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曽尼の駅家跡(行方郡)と古道

 常陸国風土記を読み解きながら、そこの出てくる地名などを少し追いかけています。
地域に眠る歴史を掘り起こすことが、本来のこのブログのテーマ。
今までに多くの場所を見てきましたが、この風土記を細かく読んでみると、気に留めていなかった場所なども気になるようになりました。
今回、行方郡の郡衙を考えるためにも風土記に書かれている「曽尼(そね)の駅家(うまや)の跡」の碑が道路横に置かれているというので探していってみました。
風土記には有名な角のある蛇の話として出てくる「椎井の池」の近くにあるとなっています。
この池の場所は一応特定され、玉造の泉区にある浄水場のところから下に降ったところにります。
「愛宕神社・夜刀神神社」の看板で案内が出ていますので何度か訪れたことはあります。

ここに鹿島へ通じる官道が通っていたとありますので、私は今まで泉区浄水場近くにあるのではとぼんやり考えていました。
しかし、地元の「玉造郷土文化研究会」で設置したこの駅家の碑のある場所は、県道50号線(玉造-神栖線)沿いにありました。

玉造の市街地より国道354を鹿行大橋方面に進み、県道50号線との交差点「泉北」信号を右に(潮来方面)に曲がってすぐに、泉区浄水場からの道路があります。この少し先にセレモニーホールがあり、このホールの駐車場の先端部に近いところに、下記写真のような石碑と案内板がおかれていました。

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一般の民家の入り口近くです。

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この曽尼(そね)の名前の由来については確かに風土記の記述では「疏禰毘古」という佐伯の名前から付けられたと書かれています。
佐伯というのは当時大和朝廷に逆らった現地人のことであると一般にはいわれています。

ただ、「ソネ」については、中心都市の隣の部落などにつけられていたのではないかとの指摘もあります。
古代東海道の常陸国国府府中(現石岡)の一つ手前の駅家(うまや)の名前は延喜式に記載があり「曽弥(そね)」となっており、ここも常陸国府から鹿島への官道の一つ目の駅家です。

なぜなのでしょう。
常陸国風土記が書かれた奈良時代の初期に「そね」という名前は既にあったが、これを記載した大和朝廷の人々はこの言葉の意味が分からなかったのでしょうね。
こんなことを考えてこの意味を解明するのも面白そうですね。

さて、この場所は「椎井の池」から見ると少し離れているようにも見えますが、本当にこちらにあったのでしょうか?


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この駅家跡の碑が置かれているのは県道50号線に脇道が交差する場所にあります。
上の写真のような細い道が泉浄水場の方から県道50号と並行するようにこの場所に続いています。

ではこの駅家の次の駅家は板来(潮来)にあったと書かれており、現在潮来の古刹「長勝寺」の本堂の横の境内に「板来駅家跡」の木の立て札が建てられています。

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今回この県道50号線をそのまま潮来方面に進みました。
しばらく行って右側にたくさんの牛乳などの自動販売機などが立ち並んだ「りさき牛乳店」のところ(信号:手賀?)を少し過ぎて右側に「西蓮寺参道入り口」と書かれた看板がありました。
前に通った時も気になったのですが、ここから参道が2㎞西蓮寺(さいれんじ)まで続いていたようです。
少し道は細いですが、車も十分走れます。
このあたりは一面畑地が広がっていました。

ここは住所も西蓮寺、そしてこの少し先が「井上」でその先が県道183号線と交差し、信号は「井上藤井」です。
信号すぐ隣に大きな施設「なめかた地域医療センター」があります。
実は、この西蓮寺参道入り口と「井上藤井」信号までの区間の右側(西側)の畑の部分に、航空写真から大きな屋敷跡(基礎部分など)が見つかり、「井上長者館跡」と名付けられた場所があります。

恐らく古代の行方郡の郡衙はこの辺りではなかったかと思われるのです。
やはり県道50号線沿いですね。

さて、この50号線をさらに進んでいくと大生古墳群に近い場所「水郷県民の森」脇を通り、大生神社の方からくる県道187号線と立体交差(50号が下)があります。
この交差点付近は「築地」と呼ばれる地域ですがこの交差点のところに「熱田神社」があります。
この熱田神社は江戸時代に水戸光圀が名古屋の熱田神宮と同じようなヤマトタケルの伝承が残されているというので命名された神社名です。
常陸国風土記には書かれていないのですがヤマトタケルの伝承が伝わる珍しい神社だと思います。
この神社の隣に廃校となった「津知小学校」の跡地があります。
この津知という名前は、この場所から潮来市街の現在の辻交差点の方に細長く地名が残され、以前は津知村、今は潮来市辻となりました。

私は風土記に記載された「板来駅家」はこの津知の霞ケ浦近くの川近くにあったのではないかと考えています。
(旧津知役場跡あたり)

辻の名前も多くの場所が、港(津)への街道からの分かれ道についているように感じています。
「津知=津を知る → 辻」

やはりこの鹿島道は現在の県道50号線に近い場所を走っていたというのは大いに考えられそうです。
どうも、今回、江戸時代以降に多くの人々が通った霞ケ浦沿いの国道から昔(古代、奈良時代など)の物を考えるのは間違いのもとのような気がしました。




常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/06/16 11:24
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