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常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その2)

前回からの続きです。 場所の地図をもう一度出しておきます。
久慈郡図3
久慈郡図4

1、久慈郡郡衙
 郡衙の場所は確定されていないが、有力な場所として、常陸太田市大里町~薬谷町の長者屋敷遺跡辺りではないかとされています。この遺跡からは古代の郡寺と考えられる久(慈)寺の跡が見つかっています。平成7年に発掘調査がされ、平成9年3月に報告書が発行されています。
 
 久慈郡図5  久慈郡図6
 長者遺跡全景(真ん中の溝部がトレンチ跡)                出土した瓦

2、久慈理丘(中野丘陵)
 久慈郡の名前の由来となったというクジラに似た丘:
風土記の逸文に「常陸国久慈理岳云ヲカ(岳)アリ。其ヲカ(岳)のスガタ、鯢鯨ニタルユエニカク云ヘリト云々。俗語鯨ヲ謂テ久慈理ト為スト云ヘリ」とあるという(角川 地名大辞典)
現在は金砂郷町(現常陸太田市)中野の丘陵地をさすという。
中野は金砂地区の最南端です。

久慈郡図7
中野丘陵:長さは南北約700m、東西最大約500m、標高は約50m

3、河内(かわち)の里
昔猿の鳴き声で「ここ=古々」の村といわれ、それが河内になったという。
ただ茨城北部には河内と書いて、「ガチ」「ゴウド」「カワチ」と様々な読みをする地があります。
ここでは「ここ=河内カワチ」であり、旧水府村の東部と旧常陸太田市の北部にまたがった地域で河内村(かわちむら)があった。
ただし合併・離散を繰り返し旧水府村域内は常陸太田市河内西町(里川・玉簾の滝の3km程上流の西側、御岩神社と天下野(けがの)の中間あたり)となっています。

4、谷合山
大化の改新(645年)の際に土地が給付されており、この時に藤原鎌足は領土を賜ったと見られ、これも鎌足が常陸国の出身という説の根拠にもなっている。
中臣鎌足は668年1月に藤原姓を受けたという。
谷合山の現在地は不明だが、岩がゴツゴツした山という。
角川の地名辞典には久慈郡水府村(現常陸太田市)棚谷に比定する説があるが定かでないと書かれている。
ここには雷神山(241m)がある。山頂に風雷神社がある。

5、石鏡
 この鏡のような石は現在常陸大宮市照山1578(生井沢(なまいさわ)村)に「鏡石」別名「月鏡石」と呼ばれる岩がある。

 久慈郡図8

地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、鏡肌のような面を持つ岩を言うという。
ただ、この岩が風土記記載の岩かどうか確定はされていない。

6、石門(山田の里)
山田川の岸にあるという石の門(石門:いわと)
場所は、:常陸太田市岩手町あたり?(親沢池親水公園が近くにあります)

7、静織の里・・・静神社: 常陸国二の宮
佐竹寺の前の道を瓜連(うりづら)方面に行けばすぐである。
地図を調べて見るとこの場所は、那珂川沿いにあり粟や阿波山などの地域とは川を挟んだ反対側にある。
やはりかなり昔から人が住んでいたものと考えられる。

静神社のホームページを見ると、
「かつて、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑(いんしん:活気があってにぎやか)をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。」と書かれている。

一般に水戸城下から福島県の棚倉を結ぶ「棚倉街道」は今の国道118号線(常陸大宮を通る)と、もう一つ国道349号線(常陸太田を通る)の2つのルートがある。

この静地区は国道118号線に近い。この道は水郡線に沿った道で、袋田の滝へ向かう道でもある。

 倭文は「しず」「しどり」「しずり」などと読み、古代の織物のことで、静織=倭文 からこの神社の名前になったと考えられる。
祭神は初めて機織をしたという「建葉槌命(たけはづちのみこと)=倭文神」を祀る。
ただこれも最初は「手力雄命」を祀っていたという。
久慈郡図9  久慈郡図10
                              社殿入口の「神門」(唐門)

静神社の創建は明らかではなく、鹿島神宮に次ぐ常陸国二の宮として有名で、特に水戸藩の祈願所と定められ繁栄した。
例祭は4月2日で、国宝の銅印(奈良時代末期の作)が保管されている。
その銅印は「静神宮印」となっており、神宮としての格式があったのかもしれない。

久慈郡図11 久慈郡図12  
         織姫像                      本殿

この里が昔から「静織(しおり)の里」と呼ばれ、初めて織物が織られたと伝えられていることから、唐門の手前左側にこの「織姫像」が置かれている。
東京織物卸商業組合が寄進したものという。
常陸国には古い養蚕の神社も多く、全国の養蚕神社の基になっている。

この静神社は江戸時代に水戸藩の祈願所となり、徳川光圀が、寛文七年(1667年)十月仏寺を分離し、神社とし、本殿・拝殿・神門・玉垣・神楽殿等を新に造営したという。
しかし、これらの社殿は、天保十二年(1841年)火によって焼失し、多くの神宝、古文書等も失ってしまった。
現在の社殿は、その焼失後、九代藩主徳川齊昭によって再建されたものだという。
杉の御神木は、天保の火災で枯れてしまったが、その前までは”千度杉”と呼ばれ、願い事をして、木の周囲を千回回る習慣があったそうです。

8、「玉川」:今もこの名の川が静地区の北を流れ、久慈川に注いでいる。
この玉川からは、昔はメノウが採れたという。
現在も久慈川に注ぐ玉川のや久慈川ではメノウ(瑪瑙)がとれ、江戸時代も久慈川流域の玉髄(メオウ)は「水戸火打ち」として江戸の火打石として最高級として珍重されました。

今でも玉川の近辺で時々見つかるらしく、昔はかなりたくさん採れたようです。
火をおこすのは火打石を鉄などの受け台にこすりつけて火花を飛ばすのですが、火打石を二つをこすりつけるだけでは火花は出ないそうです。

それにしてもこの近辺には金鉱や錫高野なる地名もあるので錫も採れたのだろうと思う。

9、大伴の村:現常陸太田市と思われるが詳細地は不明となっているが、新編常陸によれば、金砂郷村(現常陸太田市)赤土町(西金砂地区)とされ、古代大伴村と云ったが淳和天皇(786~840年)の諱(いみな)が大伴であったので土の色から赤土村に改名したという説を載せている。

10、長幡部の社: 常陸太田周辺には西山荘、佐竹寺、静神社など有名なところも多くありますが、この太田の地には「長幡部神社(ながはたべじんじゃ)」という機織りの神社(古社)があります。

ここの織物は、静神社に祀られている織物(静織=倭文)とはまた別の織物があって、これは「とても丈夫なので剣でも切れないほどだ」というのです。

また、その織物の伝来について、初めは日向から美濃の「引津根の丘」に移って、その人々がこの太田の地に移って機を織ったと書かれています。
まずこの神社へ行ってみると、ここは常陸太田市街地の東側を流れる「里川」のすぐ近くであり、川を越えてすぐのところにありました。
 
手前の幼稚園の裏手に公民館があり、そこに車を止めて、住宅地の間を抜けて神社の入口に到着した。
すると、左右にものすごい切りとおしがあり、その間の石段を登って行きます。
久慈郡図13

鎌倉にも切り通しはあるが、この入口もかなり壁が削られている。
切り通しを登りきると開けた原に出て、右手に鳥居と神社が見えてくる。

久慈郡図14

なかなか古めかしい感じの神社です。
さて、長幡(ながはた)とは絁(あしぎぬ)という絹織物(一説には絹より太い糸の織物)のことで、美濃絁(みののあしぎぬ)が有名だというので、この風土記の記述と関係してきます。部(べ)は長幡を織る人達という意味と思われます。

長幡は後の紬(つむぎ)の基となったものと解釈されており、この長幡部神社が、「今関東に広がる名声高き結城紬を始め絁織物の原点の御社であり、機業の祖神と仰がれる」と説明書きには書かれていました。
静神社は倭文(しず)織で、この長幡(ながはた)は紬の原型だというのですが、問題は、この長幡を伝えた先祖について、「綺日女(かむはたひめ)の命が、最初に筑紫の日向に降り、美濃の国の引津根の丘に移った。
後に長幡部の祖先の多テの命は、美濃を去って久慈に遷り、機殿を作って、初めて布を織った。」と伝えられています。

 日向(ひゅうが)は宮崎でしょうからここは置いておくにしても、この美濃国の「引津根の丘」とはどこでしょうか?
調べてもあまりはっきりとしたことがわかりません。

しかし、美濃国一宮である岐阜県垂井町にある「南宮(なんぐう)大社」の境内に「引常明神」という神社があることがわかりました。

行ったことは無いのですが、この引常明神は大きな石で「磐境石」というもので、その裏手に小さな鳥居があり、そこには「湖千海(こせかい)神社」と書かれているそうです。
この湖千海(こせかい)神社は、潮の溢涸をつかさどる豊玉彦命を祀っていて、ここから海に出て黒潮に乗っておそらくこの常陸の地にやってきたと思われます。

この引常明神の由来を調べると「曳常泉という泉があり、神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという」と書かれていました。

この引常神社はこの南宮大社に合祀されたもので、どうも近くの何処になるのかはっきりした資料はありません。
しかし南宮大社の東側に「綾戸」「表佐(おさ)」などの地名があり、この辺りと考えられます。
昔はこの近くまで海がきていて、この辺りが少し丘になっていたので、引津根の丘と呼ばれたのでしょう。

この織物を伝えたのはどんな氏族だったのでしょうか? 
興味はありますが、はっきりしません。
渡来人といわれる「秦氏」の氏族なのかもしれません。

久慈郡図15 久慈郡図16  
       長幡部神社の本殿                  神社の入口に展示室 

この展示室の中に機織りの機械などが置かれていました。
お祭りなどで披露するのでしょうか。
ほこりをかぶっていますので、あまり使われてはいないようです。

岐阜や愛知は機織りが盛んで、今でも多くの地名が残っています。
トヨタ自動車のある愛知県豊田市は元々の地名は「挙母(ころも)」と言う地名でした。
それが、豊田自動織機製作所ができ、その中に1933年自動車部が誕生したのですが、これが自動車の売り上げが伸び1959年に「豊田市」に名前が変わってしまいました。

この挙母(ころも)は衣のことで「許呂母」とも書いていたようです。
もともと生糸の町であったのですが、世界のトヨタに名前まで変わってしまいました。
1000年以上前からの歴史が忘れ去られていくようですね。

この長幡部神社についても常陸太田市のホームページなどをみても扱いがほとんどなく、歴史が泣いているように思ってしまいました。

この神社のすぐ近くに幼稚園があり、その裏手に公民館があります。
その公民館の隣に「機初(はたそめ)小学校跡地」の碑が置かれていました。
現在の機初小学校はこの神社から1kmくらい北に移ったようです。
この地域全体が「はたそめ」と呼ばれています。

11、薩都の里:薩都神社、松沢の地遺称地
常陸太田から北方面を散策していて、久慈郡の古い神社「薩都神社」にたどり着きました。
この里川沿いの道(旧棚倉街道)を通る事も少なかったので、名前は知っていましたが今までお訪れた事がなかったのです。
この「薩都神社」は「さとじんじゃ」または「さつじんじゃ」と読むようです。
神社の案内板にはこの二つの読みがふられていました。

近くの里川、佐都、里美などの地名の基になったとも考えられています。

この近くには水戸徳川家の墓所「瑞龍山墓所」もあります。
 
 久慈郡図17 久慈郡図18

県道から東に少し入ったところから脇に入る道があります。
しかし、道には案内看板がありません。
地図を頼りに少し進むと、神社の社が見えて来ました。

でも、私が想像していた神社よりは少し規模が小さく感じます。
「式内郷社」とあり、延喜式の式内社(小社)で、久慈郡二宮となっています。

久慈郡には常陸国二宮である「静神社」があり、その他小社が6箇所あります。
入って右手に社務所のような建物がありますが、誰もいないようでした。

 説明板には神社名の「薩都」の読みを「さと」「さつ」と2つ左右に書かれていました。

常陸国風土記には
「此より、北に、 薩都里 あり。 古(いにしへ )に 国 栖(くず )有りき。名をば 土 雲(つちくも) と 曰 ふ。 爰(ここ )に、 兎上命(うなかみのみこと) 、 兵 を 発(おこ) して 誅(つみな) い 滅(ほろぼ) しき。時に、 能 く殺して、「 福 (さち)なるかも」と言へり。 因(よ) りて佐都(さつ)と名づく。… 小水(おがは) あり。薩都河と名づく。」
とあります。

ここでは「薩都」の里を「佐都(さつ)」と名付け、小川を「薩都川」と名付けたとあります。

また佐都の意味は福=幸(さち)の意からきていると書かれています。

勿論これも当時の古老の話しですから別な意味(国栖などの原住民が使っていた言葉など)があるのかもしれません。

神社のいきさつは常陸国風土記に書かれていて、
「この里の東に、大きな山があり、かびれの高峯といひ、天つ神の社がある。
昔、立速男の命(またの名を速経和気)が、天より降り来て、松沢の松の木の八俣の上に留まった。
この神の祟りは厳しく、人が向かって大小便でもしようものなら、たちまち病の災を起こす。
里には病人が増え続け、困り果てて朝廷に報告し、片岡の大連を遣はしてもらって、神を祭った。
その詞に、「今ここの土地は、百姓が近くに住んでゐるので、朝夕に穢れ多き所です。よろしく遷りまして、高山の清き境に鎮まりませ。」と申し上げた。
神は、これをお聞きになって、かびれの峯にお登りになった。
その社は、石で垣を廻らし、古代の遺品が多く、様々の宝、弓、桙、釜、器の類が、皆石となって遺ってゐる。
鳥が通り過ぎるときも、この場所は速く飛び去って行き、峯の上に留まることはないといひ、これは、昔も今も同じである。」とあり、これを纏めると

・延暦7年(788年):(常陸太田市)松澤にある松の木の八俣の上に天津神の「立速日男命(たちはやびおのみこと)」が降り立ったという。そしてその地に社を建てたのが創祀とする。

・延暦19年(800年):しかし、この地に住む百姓などが小便をしたりするので、村人の奏上により大連を派遣したところ「穢れ多い里よりも高山の浄境に鎮り給へ」と託宣があり賀毘礼(カビレ)之峰(日立市入四間町)に遷座した。
現在の御岩神社の裏手の山、御岩山がその遷座した山といわれ、御岩神社もパワースポットとして有名になっている。

・大同元年(806年)には山が険しく人々の参拝が困難であるから小中島(常陸太田市里野宮町)へ遷座(分霊)した。

・正平年間(1346年~1370年)に佐竹義宣が社殿を修造し、大永2年(1522年)に佐竹義舜により現在地に遷座された。
すなわち、御岩神社の奥宮(山全体が神とも)には、「かびれ神宮」と「薩都神社中宮」があります。
そのため、この神社も元を辿れば御岩神社と同じになりそうです。

(次回に続く)

常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/27 15:57
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