fc2ブログ

常陸国風土記の世界<信太郡>(4)


(参考)もう一つの阿彌神社と竹来三社

・もう一つの阿彌神社(古女子神社)
 茨城県阿見町には前述したように2つの阿彌神社があるが、延喜式の式内社としてどちらがその起源かは意見が分かれている。しかし、もう一つ気になる神社が存在する。

それが「鹿島古女子神社(かしまこなごじんじゃ)」という。

信太郡22

信太郡23
 
場所は国道125号線バイパスの「香澄の里工業団地」の信号から左の竹来の阿彌神社方面にすこし入ったあたりだ。
あまり車も通らない奥まった場所(掛馬543)にある。
神社入り口のまわりは畑が広がり、反対側は木々が生い茂っている。

この神社の入口鳥居は街道側とは反対側であり、竹来の阿弥神社の方向を向いている。
祭神は「鹿島御子神」だそうだ。伝承によればこの神は竹来の阿彌神社の子孫にあたるという。
その他に建御雷之男命・経津主命・天児屋根命・宇賀之魂命 ・水波能売命・大日霊命などを祀る。
創建は大同年間(806-810)といわれる。

境内近くの森にはいくつもの古墳が何も書かれずに散在している。
古女子古墳群というようで、前方後円墳を含む4基が存在している(1基は消滅した?)という。


・ 竹来三社(阿見町)

竹来(たかく)三社と呼ばれる古社が阿見町にある。
鹿島神宮と密接なつながりを持つことをうかがわせる。

信太郡24

信太郡25

 
竹来三社(阿彌神社・室崎神社・十握神社)  鹿島の大神(鹿島神宮・坂戸神社・沼尾神社)
1)阿彌神社(竹来)             1)鹿島神宮
創建:推古天皇十五年(607年)?       創建:神武天皇元年(紀元前660年)?
祭神:健御雷之男命               祭神:武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)
配祀:經津主命、天兒屋根命
2)室崎神社:創建:貞観二年(863年)?  2)坂戸神社:創建 不明
祭神:天兒屋根命                 祭神 天児屋命(あめのこやねのみこと) 
3)十握神社:創建:貞観二年(863年)?  3)沼尾神社:創建 不明
祭神:經津主命                   祭神 経津主(ふつぬし)神

常陸国風土記には「天つ大神の社(現、鹿島神宮)と、坂戸社と、沼尾社の三つをあはせて、香島の大神と称する」とあります。
そしてこの三社が一直線上にあることが知られています。
この鹿島三社(香島大神)とこの竹来三社は共に同じように一直線上に配置され、それぞれに祀られている祭神の関係が同じようになっています。

阿見町の竹来阿彌神社が鹿島神宮と同じような位置関係にあり、坂戸神社、沼尾神社に相当するのが室埼神社、十握(とつか)神社となります。

また「鹿島古女子(こなご)神社」は、竹来阿弥神社の鹿島御子神(三神)の子孫が建立したといわれ、創建は 大同年間(806~810)と考えられています。
また鹿島神宮の郡家跡が鹿島神宮の南側(神宮から見て坂戸神社の反対側)から見つかっており、同じように信太郡の郡衙もこの鹿島古女子神社付近に最初にあったのかもしれません。
また武甕槌命、天兒屋根命、經津主命 の三神だが、武甕槌命は全国の鹿島神社に祀られており、經津主命は香取神社に祀られている。
また天兒屋根命は中臣氏(藤原氏)の氏神です。

・室崎神社
 前に紹介した2つの阿弥神社(中郷と竹来)を結ぶ道路の中間点に道がクランクに折れ曲がった場所にこの「室崎神社」という神社がある。
神社の場所は「曙」となっているが、元々はこの辺りは大室と呼ばれていたらしい。

この神社の創建はかなり古く、貞観元年(862年)とか、仁和3年(887年)とかいわれているという。そして祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこ)である。

信太郡26

この室崎神社拝殿前には小さな相撲の土俵がある。大人が相撲を取るには小さすぎるのでちびっ子相撲でも行なわれているのだろうか。竹来三社の一つらしいが、竹来阿見神社に合祀されてもこうして元の場所に残るというのは鹿島神宮の坂戸社、沼尾社などとも同じなのかもしれない。

この辺りは香取社もきっとあったのではないだろうか。しかしそのほとんどが鹿島神社になって行ったのかも知れない。このあたりでは鹿島の神(タケミカヅチ)も香取の神(フツヌシ)もどうやら一緒の神として混ざり合っているようだ。

・十握神社
 阿見町廻戸(はざまど)の高台の一角にこの古い神社がある。
十握神社(とつかじんじゃ)という変わった名前で、祭神は經津主神。阿弥神社、室崎神社、十握神社の3つを竹来三社と言われている。
廻戸(はざまど)城があった高台台地の一番はずれの坂を上ったところに神社の入り口があった。
参道は他の2社と同じように南南西を向いている。

信太郡27

住宅もすぐ下に迫っている。
向こう奥に霞ケ浦が見える。
十握(とつか)とはどういう意味であろうか。
調べてみると瀬戸内海のちいさな島「志々島」にも同じ名前の神社が残されている。
志々島は本当に小さな島だが樹齢1200年以上ともいわれる大楠の大木がある。
志々島の十握神社の祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)であり、 「十握」の名前は日本武尊が持っていた十握(束)剣から来ていると書かれていた。
やはりこちらも十束(十握)の意味だろうか?
拝殿前に室崎神社と同様に小さな土俵があった。 

⑨ 飯名の社(阿見町中郷)
 今から1300年程前に、東北及びそれより北はまだ蝦夷地で大和朝廷の支配が及んでいなかった時、大和朝廷の一番北に位置したのがここ常陸国(今の茨城県)です。
そして、常陸国への入口が、この信太郡と言えます。
東北地方は陸奥(みちのく=道奥)と呼ばれていますので都から続く道も、その頃はこの常陸国(国府:石岡)まで続いていたのでしょう。
常陸という名前も、一般的な解釈では「常道」(ひたみち)=平に続く道 から来ているという説明が行われています。
その他にもヤマトタケルが袂を水に濡らして(浸して)しまったとかなんとかいろいろに言われますが、この信太郡を見ていると少しちがった解釈も出来そうに思います。
この常陸が大和朝廷の中に組み込まれ、律令制が施行された初期の頃、この常陸国の手前には「流海」とか「香取の海」と名呼ばれた大きな内海が広がっていました。
また、日高見国(ひたかみのくに)というと東北地方にあったとの解釈がずうっと行われてきましたが、1300年程前はこの信太郡の地をそう呼んでいたと解釈できる記述が残っています。
「日高」と名前がつく地名が日本各地に存在し(道成寺のある和歌山県日高郡など)、大和朝廷の北進(東進)に従って、その名前が北や東に移って行ったようです。
日高見国が常陸(日の昇る地)となったというのもしっくりとすると思います。

稲敷市は2005年に江戸崎町・新利根町・東町・桜川村が平成の大合併でできた市です。
何故稲敷の名前を使ったのでしょうか? 当然昔はこの辺りはすべて稲敷郡という郡名がついていました。
この稲敷郡というのは昔から使われていた名前で、牛久市、竜ヶ崎市、阿見町、美浦村、河内町などがこの地域に入っていました。 
8世紀初めに書かれた常陸国風土記の逸文によれば「白雉4年(653年)、筑波・茨城の郡の700戸を分ちて信太郡を置かれた」とされています。

 残されている風土記の信太郡の記述によると「その里より西にある飯名(いひな)の社は、筑波の山の飯名の神を分祀したものである。」と書かれています。 
飯名の社というのは現在筑波山の麓にある古い神社「飯名神社」のことで、こちらは「筑波郡」の項を参照ください。(別途)
ただ「飯名(いいな)」の名前そのものが筑波山(神)を指しているように思います。

 そして、『新編常陸国誌』(江戸時代後期~)には、「八代村(龍ヶ崎市)に稲塚(稲塚古墳)といふ丘あり」と書かれています。
どうもこの信太郡の飯名はこの竜ヶ崎市の稲塚あたりにあった社で、筑波山の麓に残る「飯名神社」から分祀したようです。
稲作は現在では縄文時代から行われていたというのがどうやら定説になりそうなので、この辺りに南洋の島から伝わってきたのではないかなどと考えるのもロマンが広がります。

イネなどという言葉については「イナ」「伊奈」なんて言葉の連想するのも楽しそうです。
稲敷が筑波山の神の宿るこの飯名(いいな)=いな=稲から来ているということは興味をおぼえます。
牛久市の西側に「伊奈町」という地名がありましたが、今では「つくばみらい市」になりました。
この「伊奈」も同じ流れでついたように思います。

常陸国風土記の世界<信太郡>(1)は→ こちら
常陸国風土記の世界<信太郡>(2)は→  こちら 
常陸国風土記の世界<信太郡>(3)は→  こちら 




常陸国風土記と共に | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/06/25 06:28
コメント

管理者のみに表示