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常陸国風土記の世界<信太郡>(3)


⑤ 楯縫神社1(美浦村郷中)
楯縫神社は2箇所あり、最初は大きな方の神社から紹介します。美浦村郷中にあります。
風土記の記載では普都(ふつの)大神は、葦原の中津の国を巡行し、山川の荒ぶる神たちを和め、それを終へて天に帰らうとして、身に着けていた厳(いつ)の鎧・矛・楯・剣、手に付けていた玉を、すべて脱ぎ捨て、この国に遺して、天に昇り帰って行ったとあります。

この普都大神とは一般に言われている経津主神(ふつぬしのかみ)のことで、香取神宮の祭神になっている神様で、物部(もののべ)氏の神といわれています。

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神様と言っても昔この地を平定した武人であったと思いますが、鹿島神宮の建御雷神(たけみかづちのかみ)と共に出雲で国譲りを成し遂げた神です。
この神がこの地を平定して帰る時に身につけていた楯や剣などを全てこの地に残していったと伝えられているのです。

「楯脱ぎ」というのが「楯縫」になったといわれています。
その残された楯や剣などをお祀りしたのがこの楯縫神社です。
香取神宮のあたりからこの美浦・阿見辺りまでは昔、物部氏の勢力範囲となっていたと考えてもいいでしょう。延喜式の神社名簿にはこの楯縫神社と阿見町竹来(たかく)にある阿弥神社の2社が載っています。 
場所は旧125号線の美浦村中心地を通過してバイパスと交わる少し手前にあります。
神社入り口の1の鳥居から2の鳥居に進み真っ直ぐ正面に神社の拝殿が見える。古木に囲まれて進むと気持ちも神聖な気分になる。

現地の案内板によればこの神社には木製の狛犬があり村の文化財だという。
やはり阿吽の対になった狛犬だというが狛犬を屋外に置くようになったのは江戸時代になってからだそうで、ここの狛犬は屋内に置かれているのだという。

姿を見て見たかったが内部は見えなかった。訪れた時は境内の紅葉もきれいだった。しかし一人もいない。静かでひっそりとした神社はいい。
本殿にもかなり凝った彫刻が彫られていました。

⑥ 楯縫神社2(阿見町郷中)
 稲敷郡美浦村にあるもう一つの楯縫(たてぬい)神社(信太)を紹介します。
この楯縫神社は、美浦トレセンに向かう途中の「信太(しだ)」とその地名に残されている場所にあります。そこは信太小太郎の屋敷あったとされる「佐倉」のすぐ近くです。

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トレセンに向かう途中の通り近くの空き地に車を停めて、通りの東側の神社を目指します。
この辺り一帯が少し高く飛び出していて、この高台の下まで昔は海が来ていたであろうことが推察できます。
もう一つの楯縫神社とは明らかに地形が違っています。

むかしの人が建てた神社などの祭礼の場所としてはこのような崖の上のような場所が向いていると思われます。
神社脇の道を行くと家や田んぼが広がり霞ヶ浦につながっている。
1500年くらい前はどんな姿だったのだろうか?
神社は郷中の楯縫神社に比べればかなり質素です。しかし、こちらの神社が信太郡総社だとも言われています。

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拝殿

神社は無人のようだが、管理されている人は代々おられるようだ。信太小太郎の子孫だとも言われるという記事も読んだが内容は不明。 この先の「美浦トレセン」近くで「大作台遺跡」「信太入子ノ台遺跡(トレセン美駒寮横)H22年」などの遺跡が見つかっており、縄文時代から平安時代の住居跡や、「志太」と墨で書かれた土器なども見つかっていて大変興味深い地域なのです。

⑦ 阿彌神社1(阿見町竹来)
 信太郡の二ノ宮といわれる阿見町竹来(たかく)に鎮座する「阿弥(阿彌)(あみ)神社」に行ってみました。常陸国風土記に「高来の里」と出てくるところです。(高来=竹来)
「碓氷から西に行くと高来(たかく)の里がある。」と書かれた場所です。
この阿弥神社は県社でもあり格式の高い神社です。阿見町の名前の由来となっていると感じました。12月初めに訪れたのですが、銀杏の木が神社拝殿前にあるのですが、訪れる人も少なく、銀杏の葉のじゅうたんが出来ていました。

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  神社拝殿
 
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    神楽殿(昔の神宮寺?)

この神社の創建は607年、推古天皇(593-629)の年代と伝えられています。
ここは物部の「普都大神」の降臨した地であり、中世では庄内第一の惣廟(そうびょう)として二の宮と呼ばれていたが、近世になって(明治6年10月)「阿弥神社」と改めたという。

この神社の祭神は「武甕槌命」となっており、香取の神ではなく鹿島の神です。
藤原氏が天下をとるとその神(春日大社)は鹿島の神(武甕槌命タケミカヅチ)で、物部氏の足跡が消えていったのかも知れません。

境内社。このほかに参道の途中から小道がのびており、幾つもの小さな祠(境内社)が置かれています。
また神社の参道は両側には鬱蒼とした木々が聳えます。
ここは阿見町指定天然記念物の「阿弥神社樹叢(じゅそう)」です。
この神社神域の日本杉はいつからあるのかは明らかではないそうで、300年以上前からあることは切り株などからわかっているだけだそうです。

しかし、この千数百年前からの歴史ある地域の樹叢を天然記念物に指定しています。
それにしてもこの神社も忘れられたように鎮座しています。

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  神社本殿。元禄4年(1691)の棟札がある。

阿見町内では最古の建築だそうだ。吉田麦翠の句碑『湖の風も通うて夏木立』が入口鳥居のすぐ近くの木の茂みの中に置かれています。麦翠は地元竹来の人で、近世後期の町域農民に広く俳句を普及させました人です。

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入口鳥居から神社までの参道の両側にこの樹叢が広がります。

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神社拝殿手前に置かれている狛犬はなかなか面白く、迫力もある顔です。


⑧ 阿彌神社2(阿見町中郷)
阿見町の名前の謂れともなっている「阿彌神社」が二つあり、それぞれがこの「元となっている」との論争もあるようだ。どちらもかなり古くからある神社だ。今度は阿見町の中心に近い阿見町中郷にある阿彌神社を紹介します。

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中郷の阿彌神社は国道125号線のバイパスと県道203号線とに挟まれた場所で、国道側の西郷信号近くに鳥居がありそこから長い参道が続いている。

この神社は現地看板の由緒では
「「崇神天皇18年(紀元前80年)、豊城入彦命が崇神天皇の勅命による東国平定で当地に訪れた際、「皇祖の天下を経営せらるるや阿彌普都、実に能く天業を補弼せり、其神功成るに及びて天に還りしと、蓋し是地に於てするや」と常陸国風土記に記された普都大神の事蹟を偲ばれた。この御言葉が信太郡阿彌郷、ひいては阿見町の由来になったという。この伝承を縁故として、和銅元年(708年)に祠を建てて皇子を祀り、阿彌神社と称した。豊城入彦命の後裔一族に大網公があり、その氏神かという推測がある。」とある。

この鳥居から真っ直ぐに長い参道が続き、その先に神社の拝殿が見えてきました。
手前には狛犬が2対置かれています。また、この拝殿に向かって左側(西側)に一つの社が置かれている。

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調べてみるとどうやらこれは旧霞ヶ浦海軍航空隊の敷地内にあった旧霞ヶ浦神社だという。海軍航空隊の殉職者の英霊をまつっていたが戦後GHQにより強制的に廃絶となり、社だけをこの神社に移して保存したという。しかし現在は境内社とはなっておらず、自衛隊の敷地内の土浦航空隊神社にて祀られるとともに、英霊は東京神宮にある東郷神社境内の社に移されたという。

2つの阿弥神社を比べて見ると、竹来は鹿島神宮の祭神である「健御雷之男命(タケミカヅチ)」が主祭神で副祭神が香取神宮の祭神である「經津主命」と中臣氏(藤原)の祭神「天兒屋根命」です。
一方、中郷の阿弥神社は主祭神が「豊城入彦命」であり、こちらは海側ではなく陸側から東にやってきている。
石岡市柿岡にある丸山古墳がこの墓だとも言われている。
どうも物部氏の進出範囲がこの辺りで止まっているようだ。

常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(2)は→  こちら 



常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/06/24 07:55
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