道標 大棒杭(おおぼっくい)
昨日の若松町の追分の続きです。
昔、道路の分岐点を追分といいましたが、棒杭(ぼっくい)とも言っていたようです。
道の分かれ道に道案内を示した棒状の杭を埋め込んでいたのでしょう。
この棒杭を「ぼっくい」と読むのですが、「焼け棒杭に火がついて・・・」などと使われるあの棒杭です。
私も昔「焼けボックリに火がつく」などと覚えていましたので、結構多くの人が今でも松ボックリのようなボックリと思っているかもしれません。
でも、焼け終わったと思っていた棒杭(ぼっくい)の火が消えていないでまた火がついたことをいうのですから棒杭が正解です。
さて、実はこの宇都宮街道と柿岡街道への分かれ道にも棒杭があったもので、今の道標が280年ほど前に作られたのですから、その前には木の棒杭があったのでしょう。
書物を読んでいるとここの場所を「大棒杭(おおぼっくい)」と言っていたようなのです。
江戸時代にここ府中は松平家2万石の町でした。藩主は江戸にいてほとんどこちらには来ません。
陣屋が現在の石岡小学校の場所にあり、すぐその近く(青木町から香丸町にかけて)に現在の刑務所のような牢屋のある場所がありました。
その罪人たちは逃げてもわかるように赤い服を着せられていて「赤ちゃん」などとも呼ばれていました。
しかしその罪人が釈放される時に使われたのが、この大棒杭の方向の門だったと言われています。
なぜなら、これは江戸の方面及び水戸方面(泉町)にある門はお江戸の殿様、また水戸様の方向ですから、罪人を釈放する方向とはできなかったためといわれています。
昔、若松町は1710年頃まで「長法寺町」と呼ばれていました。長法(峰)寺という大きな寺があったのです。
この寺は明治3年の長法寺の火事とよばれる大火で焼失してしまいました。
ここ府中(石岡)は馬の集積地としてにぎわいました。
まわりから馬が集まってきており、馬市が開かれていました。
宇都宮街道から、また柿岡街道から馬が集まってきたといいます。
そしてこの長法寺の境内で市が立ったようです。
この寺のあった場所には現在「木像十一面観音(県指定有形文化財)」が置かれた小さなお宮(保管蔵)が置かれ、馬頭観世音の碑が建っています。

明治3年の大火は昭和4年の大火と比べあまり記録に残っていませんが、矢口本陣や鈴の宮の近くの新地八軒も焼けるほどの大火で500戸程が焼けたと言われています。
また、昔の言葉で「長法寺のオン出し」というのがあるそうですが、これは罪人をこの方向からオン出したことからそのように呼ばれたといいます。
今では全く使われることもありません。
ところで、現在石岡のお祭りには「若松町」として参加していますが、最近まで祭りの書類では「長法寺町」となっているものを何度も目にしています。
十一面観音のある場所は細い横道に入ったところですが、昔はここが宇都宮の方につながる道だったのでしょう。
観光客がこの十一面観音の場所に来ても恐らく、このようなことは考えないでしょう。
現地には十一面観音についての説明だけしかなく、何故馬頭観音が立っているのかは理解できないように思います。
また、上野にある東京国立博物館には「長法寺」の銘の入った名刀が残されています。
ここ長法寺から鎌倉に移った「長法寺(長峰寺正俊)」という名刀鍛冶が造ったものと考えられているそうです。
昔、道路の分岐点を追分といいましたが、棒杭(ぼっくい)とも言っていたようです。
道の分かれ道に道案内を示した棒状の杭を埋め込んでいたのでしょう。
この棒杭を「ぼっくい」と読むのですが、「焼け棒杭に火がついて・・・」などと使われるあの棒杭です。
私も昔「焼けボックリに火がつく」などと覚えていましたので、結構多くの人が今でも松ボックリのようなボックリと思っているかもしれません。
でも、焼け終わったと思っていた棒杭(ぼっくい)の火が消えていないでまた火がついたことをいうのですから棒杭が正解です。
さて、実はこの宇都宮街道と柿岡街道への分かれ道にも棒杭があったもので、今の道標が280年ほど前に作られたのですから、その前には木の棒杭があったのでしょう。
書物を読んでいるとここの場所を「大棒杭(おおぼっくい)」と言っていたようなのです。
江戸時代にここ府中は松平家2万石の町でした。藩主は江戸にいてほとんどこちらには来ません。
陣屋が現在の石岡小学校の場所にあり、すぐその近く(青木町から香丸町にかけて)に現在の刑務所のような牢屋のある場所がありました。
その罪人たちは逃げてもわかるように赤い服を着せられていて「赤ちゃん」などとも呼ばれていました。
しかしその罪人が釈放される時に使われたのが、この大棒杭の方向の門だったと言われています。
なぜなら、これは江戸の方面及び水戸方面(泉町)にある門はお江戸の殿様、また水戸様の方向ですから、罪人を釈放する方向とはできなかったためといわれています。
昔、若松町は1710年頃まで「長法寺町」と呼ばれていました。長法(峰)寺という大きな寺があったのです。
この寺は明治3年の長法寺の火事とよばれる大火で焼失してしまいました。
ここ府中(石岡)は馬の集積地としてにぎわいました。
まわりから馬が集まってきており、馬市が開かれていました。
宇都宮街道から、また柿岡街道から馬が集まってきたといいます。
そしてこの長法寺の境内で市が立ったようです。
この寺のあった場所には現在「木像十一面観音(県指定有形文化財)」が置かれた小さなお宮(保管蔵)が置かれ、馬頭観世音の碑が建っています。

明治3年の大火は昭和4年の大火と比べあまり記録に残っていませんが、矢口本陣や鈴の宮の近くの新地八軒も焼けるほどの大火で500戸程が焼けたと言われています。
また、昔の言葉で「長法寺のオン出し」というのがあるそうですが、これは罪人をこの方向からオン出したことからそのように呼ばれたといいます。
今では全く使われることもありません。
ところで、現在石岡のお祭りには「若松町」として参加していますが、最近まで祭りの書類では「長法寺町」となっているものを何度も目にしています。
十一面観音のある場所は細い横道に入ったところですが、昔はここが宇都宮の方につながる道だったのでしょう。
観光客がこの十一面観音の場所に来ても恐らく、このようなことは考えないでしょう。
現地には十一面観音についての説明だけしかなく、何故馬頭観音が立っているのかは理解できないように思います。
また、上野にある東京国立博物館には「長法寺」の銘の入った名刀が残されています。
ここ長法寺から鎌倉に移った「長法寺(長峰寺正俊)」という名刀鍛冶が造ったものと考えられているそうです。
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