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常陸国風土記の世界<信太郡>(2)

(風土記の信太郡の地域を歩いてみた記録を順に数回に分けて載せます。)

① 信太郡郡衙1 美浦村信太附近
 信太郡の成立は本文には書かれていないが、逸文として、「白雉4年(653年)、小山上物部河内、大乙上物部会津らが、惣領高向の大夫らに請いて、筑波と茨城の郡の700戸を分かちて信太の郡を置けり、この地はもと日高見国なり」という記載がある。
この風土記成立の奈良朝初期には現在美浦村に信太といわれる地名が残る地域辺りではないかとされています。当時ここらあたりは入り江になった高台にあったと思われます。

② 信太郡郡衙2 美稲敷市下君山附近
 古代の官道である「古東海道」の駅家(うまや)を探していくと、下総台地の「荒海(あらみ)」駅家あたりから常陸国側に舟で渡って来たと思われています。ただ、この荒海駅も815年頃には廃止され、次第にルートも北へずれて行き、メインの古東海道は信太郡の北側へ移動したと思われます。風土記記載の「榎浦の津」という常陸国の入口にあったとされる駅家(うまや)も恐らく廃止されたと思われます。しかし、この下君山地区から古代の官寺の跡という遺跡が発見(2014年5月に考古学会報告あり)されました。この寺(下君山廃寺)からは国分寺系列の瓦が出土しており、その制作年代は奈良時代後期と見られています。そのため、奈良時代後期に郡寺として建てられたものと考えられ、郡衙もその頃にこの近くに移転されたものと考えられます。現在現地は畑地と林が点在しており、塔の路盤なども残されているようです。

③ 碓井・雄栗の村 陸平(おかだいら)貝塚附近
 昔、景行天皇が浮島の仮在所に来た時に井戸を掘らせた場所は、現在の国指定史跡となっている「陸平貝塚公園」内の北側にある「ぶくぶく水」といわれる湧き水ではないかといわれている。
そのため、この辺り「雄栗の村」であり、この池が「碓井」であるかもしれないという。
しかし確かなことはわかっていない。

この貝塚を訪れた時に書いた記事を参考に以下に載せます。

<縄文時代を貝塚に見た(陸平貝塚)>
 この美浦村周辺を理解するために最初に訪れたのは国指定史跡である「陸平(おかだいら)貝塚」です。ここは考古学のルーツともいわれるほどその方面では有名な場所です。
陸平というだけあり、丘になって霞ケ浦までの距離も近いですが昔は霞ケ浦も海水であり5000年前は今より2~4m水面が高かったといわれ、貝塚の高さ付近で海に接していたと思われます。頭の上から暑い夏の日差しが降り注ぎ、貝塚に向かう木々の中はツクツクボウシの大合唱でした。運よく地元の協力による発掘調査(小規模ですが)の最中で、地元の小学生も手伝い貝や土器の破片を選別していました。

信太郡3 信太郡4
 
陸平は明治のころは岡平と称されていたそうで、いま草原となっている岡の周りにA~Iの貝塚が発掘されており、縄文時代早期、前期、中期、後期と約10000年前から3000年前頃までの貝層が発見されています。このように長い間人が住んでいたのです。
大和朝廷の歴史などその後のほんの一瞬のようなものです。

住民参加の発掘調査(8/22~9/5)は夏休みの小学生も発掘のお手伝いをしていました。
今霞ケ浦は周りに黄色い稲穂と蓮の花がよくマッチし、シラサギが舞うのどかな風景でした。陸平の貝塚では私の肩にミンミンゼミがとまりまた去って行きました。とても時間がゆっくりと流れていました。そして美浦村の保護活動に感心して戻ってきました。
まだまだ壮大な古代の遺跡が眠っているようですが、ゆっくりと周りを保全して将来に繋いでいくことでしょう。

 その後、また冬場に現地を訪れました。今度は文化財センターのところから東側の道を散策してみました。植物や動物なども、冬場は何もありません。しかし縄文の丘を渡る風が気持ち良く吹いていました。

信太郡5

丘の先の方の坂を下りると「ブクブク水」という湧水があります。公園のはずれに地元も方たちが再現した縄文時代の家があります。この建設時の説明があり、ここ陸平の地元ボランティアなどの活動を知ることができました。とてもうれしくなりました。美浦村には「陸平をヨイショする会」があります。この会は、陸平貝塚をヨイショすることを目的に、平成7年3月に結成されました。

④  浮島の帳宮(景行天皇行在所跡(お伊勢の台))
 霞ケ浦の南側湖岸を旅すると、この地の古い遺跡が多く眠っているのに驚かされます。しかし、そのほとんどが感心も持たれずにひっそりと眠っています。
確かに貝塚などの遺跡を除けばお話に登場する程度で、本当かどうかも疑われるようなものかもしれません。
ここは稲敷市の浮島に眠る史跡です。名前の通り、昔は霞ケ浦に浮かぶ島だったところです。

黒坂命(くろさかのみこと)はこの地にやってきてここから北の方を制圧していき、日立市北部の竪破山で亡くなり、この霞ケ浦が見える地に埋葬されたと伝えられます。
さて黒坂命の時代後だと推察されますが、景行天皇の第2皇子といわれるヤマトタケル(日本武尊)がこの地にやってきました。
そして、この湖を渡り対岸の行方を含め、東国の地を平定して故郷に戻る途中(伊勢)で病に罹り亡くなったといわれています。
神話であり事実かどうかはわかりません。
常陸国風土記には、この地に父である景行天皇が息子ヤマトタケルの辿った跡を偲んでやってきたと記されています。

景行天皇は、この浮島に来て帳(とばり)の宮(仮宮)に行き、そこにしばらく滞在したとあります。
その場所が「景行天皇行在所(あんざいしょ)跡」でお伊勢の台と呼ばれる丘です。
風土記の逸文では、この行宮に三十日(みそか)滞在したとあり、この島にいる「賀久賀鳥(かくがどり)」のさえずる声が可愛らしかったので伊賀理命を遣わして網を張ってこの鳥を捕まえさせたといいます。
そして、この鳥を捕まえた伊賀理命に「鳥取」という名前を与えたのです。
どうして出雲の国とつながる話がこの地に出てくるのか不思議です。
景行天皇は西暦71年~130年となっていますが、実際には4世紀初め頃の話だと思われます。

浮島地区に入り右側に小山が見えてきた。ここが浮島かと思いましたが、辺りには何もありません。店舗やガソリンスタンドも閉鎖されています。
そのまま進むと真っ直ぐ行く道の両側は田圃や畑など一面の平地となり、昔はこの辺り一帯が海(湖)であったのだろうと想像しながら進む。

信太郡6

浮島に入り、浮島小学校の少し先に「景行天皇行在所」の看板が見えた。
すぐ手前が農家の直売所のような建物があり駐車もできるが、店はやっておらず、辺りにはだれもいない。

信太郡7 信太郡8
 
階段を登ると少し広くなった小山の上に石碑が置かれていた。
東京墨田区堤通に「隅田川神社」が鎮座しています。この神社は昔「浮島宮」と言われたそうです。
浮島宮はこの景行天皇の行宮のことで、それが隅田川に移されたものだと伝えられています。
でも、この浮島の現地にはそんなことは何処にも書かれていません。

まだまだわからないことがたくさんありそうです。
この隅田川神社(浮島宮)は鳥石楠船命(とりのいわくすふね)を祀っています。

常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら


常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/06/23 05:22
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