古代の郷名(常陸国風土記から)
常陸国風土記を読み進めていくと、この頃の地名はまだかなり固定されておらず、呼び名はあってもまだその地名の意味もよくわからなかったと思われる。
その土地で使われている言葉と、都からやってきたお役人などとの間でスムーズに会話できたのかも意外にわからない気がしてきた。
常陸国の成立も645年の大化の改新から50年くらいの間に形が固定されてきているように思う。
常陸国との呼び名も同様だ。
確かにこの地を統括する国司が選ばれてはいるが、当初はその地に進出して制圧していった武人がそこの長(国造:くにのみやつこ)として任命され、そこに都から別(わけ)と呼ばれる官人を補佐につけて運営していたようだ。
これがやっと形になってくるまで約半世紀(50年)ほどかかっている。
国司として常陸守が初めて任命されたのは西暦700年10月(百済王遠寶)であり、その少し前まで「常陸」という名前は出てきていないようだ。常道などという呼び方はあったようだから、常道が常陸という名前になっていったものとは推察できそうだ。
常陸国風土記の記載によれば、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国に国造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されていたが、
649年:鹿島郡(海上国と那珂とから分割)
653年:行方郡(茨城郡の8里と那珂郡の7里を分割)
653年:信太郡(筑波と茨城郡から700戸を分割
600年代後半:白壁郡(筑波郡から分割)(後に真壁郡と名称変更)
このころの 行方郡の成立と古代郷名日本は白村江の戦いが661~663年であり、唐が高句麗を滅ぼしたのは668年であるので、日本でも唐の制度を早急に取り入れ、外敵にもかなり神経を使っていたと思われる。
当時、距離ではなく面積の里(さと)と呼ばれた単位は戸の単位で約50戸を呼んでいたようであり、この戸はかまどの数で一緒に生活する人数では約10人ほどいたといわれている。
そのため、1里(さと)≒50戸≒500人 が一単位と大雑把にみていいだろう。
また、距離の1里≒0.53km として計算しておけばよさそうだ。
これが、奈良時代のころまでは1里(さと)50戸としていたものが、次第に里を使わずに「郷」の字を使うようになっていった。
930年代に編纂された倭名類聚抄(和名抄)にはそれぞれの郡における郷名が記載されている。
常陸国風土記に最も詳しい記載がされているのは「行方郡」であるので、これを少し、和名抄や現在の遺称地と言われている地名(都市名)とをまとめてみた。
少し頭の中がスッキリした。
しかし何故かこのようなものをあまり見かけないのだが。これも推察が入っていたりして決定的ではないが、今後いろいろな場所へ行って本を読み直してみればだんだんと確信に変わるものと考えている。
行方郡の成立と古代郷名の関係
※0 風土記の表現 和名抄郷名 読み 現在の遺称地※11
<茨城郡> 8里 →9郷(行方の里が行方郷と井上郷に分かれた?)
現原(の丘) 荒原※1 あらはら 芹沢・青柳・若海・蕨・石神
曾尼の村※2 曾禰 そね 玉造中心部
提賀の里※3 提賀 てが 玉造手賀(玉造南西部)
(行方?) 井上※4 いのうえ 井上・藤井・出沼・西蓮寺
〃 行方 なめかた 麻生町行方・船子・五町田・於下
男高の里 小高※5 おだか 旧小高村
(?) 高家 たけべ(たけい) 内宿・両宿・山田
芸都の里 藝都※6 きつ 小貫・次木(なみき)・成田・長野江・三和(帆津倉)
(?) 餘戸※7 あまるべ 小幡・行戸(ゆくど)
<那珂郡> 7里→8郷(香澄の里が香澄郷と八代郷に分かれた)
麻生の里 麻生 あそう 麻生・島並・小屋・石神
香澄の里 香澄 かすみ 永山、清水・牛堀
〃 八代※8 やしろ 上戸・島須・赤須・築地・茂木・堀ノ内
板来の村 板来※9 いたこ 潮来・辻・古高
大生の里 大生 おおう 大生・釜谷・水原・築地・延方
田の里 道田 みちた 新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿
相鹿の里 逢鹿 おおが 大賀・根小屋・蔵川・岡(岡平)・宇崎・八幡・石神・白浜
当麻の里 当麻※10 たぎま 鉾田市当間
※0 白雉四年(653年)に茨城郡より8里、那珂郡より7里の合わせて15里を行方郡とした。
※1 もともとは現原といったようだが、広野が多かったために荒原郷となったという。
※2 曾禰は疏禰毘古という佐伯の名前から村の名前を「曾尼」としたとある。
※3 手鹿という佐伯の名前から村の名前を提賀の里としたとある。
※4 井上は清玉井の上と解釈されており、風土記記載時は行方郷と一体と思われる。
※5 小高という佐伯の名前から男高となったとあるが、平安時代に小高郷になったものか?
※6 化蘇沼稲荷神社は現在高家郷に入るが、当時はこの神社あたりまで芸都の里と考えられる。
※7 50戸(約500軒)を1里(郷)としたが、それに満たない場所を餘戸と呼んでいたという。
※8 平安時代に香澄郷から独立し成立したと思われる。
※9 和名抄には「坂来」と郷名が書かれているが、記載ミスとしている。
※10 和名抄には「当鹿」と郷名が書かれている。これも表記ミスで「当麻」という。
※11 この郷名にあたる現在の遺称地は、新編常陸や角川地名辞典などを参考とした(予想地)
その土地で使われている言葉と、都からやってきたお役人などとの間でスムーズに会話できたのかも意外にわからない気がしてきた。
常陸国の成立も645年の大化の改新から50年くらいの間に形が固定されてきているように思う。
常陸国との呼び名も同様だ。
確かにこの地を統括する国司が選ばれてはいるが、当初はその地に進出して制圧していった武人がそこの長(国造:くにのみやつこ)として任命され、そこに都から別(わけ)と呼ばれる官人を補佐につけて運営していたようだ。
これがやっと形になってくるまで約半世紀(50年)ほどかかっている。
国司として常陸守が初めて任命されたのは西暦700年10月(百済王遠寶)であり、その少し前まで「常陸」という名前は出てきていないようだ。常道などという呼び方はあったようだから、常道が常陸という名前になっていったものとは推察できそうだ。
常陸国風土記の記載によれば、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の6国に国造(みやつこ)・別(わけ)が派遣されていたが、
649年:鹿島郡(海上国と那珂とから分割)
653年:行方郡(茨城郡の8里と那珂郡の7里を分割)
653年:信太郡(筑波と茨城郡から700戸を分割
600年代後半:白壁郡(筑波郡から分割)(後に真壁郡と名称変更)
このころの 行方郡の成立と古代郷名日本は白村江の戦いが661~663年であり、唐が高句麗を滅ぼしたのは668年であるので、日本でも唐の制度を早急に取り入れ、外敵にもかなり神経を使っていたと思われる。
当時、距離ではなく面積の里(さと)と呼ばれた単位は戸の単位で約50戸を呼んでいたようであり、この戸はかまどの数で一緒に生活する人数では約10人ほどいたといわれている。
そのため、1里(さと)≒50戸≒500人 が一単位と大雑把にみていいだろう。
また、距離の1里≒0.53km として計算しておけばよさそうだ。
これが、奈良時代のころまでは1里(さと)50戸としていたものが、次第に里を使わずに「郷」の字を使うようになっていった。
930年代に編纂された倭名類聚抄(和名抄)にはそれぞれの郡における郷名が記載されている。
常陸国風土記に最も詳しい記載がされているのは「行方郡」であるので、これを少し、和名抄や現在の遺称地と言われている地名(都市名)とをまとめてみた。
少し頭の中がスッキリした。
しかし何故かこのようなものをあまり見かけないのだが。これも推察が入っていたりして決定的ではないが、今後いろいろな場所へ行って本を読み直してみればだんだんと確信に変わるものと考えている。
行方郡の成立と古代郷名の関係
※0 風土記の表現 和名抄郷名 読み 現在の遺称地※11
<茨城郡> 8里 →9郷(行方の里が行方郷と井上郷に分かれた?)
現原(の丘) 荒原※1 あらはら 芹沢・青柳・若海・蕨・石神
曾尼の村※2 曾禰 そね 玉造中心部
提賀の里※3 提賀 てが 玉造手賀(玉造南西部)
(行方?) 井上※4 いのうえ 井上・藤井・出沼・西蓮寺
〃 行方 なめかた 麻生町行方・船子・五町田・於下
男高の里 小高※5 おだか 旧小高村
(?) 高家 たけべ(たけい) 内宿・両宿・山田
芸都の里 藝都※6 きつ 小貫・次木(なみき)・成田・長野江・三和(帆津倉)
(?) 餘戸※7 あまるべ 小幡・行戸(ゆくど)
<那珂郡> 7里→8郷(香澄の里が香澄郷と八代郷に分かれた)
麻生の里 麻生 あそう 麻生・島並・小屋・石神
香澄の里 香澄 かすみ 永山、清水・牛堀
〃 八代※8 やしろ 上戸・島須・赤須・築地・茂木・堀ノ内
板来の村 板来※9 いたこ 潮来・辻・古高
大生の里 大生 おおう 大生・釜谷・水原・築地・延方
田の里 道田 みちた 新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿
相鹿の里 逢鹿 おおが 大賀・根小屋・蔵川・岡(岡平)・宇崎・八幡・石神・白浜
当麻の里 当麻※10 たぎま 鉾田市当間
※0 白雉四年(653年)に茨城郡より8里、那珂郡より7里の合わせて15里を行方郡とした。
※1 もともとは現原といったようだが、広野が多かったために荒原郷となったという。
※2 曾禰は疏禰毘古という佐伯の名前から村の名前を「曾尼」としたとある。
※3 手鹿という佐伯の名前から村の名前を提賀の里としたとある。
※4 井上は清玉井の上と解釈されており、風土記記載時は行方郷と一体と思われる。
※5 小高という佐伯の名前から男高となったとあるが、平安時代に小高郷になったものか?
※6 化蘇沼稲荷神社は現在高家郷に入るが、当時はこの神社あたりまで芸都の里と考えられる。
※7 50戸(約500軒)を1里(郷)としたが、それに満たない場所を餘戸と呼んでいたという。
※8 平安時代に香澄郷から独立し成立したと思われる。
※9 和名抄には「坂来」と郷名が書かれているが、記載ミスとしている。
※10 和名抄には「当鹿」と郷名が書かれている。これも表記ミスで「当麻」という。
※11 この郷名にあたる現在の遺称地は、新編常陸や角川地名辞典などを参考とした(予想地)
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