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常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その3)


12、賀毗禮の高峰:
久慈郡図19

13、御岩神社
 常磐道高速の日立中央ICより県道36号線で西の常陸太田を流れている里川の上流の方に進むと、山を下る途中に「御岩神社」の看板があります。

久慈郡図20

入口には「常陸最古の霊山」と彫られています。
少し入ったところに駐車場があり手前に20台くらい、奥に7~8台くらい止められます。
こんな山奥と思っていたのですが、休日の事もあり駐車場が8割程車が止まっていて、少しの間にもまた車がやってきました。
それも多くが若者で女性の方もたくさん来ています。
神社の入口には「茨城四十五景 御岩山」と彫られた大きな石碑が立てられています。
茨城100景は知っているが45景は聞いたことが無かった。
調べて見ると昭和10年に茨城新聞社が創立45周年を記念して行った事業で、県民投票によって45カ所を選んだとのこと。
多くの若者がこの神社を訪れている理由は、ここが日本で一番のパワースポットだと言われていて雑誌などでも取り上げられているからのようです。

久慈郡図21

久慈郡図22

また宇宙飛行士の向井さんが宇宙から地球を見ていた時に、日本のある所から光が立ち上って見えたのだとか。
その場所を位置から推定するとこの神社のあたりだと言うのです。
何か本当の事かどうかは知りませんが、若者もこのような事なら行ってみたいと思うのでしょう。
一の鳥居を過ぎて、静かな杉木立の中の参道を進むと奥に山門があります。
 
久慈郡図23
山門と思ってやってきたが、仁王門で2階形式の楼門であった。
ということはここは神社だが、寺でもあったようだ。
明治維新の神仏分離により、大日堂、観音堂、念仏堂、大仁王門などが取払われたのだそうだ。
しかし、この大仁王門を平成3年に120年振りにこの場所に再建したという

何処かに移築していたのをまた戻したということなのだろうか。
なかなか姿の良い楼門である。
仁王門を入るとたくさんの石塔などが並んでいます。
ほとんどが無縁仏などを祀っているようです。
この神社を含め裏山全体を「かびれ」と称していたもので、神がこの峰に登ってすんだという。
一体どういうことなのか?

ふもとの村には昔からの縄文人などが住んでいた場所で、それを従えた大和民族の武人が祭られたのか?
それとも昔からここに住んでいた人びとの信仰の場所であったのか・・・。

江戸時代も水戸藩の祈願所として信仰を集めたそうで、この裏山に奥の院のような「かびれ神宮」があるそうで、ここが水戸光圀の大日本史筆初之儀処だと書かれています。

久慈郡図24

一周が30分程だと言います。
この神社から山に入ってかびれの奥の院や山に登ることができますが、山道となります。
神社社務所で杖を貸してくれるようですが、靴は山の靴を履いていく必要がありそうです。
かびれ神社までは15~20分。さらに山の上までは15~20分位だそうです。

久慈郡図25 久慈郡図26  

久慈郡図27

「百観音堂跡」
(五間半 五間 二層建)
「常念仏堂跡」
(六間半 六間 小羽葺)
これらは神仏習合の時のものなのだろう。江戸時代にはたくさんの建物があったようです。明治になり寺の関係は全て壊したようです。何と言うことでしょう。

入口から拝殿までのわずかな範囲ですが、静寂な雰囲気のお社でした。
しかしここは神社ではあるのですが姿形は寺のものを感じます。
そこに独特の何か感じるものがあるのかもしれません。
江戸時代の全域の絵図がありました。

久慈郡図28

斎神社:祭神は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)はじめ五柱
この斎神社の周りにはたくさんの石像が置かれ、無縁仏や石碑がとり囲んでいます。

久慈郡図29

この斎神社がどのような神社であるかは良く分かりませんが、祭神の天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は神話ではこの世の中に初めて現われた神様です。
まだこの世の中が天地の区別もなく、形もなかった時に天と地が別れ、天の高天原にはじめて現れたのがこの神様です。

江戸時代の地図では大日堂旧跡と書かれています。
そのため、この神社(寺)の社殿(大日堂)がこちらにあって、それを少し上の今の拝殿に新築して移したのでしょう。
室町時代の制作といわれる木造大日如来座像(県指定文化財)・木造阿弥陀如来座像(市指定文化財)があると書かれているが、こちらの横にある宝物館に置かれているようです 。

久慈郡図30 久慈郡図31

この斎神社から左に道をとると鳥居をくぐり赤い神橋があります。
橋を渡ったところに手水舎があり、その上に神社拝殿があります。
江戸時代は御岩山大権現大日堂であったが、今は御岩神社拝殿です。
祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと)はじめ26柱。
 
14、密筑(みつき)の里、大井の泉

久慈郡図32

現在日立市水木町に「泉が森」と呼ばれる湧き水のある森と神社(泉神社)がある場所があり、県指定史跡に登録されています。
また、茨城百景にも登録されています。

15、助川の駅家(うまや)

助川は日立市助川として地名に残りますが、川の現在の名前は久慈郡と多珂郡の境を流れる宮田川と考えられています。駅家のあった場所は日立製作所の海岸工場あたりではないかといわれています。

この風土記には「鮭の祖を「すけ」という」と書かれていますが、鮭のことをスケというと話しは各地に幾つかあります。 
参考まで信濃川の民話を紹介します。

信濃川に伝わる民話「鮭の大介」
その昔、信濃川近くにある大長者がいた。ある年の霜月(11月)15日。
いつも川で漁をするはずの漁師たちが揃って仕事を休んでいることを不思議に思ったが、その日は鮭の大介・小介がのぼってくる日と気づいた。
日が経つにつれ、長者はたかが魚ごときになぜ漁を休まむのかと腹が立ってきた。
そこで翌年のその日が近づいた頃、漁師たちに漁を行って大介・小介を捕えるよう告げた。
漁師たちはみな川の王の祟りを恐れたが、長者が権力にものをいわせて脅すので、渋々承知した。

そして霜月15日。
長者は大介・小介が捕まるところを見てやろうと上機嫌で川に出た。

漁師たちが網を放ったが、なぜか大介・小介どころか、小魚すら網にかかることはない。
長者は漁師たちにハッパをかけるが、魚は1匹も捕まらない。

やがて漁師たちは、長者より川の王の祟りを恐れて皆、引き上げてしまった。
川辺には長者1人が残され、既に時は真夜中になってしまった。

気がつくと、目の前に銀髪を輝かせた1人の老婆がいて、長者に言った。

「今日はご苦労であった」

それを見た長者は次第に気が遠くなっていった。
何かを言い返そうとしたが、既に言葉にならない。
老婆が川へと歩いていくと、川辺に激しい水音がした。
そして声が響いた。

「鮭の大介・小介、今のぼる」

大介・小介を先頭にして、月光の照らす中を鮭の群れが川をさかのぼって行った。
長者はすでに息絶えていた。

また、北海道の知床や羅臼で採れるキングサーモンは「すけ」とか「ますのすけ」と呼ばれ、脂がのって幻のキングサーモンなどと珍味とされています。


(次回に続きます)

常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/28 11:56
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