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常陸国風土記・・・県北の久慈郡と多珂郡 (その5)


6、藻島(めしま)の駅家(うまや):郡衙の南方三十里のところに、藻島の駅家がある。その東南方の浜辺には碁石がある。
藻島の名の由来:倭武の天皇(ヤマトタケル)が舟に乗って海から磯辺を見たら、様々な種類の海藻(め)が生い茂っていた。そのために藻島と名付けた。

久慈郡図43

藻島の駅家の遺称地:十王町伊師が有力候補地といわれる。伊師に「目島」という小字名が残っており、古代官道跡の調査をきっかけに発見された長者山遺跡が古代官道跡に沿って営まれた8 世紀から10 世紀までの官衙に関連した施設跡と考えられています。藻島の駅家は『日本後紀』の弘仁3年(812)に廃止されたことが記載されており、駅家としては、比較的短い期間(約90年間)でした。

久慈郡図44

十王台古墳群がある丘陵の北西端にある。上の写真の奥に見えるのは愛宕神社。目の前を左右に駅路が走り、その向こうに建物群が並んでいたのです。
この神社の北側に、明瞭に古代東海道の切通し遺構が残されているそうです。
この長者山遺跡の発見は、約280mにわたって続く古代官道の遺構を調査のためトレンチを入れ、両側溝を持つ側溝芯々間距離6.73mの道路跡が見つかったのです。
そして、長者山遺跡を調査したところ建物跡が発見されたものです。

久慈郡図45
「村社 愛宕神社」

この8世紀後半~9世紀前半の時期は、「蝦夷征討」が次第に本格化した時期といわれ、宝亀5年(774)の海道蝦夷による桃生城襲撃からは「38年戦争」が始まりました。
征討終了による”終戦”は弘仁2年(811)です。
藻島駅の廃止の時期と合致します。

蝦夷征討の名の下、律令国家が東北地方で拡大政策を進めており、最前線の陸奥国へ兵士や兵糧などを海上輸送するために、水陸一体化した交通網が整備されたと考えられています。
発掘調査で見つかったこの長者山遺跡では、8世紀半ばから9世紀半ばの12棟の掘立柱建物がコの字型に配置され、9世紀半ば以降の施設には倉庫と見られる8棟の礎石建物があり、多珂郡正倉別院と考えられています。
郡家とは別に、税として徴収された米を保存するための施設です。
郡衙機能も一部担っていたのかもしれません。

7、碁石の浜(ごいしのはま)・・・伊師浜海岸(白砂の砂浜)から鵜の岬周辺の海岸と考えられています。
 
久慈郡図46

囲碁は、奈良時代には中国から入ってきており、貴族たちに愛好されていた。その囲碁に用いられる美しい石がこの浜でとれるのです。現在、伊師浜の国民宿舎鵜の岬の東の入江で白や黒の丸くひらたい石をひろうことができるといいます。
現在囲碁の白い石はハマグリの貝殻が使われています。黒石はこのような海岸の自然石です。

伊師浜という名前については江戸時代初期から使われ始めたようで、その前は石浜と呼ばれていたようです。

久慈郡図47

蚕養(こがい)神社(日立市豊浦)

 日立市の「蚕養神社(こがいじんじゃ)」にも金色姫伝説が残されています。
金色姫が漂着した場所である「豊浦」という地名も三社の中では一番広範囲に使われ、小学校・中学校までその名前がついています。

久慈郡図48 久慈郡図49 

高速の日立北インターを下り、6号国道に出て北上すると、直ぐに日立市の日高、川尻と続き直ぐ右手に「蚕養神社」、左手に「館山神社」の看板が見えます。

右が蚕養神社で、左側は館山神社をはじめいくつかの古い神社の祠が連なる。
ただ左右の神社の氏子は共通であるようだ。
東側(海側)の神社が「蚕養神社」という。
神社の入口の石柱には「蚕養浜道」と彫られていた。

このあたりの浜を小貝浜といっているが、昔は蚕養浜と書いていたのだろう。
奥に見えるのは神社の拝殿ではなく、社務所だ。

社務所の脇に立てられた看板には「日本最初 蚕養神社」となっていた。

この小貝浜の手前に「日高」という地名があり、このあたりも昔は日高見国と呼ばれていたのではないだろうか?

久慈郡図50 久慈郡図51
 
神社へはこの脇の階段を上って行く。
階段を登ったところに、「金色姫伝説」の説明板が置かれていました。
つくば市の蚕影山神社に書かれていたものと内容も少し異なっているがインド(天竺)から船に乗ってやってくるのは同一です。
この神社を調べてみると、ここは明治時代のはじめまでは「於岐都説(おきつせ)明神」と言われていたといいます。
常陸国風土記に出てくる於岐都説(おきつせ)神は三大実録では鹿島神宮・香取神宮と並んで東国三社の一つ「息栖神社」のことだとされています。

この日立の蚕養神社は昔、この息栖神社から分社され於岐都説明神と言われたというのです。
鹿島・香取と並んで東国三社といわれた「息栖神社」は大同二年(807)に神栖市日川地区から、鹿島・香取とちょうど直角三角形になるような現在の息栖の地に移されています。

そして、その日川の地にもう一つの常陸三蚕神社である「蚕霊神社」があります。
この日立の蚕養神社を「於岐都説明神」と呼んでいたということなら、それはもうきっと1200~1300年以上前かもしれません。
根拠はありませんがこの常陸の三蚕神社は皆、息栖神社に関係しているのかもしれません。
ただつくば市神郡の蚕影(山)神社はどのようにつながるのかはわかりません。
しかし、全国に広まっている蚕影神社の総本山であり、群馬県などには40箇所以上の蚕影神社があるといいます。
 常陸国には水戸の静神社や常陸太田の長幡部神社などの機織りの神を祀る古社がありますが、それらは機織りの機械や、布を織る人たちの信仰を集めていて、こちらの三蚕神社は織物のもととなる蚕(かいこ)育て、繭を作る人々の信仰を集めているようです。

そして、全国の農家で繭が作られるようになるとそこに、この三蚕神社から分霊して、養蚕の守り神としての神社が作られていったようです。

全国にこの三蚕神社と同じ名前、似た名前の養蚕神社がたくさんありますがそのほとんどが、常陸国のこれらの神社から分霊されています。
祭神の椎産霊命(わくむすびのみこと)は穀物の生育を司る神であり、宇気母智命(うけもちのみこと)も食物全般の神で、事代主命(ことしろぬしのみこと)は大国主の子で「事を知る」神様だといいます。
神社の裏手から豊浦、川尻、日高の方面が一望できます。


小貝浜 (蚕飼浜)
 
 久慈郡図53 久慈郡図54
 
石段を上ると、向こう側に太平洋が見え、左手が蚕養神社に行き、そのままさらに登っていくと そこが小貝浜緑地です。散策路を少し登ったところに「茨城百景小貝浜」の碑が立っています。

松や雑草などで海の景観を木々の間から垣間見て進みます。
この緑地の眺めは素晴らしく道も整備されていますが、道を外れて海の方に行くと危険だと思います。
比較的地盤がもろい気がします。
危ないところはロープを張ってありますし、進入禁止の立札もあります。

松の枝ぶりと波の打ち寄せる様は絵になる風情があります。
この下の海辺には洞窟もあり、下の浜にも降りられるようです。
島のようになっているのは侵食して島になってしまったのかもしれません。
島の上に松が植わっています。夫婦松と呼ばれているものでしょうか
途中の断崖の上に立つ「波切不動尊」があります。
潮風により風化の速度が速いと思われますが、何回も新しくして続いてきたようです。
 
久慈郡図54 久慈郡図55

鵜の岬
茨城県日立市の北部に鵜の岬はあります。海鵜(ウミウ)が日本列島の冬に北から南へ、春には南から北へ渡るためにこの地の断崖の岬に立ち寄るためにこの名前がつきました。

 久慈郡図56

ここには、日本一予約が取れないほど人気の国民宿舎があります。国民宿舎はまるで立派なリゾートホテルのようです。客室は皆東の海の方を向いています。客室から日の出が見えるのが人気の一つです。鵜の岬は太平洋に突き出した岬でもあり、岩場に寄せる波も豪快なものがあります。鵜の岬は国民宿舎が有名なのですが、日本で唯一の公認された海鵜(ウミウ)の捕獲場があります。日本全国の鵜飼の鵜はほとんどがこの鵜の岬で捕まえられたものです。

久慈郡図57

鵜は渡り鳥ですから、この場所に多くの海鵜が来る4月~6月と10月~12月の年2回が鵜の捕獲が許されている期間です。
この捕獲時期以外の時期に捕獲場所の一般見学が許されています。
捕獲場は この海に突き出した岩場の先端に作られています。
海鵜がこの岩場に止まっています。これはオトリではありません。
今は捕獲時期ではありませんので、捕まることはありません。
波が打ち寄せ、砕け散るこのような岩場に鵜は休憩のためにとまるのです。
渡りの時期は、群れをなしてV字飛行でやってくるそうです。
多い時は100羽くらいが群れになってくるそうです。

捕獲する鵜の数は、全国各地からの注文を受けた数だけを捕獲します。
全国の鵜飼をしている場所は12箇所あり、有名なところは長良川ですね。
その他、岐阜県小瀬鵜飼、山梨県笛吹川石和鵜飼、京都府嵐山鵜飼、広島県三次の鵜飼、山口県岩国の錦帯橋の鵜飼、福島県筑後川鵜飼、大分県日田の鵜飼、愛知県大洲うかい、愛知県木曽川うかい、京都府宇治川鵜飼、和歌山県有田川鵜飼です。

久慈郡図58

海鵜の捕獲場所へはこのトンネルを通って行きます。
この係りの人が捕獲の名人です。7~8年くらいやっているそうです。
海鵜は昭和22年に一般保護鳥に指定され、捕獲制限があります。
断崖の先の捕獲場所には約80m程の細長いトンネルを通って行きます。
意外に広いトンネルで、かがまなくても二人で並んでも充分歩けます。

久慈郡図59

トンネルの先に捕獲場所があります。捕獲はおとりの鵜を5羽ほど、小屋の外に配置し、仲間と思ってやってきた鳥を捕獲します。捕獲の方法は、小屋のわらの下から先端がU字型の「かぎ棒」をそっと出して、岩場にとまった鵜の足を引っ掛け、小屋の中に引き込んで捕まえます。

昔は粘着力のある「とりもち」などが使われたそうですが、羽根にくっついたりして羽を傷める恐れがあるために使われなくなったそうです。
小屋の中央に顔を外に出せる四角い穴があります。
ここからも確認できるのでしょう。
鵜は年間で40羽程度を捕獲しています。


8、黒前の山(くろさきのやま)

「風土記」(逸文 仁和寺本『万葉集註釈』巻第二)の志太郡の名前の由来とされている話しに出てくる「黒前山」は、旧十王町にある竪破山(たつわれさん)のことで、初め「角枯山」と称していたが、のち黒坂命の伝説に因んで「黒前山」となり、その後「竪破山」と呼ばれるようになったそうです。

久慈郡図60

「竪破山」の名は、山頂に真っ二つに割れた巨石があるところから名づけられたものと思われます。

逸文 仁和寺本:信太郡名の条
「黒坂命、陸奥の蝦夷を征討ちたまふ事ありき。凱旋りて、多歌郡の角枯の山に及るに、黒坂命病に遇ひて身故りたまふ。
爰に、角枯を改めめて、黒前山と号く。」

とあります。

(この郡 終り)

常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/05/30 06:53
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