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常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その4)


21、多珂(たか)郡  

郡衙・・・大高台遺跡(高萩市下手綱:県立高萩清松高等学校の敷地。以前の書物には松岡町とあるが松岡町名称はは消滅)

1、多珂の国造:古老の話では、成務(せいむ)天皇(景行天皇の後:4世紀半ば)の世に、建御狭日(たけみさひの)命が多珂の国造に任命された。この人が最初にこの国を巡り、山の峰が険しく高いところだというので「多珂国」と名づけた。建御狭日命は出雲臣と同族(やから)である。今、多珂・石城(風土記を書いた時点では石城郡が多珂郡から分かれて独立)といっているところで、諺に「薦枕(こもまくら:こもは「まこも草」のこと)、多珂の国」という。



2、郡の境界を定めた:久慈郡との境を助河とし、道前(みちのくち:道の口)と呼び、ここを道前の里(日立市北部小木津附近)とし、陸奥国の石城郡苦麻(くま)村(現福島県大熊町)を道後(みちのしり)とした。

3、多珂郡と石城郡の2つに分ける:孝徳天皇の時代(645-654年)に領地が広大で遠く離れており行き来が不便であるという理由で2つの郡に分けた。石城郡は今では陸奥国である。

4、道前の里に飽田(あきた)の村あり。

 昔、ヤマトタケルの天皇が東国を巡ったとき、この野で宿をとった。ある人が申上げた話では「このあたりの野には無数の鹿が群れ、その角は枯れ葦の原のようであり、鹿の吐く息は朝霧の立つようです。また海には鰒(あわび)がいて、大きさは八尺もあり、その他の珍味もたくさんあります」。そこで天皇は野に出て、橘皇后は海に出て、野と海で獲物の幸を競うことになった。天皇の野での狩りには何も獲れなかったが、皇后の海では大漁だった。天皇は「野のものは得ずとも、海のものは飽きるほどだ」といわれたので、後の人々はここを飽田村と名付けている。

5、仏の浜:国宰(国守)が川原宿禰黒麿(かわはらのすくねくろまろ)の時(7世紀後半?)、大海(太平洋)の岸壁に観世音菩薩の像を彫った。これは今も残っている。このためこの地を仏の浜と言う。

6、藻嶋(めしま)の駅家(うまや):郡家の南へ三十里のところに、藻嶋(めしま)の駅家がある。東南の浜辺には碁石がある。常陸の国の美しい碁石は、この浜からのみ産出される。ヤマトタケルの天皇が舟で島の磯を見たとき、「さまざまな海藻がいっぱい生い茂っていたので、藻嶋の名付けられた。

久慈郡図33

<多珂郡の成立と歴史>
 上記の風土記に書かれている多珂郡の記述はあまり多くありません。
このため少し補足しながら歴史的な流れを見て行きましょう。

1、4世紀半ば:国造が派遣され、山が高いので「高国」と名付けられ、国の入口と出口を「道前(みちのくち)」と「道後(みちのしり)」と呼んだ。

成務(せいむ)天皇の頃(4世紀半ば)頃に出雲族の一族の国造(建御狭日命:たけみさひのみこと)命が派遣された(この出雲臣の一族である建御狭日命の子孫が「石城氏=岩城氏(陸奥国)」となったといわれている)。
その国の西、北側は高い山がそびえていたので「高国」と呼び、今の多珂になった。
その当時はそれぞれの地方を国と呼び国造(くにのみやつこ)が選ばれたが、一般にはその地方の豪族か、そこの開拓を行なった(進攻した)大和朝廷の武人などが選任されている。
ここでは出雲族の人物が選ばれている。
大化の改新(645年)前はまだ律令制が制定されておらずこの多珂郡も「多珂国」と呼ばれていて、国造が任命されたという事になる。

またこの初期の多珂国は現・日立市の中心部近くを流れる助河(現在の宮田川)から北側の地域であり、この地域に入る部分を「道前(みちのくち)」と呼び、現在の福島県双葉郡大熊町あたりまで道が続いており、この苦麻(くま)村(大熊町)を「道後(みちのしり)」と名前をつけたという。

この風土記の書かれた720年頃にも助河の北側に「道前の里」がある。
助河は地名として日立市助川町として残る。
10世紀前半に書かれた倭名抄の常陸国多珂郡には「梁津」「伴部」「高野」「多珂」「藻島」「新居」「賀美」「道口」の8つの郷名が書かれており、この「道口」が「道前の里」に当たります。

2、653年に多珂国と石城国に分割された。
孝徳天皇の653年に多珂国造(建御狭日命の後裔)と岩城郷(郷は当時「評」と表記)の造部がこの国の領域が広すぎるので分割を願い出て「多珂郡」「石城郡」に分割された。
ただ、その後この石城郡は陸奥国の範囲となった。

注:記録では718年に「陸奥国の石城・標葉・行方・宇太・日理、常陸国の菊多の6郡を合わせて石城国を置く」とある。
ただこの石城国は10年足らずで全体が陸奥国となった。

(参考)
倭名抄の陸奥国にある郡名一覧:
白河郡、磐瀬郡、会津郡、耶麻郡、安積郡、安達郡、那田郡、柴田郡、名取郡、菊田郡、磐城郡、標葉郡、行方郡、宇多郡、伊具郡、日理郡、宮城郡、星河郡、賀美郡、色麻郡、玉造郡、志太郡、長岡郡、栗原郡、磐井郡、江刺郡、瞻澤郡、新田郡、小田郡、遠田郡、登米郡、桃生郡、気仙郡、牡鹿郡、耶麻郡

郷名一覧(718年に石城国として成立した郡名のみ)
石城郡(磐城郡):蒲津、丸部、神城、荒川、和、磐城、飯野、小高、片依、白田、玉造、楢葉
        (現:浜通り南部で、いわき市(平町)附近)
標葉(しねは)郡:宇良、磐瀬、標葉、余戸(現:浜通り中央部、大熊町・双葉町・浪江町・葛尾村)
行方郡(なめかた):吉名、大江、多珂、子鶴、眞欨、眞野(現:鹿島町・小高町・飯舘村・原町市地域)
宇太(うた)郡:長伴、高階、仲村、飯豊(現:相馬市附近)
日理(わたり)郡:曰理(わたり)、坂本、望多(もうた)、菱沼(現:亘理町、山元町付近)
菊多(きくた)郡:現在の福島県いわき市の最南部地域(現:泉町など小名浜より南西部)

久慈郡図34

①  多珂郡郡衙 (大高台遺跡)
②  道前の里、飽田の村
③  道後の里(石城郡苦麻の村)
④  仏の浜
⑤  仏像(度志観音)
⑥  藻島の駅家(長者屋敷跡)
⑦ 碁石の浜


1、多珂郡郡衙 (大高台遺跡)
 
久慈郡図35 久慈郡図36
 
多珂郡の郡衙推定地は高萩市下手綱にある台地で「大高台遺跡」と呼ばれる場所だとされています。
この遺跡は、東西約300m、南約1,000mに及び、遺跡の南部は、現在、県立高萩清松高等学校の敷地となっています。

2、道前(みちのくち)の里飽田(あきた)の村がある。

久慈郡図37

多珂郡の郡家は高萩市手綱付近とすると、そこから60里西北にあるという。
(しかし、この表記は間違いで西南に30里(約16km)とする解釈が多い)道前の里は現在小木津附近とされ、飽田(あきた)村は日立市相田町附近(小木津駅の東側海岸沿い)であり風土記ではここで倭武の天皇(ヤマトタケル)と橘の皇后(弟橘姫)の山・海の幸の獲物とり競争の話が語られています。

山:鹿が群れている。しかし倭武の天皇は一匹も獲物を取れなかった。
海:鰒魚(アワビ)など豊富で、橘の皇后は百味にあまる獲物を獲た。

二人は海の獲物を飽きるほど食べたので「飽田の村」の名になった。

4、5、仏の浜:田尻町の田尻小学校南側の崖面に仏像が彫られていて「度志(どし)観音跡」と称しており、昭和30(1955)年、「佛ヶ浜」として県指定史跡になりました。
全国の風土記の記述に「仏像」が出てくるのはこの常陸国風土記のこの場所のみです。
この地に観世音菩薩が彫られた7 世紀末、陸奥国の蝦夷が不穏な動きをみせていたので、ここに観世音菩薩を彫って仏像による鎮定の助力を願ったものと考えられています。
この「度志観音」は凝灰岩の石壁に彫られた観音像(磨崖仏)で、かつては常陸(水戸)三十三観音霊場の第15番札所・真言宗「清滝山 源勝院 観泉寺」の本尊であったそうです。
弘仁年中(810~824年)に空海が建立したとの伝承もあり、曹洞宗「天童山 大雄院」(茨城県日立市宮田町)の開祖・南極寿星禅師が文明2年(1470)年に100日間の参籠修行をした場所としても知られています。
その後この「観泉寺」は廃寺となりましたが、大正時代に「大雄院」が境外仏堂として観音堂を再興しましたが、今は仏堂もなく、磨崖仏もかなり崩れており、現在では殆どわからない状態となっています。

久慈郡図38 久慈郡図39

久慈郡図40 久慈郡図41  
 
しかし、この場所が風土記の記述にある「仏の浜」ではないという説が最近は強いようです。
風土記には仏の浜は飽田村と藻島駅家の間にあり、かつ「大海のほとり」にあるということになり、小木津町の東連津川河口に磨崖仏(ほとんど崩れたり消えていたりして余りよく残っていない)があり、この磨崖仏のある近くの海岸が仏の浜であるというのです。
今は正確にはわかりません。
東連津川の河口にある岩壁に観世音菩薩と見られる磨崖仏があります。

久慈郡図42

(次回へ続く)


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/29 09:56
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