 灰吹屋
べあべあ様
石岡の「灰吹屋山口薬局」さんの創業は江戸時代と看板にもうたわれていますが全国にある灰吹屋と名のつく薬局などとの関係は私にも良くわかりません。
調べてもそれぞれがつながるようでつながりません。

石岡の灰吹屋さんの創業については水戸黄門の命により領地に薬屋がなかったので創業したと言われているようですが書付が残っているとも?? このあたりがなんともスッキリしない。

四谷総本家灰吹屋は江戸時代(1673年?)に大阪の守口より江戸に来て薬屋を創業。
溝の口のドラッグストア灰吹屋さんは伊勢から江戸四谷に来て萬屋として商売していたが、四谷総本家灰吹屋さんより1765年にのれん分けして大山街道沿いに薬屋を創業。

千葉の灰吹屋さんは明治に四谷の総本家の番頭さんが創業。
所沢の灰屋さんはやはり四谷の番頭さんが1字だけもらって創業。
良くわからない事も多いし何処までが本当なのか??

モリコー
ROMAN様、べあべあ様
モリコーさん減築されて今の形になったのではなかったでしょうか。これも申し訳ないながらうろ覚えです。
今の進学塾の隣のところまで店舗になっていたよう
な気も、、、。
ぞうさんがいたのはその減築部分の屋上では、、
また脳の中が痒くなります、、、。
No title
 ROMAN様、わざわざ調べて頂き有難うごさいます。四谷が本家で溝の口、所沢、千葉がのれん分けしたんですね。石岡との関係は、定かではありませんが、どっかで繋がってるかも?しれませんね。

 行徳様、モリコーのビルは三階だてと二階だての二つのビルを繋げていたそうです。どちらかのビルを取り壊したのかもしれません。(もっと広かった気がしますものね)
 
Re: モリコー
行徳様
> また脳の中が痒くなります、、、。
・・・まあ、そのうちわかるでしょう。さてこの町はこれからどうなるのでしょうね。
この場所は縄文の時代からの何かがここに眠っている数少ない街です。
歴史が古いのはいいのですが・・・まとまりがありません。
のんびり掘り起こしていきます。
市民会館のすぐ近くに「石岡町役場」があったことになっています。
東耀寺の前の方で、石岡酒造のレンガ塀のとなり。
しかし何もそれらしき印はありませんでした。
また石岡小学校の入口に「実科高等女学校(明治45年開校)」があったのですが、
昭和12年に今の二高の場所に移転し町立から県立となったようです。
当時石岡一校は石岡農学校となっていました。
現在の市役所は昭和49年の建設だと聞いています。
Re: No title
3階建ての方が残っている?
子どものときはもっと広かったはずなどということも良くあることですが・・・。

灰吹屋という屋号は何故つけたのでしょうね。
昔はタバコも薬だったのかもしれませんね。
煙管をプカーとくゆらせて、灰吹の竹筒にコンコンと落とす。
何か絵になりますね。
私はタバコは吸いませんが・・・。
No title
ROMAN様は煙草のほうを連想したんですね。
私は、灰吹法という金銀を鉛に溶かして抽出する方法から、鉛といえば、昔の白粉は鉛が入っていたなーと思い、化粧品で有名な資生堂ももとは薬屋さんだなー、などど、勝手にこじつけて、いろいろ考えたりしてました。・・ちょと無理がありますね・・・。

灰吹
ROMANさま
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%B0%E5%90%B9%E6%B3%95

Wikiですがこんな記載ありました。

町役場→市役所、保健所があったのは覚えています。当然木造でした。
石小の職員室に隣接した中庭には保健室があり、
随分地面から離れた構造でした。
児童が疫痢などになった際の隔離施設ともなって
いたようで、近所の保健所市役所と連携した
ものだったのでしょう。
行政機関の有機的連携、意思疎通という点では
いまよりずっと良かったのでは?
Re: 灰吹
行徳様 べあべあ様

灰吹法は石見銀山で有名だとネットを調べて知っていましたが、
時代的にはすでに方法が伝わっており、合うのですが、当時薬
といえば行商の薬売りが主体でしたね。
また水戸黄門などに出てくる印籠も薬入れだったと思います。
しかし、一般に灰吹という言葉はタバコの灰を入れるものとして
結構洒落たものであり、高級な人が使っていたようです。
私はこちらを想像しました。
どちらかわかりませんがなんとなく興味があります。

そういえば先日書いた「だいこんの花」は、石岡では灰吹屋の
ご主人が中国に行って日本に持ち帰り流行らせたと言っています。
これは大阪万博の時に海外の人に種を配ったことが「天声人語」で
紹介され有名になったのだそうです。

しかし、このオオアラセイトウ(ショカッサイ)が日本に入った
のは江戸時代というのですから、どこか自慢するには詰めが甘いですよね。

自分の店が水戸光圀の時ならもっと宣伝をきちんとすればよいと思います。
黙っていたら、根拠に自信がないのだと思われてしまいますね。
私だったらきっちり事実を検証して大いに宣伝しますが・・・。
No title
ROMANさま
だいこんの花、先月行った茨城北部にはありましたが
こちら行徳近辺では見かけません。
当方の住処所詮最近の埋立地ですので、まだ到達していないだけだとは思いますが、近くても結構植生細かく違いますね。

PS:モリコーネタしつこいですが、一階→二階の
エスカレータは記憶ありますが、二階→三階以降があいまいです。
ひょっとして二階、あるいは三階から屋上には
外階段で上がっていた??
べあべあ様いかがでしょう?
自分が住んだ東京近郊のスーパーでもそういう
例が多いです。
石岡酒造赤レンガ塀
 市民会館の近くの赤レンガ塀。私あそこが好きだったんですよね。レンガに蔦がからまって。いつも外から眺めるだけでしたけど。(中に入ってみたかった)
 保健所も予防接種を受けに(たぶん)いったことぼんやり覚えてます。
 小学3年の頃の社会科見学は、まだ駅前にあった、消防署でした・・。

灰吹屋のこと、わからないけど、あれこれ考えてみるのも楽しいですね。興味ない人には「それが何?」って言われそうですけど・・・。

 この間友人と映画を見に銀座へ。どうせならと京橋まで歩いて明治屋で、念願のレモンカードを買いました。友人もレモンカードに興味津々。一口食べて「この味知ってる?!」レアチーズケーキのレモン味!
レシピを調べてみたら、やはりクリームチーズにレモンカードを混ぜてつくるレアチーズケーキがありました。(そのまま載せるタイプもあるようです)いろいろ教えて頂いて有難うございました。

   
Re: 石岡酒造赤レンガ塀
べあべあ様
この赤レンガ塀、昨年だったとと思うけれど、崩れていたものを補修してきれいにしています。
昔は蔦が絡まっていたのですね。
それは趣がありましたね。ヨーロッパなどではとても大切にしています。
今からでも復活させたいですね。今度ブログで紹介したいです ~(^。^)~

>灰吹屋のこと、わからないけど、あれこれ考えてみるのも楽しいですね。
・・・同感です!    
Re: No title
行徳様
昔の地図でモリコーの所を見ると、向かって右側が横通り隣接しています。
したがって右側に建物があったと思います。
また今の3階上の屋上には下の内部から上がる階段などがあった形跡がありません。
それにやはり少し狭すぎますね。
減築したのでしょう。

追伸
 モリコーのエスカレーターは一階から二階までだったと思います。はっきりと覚えていないのですが、エスカレーターが珍しかった当時、便利だからというより、客寄せの意味で、つけたのかもしれませんね??
No title
べあべあ様
激しく同意です。当方記憶にも合致します。
屋上施設はこのエスカレータとのあわせ技の客寄せで
東京のデパートをちいさくまねたのでしょう。
オッサンとなった今当時のその進取性には感心します。それもまた坂の上の雲だったのでしょうね。
予防接種
べあべあ様、ROMAN様

べあべあ様は保健所で接種だったのですね。
石小は学校の中で接種されていたと思います。
保健所のすぐ近くですから、そういうことだったのではないでしょうか。
ツベルクリン、BCGと接種され、反応が出ないと
再接種となりますので、それがいやで、皆接種後
をぺしぺし叩いて腫らそうとしていました。
勿論意味なく、反応の小さい私は毎回再接種でした。空き教室でやっていたように覚えています。
これでも学校が衛生施設の一環だったのがわかりますね。
Re: 予防接種
行徳様 べあべあ様
お二人ともツベルクリン反応の経験者ですね。
今は生後数か月でBCGをやるだけで後の検査はしないようですね。
あのツベルクリンは10mmだったでしょうか、あまりはっきり出なくていつもドキドキ。
確かにたたいたりもしましたね。
わたしも学校内でやっていたと思います。
そんなことも思い出になりますね。

ツベルクリン
 そうそう、今はツベルクリンやらないそうですね。子供が小さいころはまだやってましたから、剣山のような注射器の跡のありなしで「年齢がわかる~」と娘はいやがってます。
娘もそのうち「ヘイセイヒトケタ、古い~」とか注射の跡見られて、「これどうしたんですかぁ?」「ツベルクリン?ナニソレ、知らな~い」とか言われるんでしょうか・・??
 昔は学校で集団予防接種、注射針は煮沸して使ってましたね・・。


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