fc2ブログ

常陸国風土記の世界<信太郡>(1)

 「常陸国風土記を読みながら、その遺称地を巡る」をテーマにして少しずつまとめています。

今回は信太郡をまとめてみました。

2-5 信太(しだ)郡   <読みは倭名抄では「志多」>  (風土記の記載内容)
(郡衙は美浦村信太付近? 後に下君山へ移転?) 

東:信太の流海(うみ)、南:榎(え)の浦の流海、西:毛野の河、北:河内郡
この本にはないが、逸文として、「白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり」とある。これも重要。

(1) 郡の北十里に碓井(うすい)あり、景行天皇が浮島の仮宮(今、浮島に景行天皇行在所(あんざいしょ)跡=お伊勢の台の碑がある)に行幸された時、水質が悪く、差し上げる水がなかった。そこで占いをする者に占わせ掘らせた井戸(碓井)が雄栗の村に残っている。・・・この井戸は陸平貝塚のぶくぶく水のあたりで、雄栗の村は陸平貝塚周辺と推定され、その名は水を浮島へ送ったことによるといわれている。(県HPより)

(2) 西に高来(たかく)の里(現:阿見町竹久:たかく)がある。昔普都(ふつ)の大神(香取神宮の祭神の経津主神か)が天から葦原中津国(:倭国本土?)に降りてきて、山河の荒ぶる神を平定し、身につけていた甲(よろい)・戈(ほこ)・楯(たて)・剣(つるぎ)や玉類まですっかり脱ぎ捨てて天に昇って行った。
・・・美浦村郷中の楯縫(たてぬい)神社が遺称地とされているが、美浦村信太にもう一つ楯縫神社があり、こちらは信太郡惣社と言われこちらの方が古いかもしれない。なお、竹久には阿彌神社(信太郡の二の宮)がある。ただし阿見町中郷にもう一つの阿彌神社がある。両社とも元は1つであったが途中で分れたのかも知れない。

(3) 諺(いいならわし):葦原の鹿は味爛(くさ)れるがごとく、喫(くら)ふに山の宍(しし)に異なれり。二つの国(下総と常陸)の大猟も、絶え尽すことはない。(正確な意味は不明)

(4) 飯名の社(やしろ):現つくば市臼井にある「飯名神社」の分社があったという。場所は龍ヶ崎市と牛久市にまたがる女化稲荷神社との説もあるが、龍ケ崎市八代町稲塚にある「稲塚古墳」あたりとの説が有力。稲塚古墳の墳上には稲塚神社という小祠がある。飯名(いいな)が稲敷の名前の由来との説が強い。つくばの飯名神社境内に万葉集の歌碑がある。
○筑波嶺に 雪かも降らる いなをかも 愛しき子ろが 布乾さるかも(作者不明、東歌)
→ いな=否、を=諾 でいやちがう? そうかな?と迷っている様子です。

(5) 榎浦の津に駅家(うまや)が設置されており、東海道の常陸国に入る入口である。伝駅使(はゆまづかい:駅馬に乗用することが許された公的な使者)はここで口をすすぎ手を洗い、香島の大神を拝し、それから初めてこの国に入ることができる。…榎浦(えのうら)の津は昔の流れ海がどのようになっていたか不明で、小野川西岸とすれば下君山、羽賀沼、江戸崎付近などが考えられる。古代の東海道は対岸の荒海(あらみ)駅屋から舟で渡ってきたと考えられるが、かなり早い時期にこの駅も廃止となったので不明な部分も多い。古代の東海道は中路でほぼ30里(約16km)毎に駅屋は設け、約10疋の馬を配していたと考えられています。香島の大神は鹿島神宮だが、本風土記の香島郡には天つ大神の社(鹿島神宮)、坂戸の社、沼尾の社の三つをあはせて香島の天の大神というと書かれています。

(6) 古老の話し:倭武天皇(ヤマトタケル)が乗浜に行ったとき、浜辺に海苔が乾してあったため、能理波麻(のりはま)村と名付けた。

(7) 浮島:戸数十五戸、田七・八町ばかり、塩を焼いて生計を立てている。社が九ある。
戸数とはかまどの数と考えられるので人口はこの10倍くらいはいたようだ。田畑は少なく塩を焼いて生計を立てていた。社(やしろ)が多く物部氏一族が居住していたのかもしれない。(続日本紀に養老七年(723年)三月 物部国依に信太連(しだのむらじ)の姓(むらじ)を賜ったとある)

(注)以下逸文(写本にはないが、他での引用などで見つかっている文)

(8)黒坂命が陸奥の蝦夷を言向け、凱旋して多珂郡の角枯之山まで来たとき、病のためここで亡くなった。このとき角枯を黒前山と改めた。黒坂命のなきがらを乗せた車が、この山から日高見之国に向かった。葬列の赤旗、青旗は入り交じって翻り、雲を飛ばし虹を引いたようで、野や道を輝かせた。このことから幡垂(はたしで)の国といったが、後に縮まって信太(しだ)の国という。

(9)白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり。

3-4 信太郡  (風土記記載の遺称地)

信太郡1

 信太郡は今の稲敷市(旧江戸崎町・新利根町・東町・桜川村)と美浦村、阿見町が含まれる範囲と思われます。ただ、この地域も風土記の書かれた当時からは地形的に大きく変化しています。そのため、当時を再現するためにFlood Mapsにより海面高さを+5mしてみて見ましょう。特に違っているところは、

1)利根川の東遷により大きな内海であった南部の地域はすっかり陸地に変化した。

2)下総側の成田地域附近まで内海があり、ここに下総国府から鹿島神宮への官道の駅「荒海(あらみ)」という駅家(うまや)があった。(西暦815年頃廃止)奈良朝初期頃、国司はここから舟で常陸国に渡ったと考えられています。ただ下総国府は現在の市川市真間あたりと考えられており、もう少し手前の布佐や木下あたりから対岸の利根町へ渡り、そこからやはり舟で渡ったとも考えられる。地図には榎浦の流海、榎浦の津を記載しているが、これもまだ特定されているものではありません。

3)当時浮島は陸から分離した島であり、潮の関係で陸続きになることもあったようだ。ただ、江戸時代に土砂が堆積すると同時に浅くなった場所を埋立、干拓して完全な陸続きになった。(これは東側も同じで、現在国道50号線附近まで干拓地が広がっている)

4)現在の古渡(ふっと)から江戸崎のところを流れている小野川は当時今の何倍も川幅が広くあった。これは江戸崎周辺でも江戸時代以降に干拓された地域が広がり茨城百景 「江戸崎の景」や江戸崎八景「吹上の秋月」「洲崎の晴嵐」などの現在の景色と見比べるとわかると思います。水鳥の宝庫だった水辺が広大な水田地帯に変っています。

では現在の地図で遺称地といわれる場所を載せ、詳細をその後に載せます。

信太郡2

① 信太郡郡衙1(信太) ② 信太郡郡衙2(下君山)③ 碓井・雄栗の村 
④ 浮島の帳宮 ⑤ 楯縫神社1(郷中)⑥ 楯縫神社2(信太)
⑦ 阿彌神社1(竹来)  ⑧ 阿彌神社2(中郷) ⑨ 飯名の社
⑩  広畑貝塚  ⑪ 弁天塚(大塚)古墳

では次回からはそれぞれの場所を紹介します。



常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/06/22 10:09
コメント

管理者のみに表示