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常陸国風土記の世界<行方郡>(1)

行方郡

 この行方郡は本風土記でも省略箇所は無いとされ、もっともボリュームの多い地域となっています。
他の地域についても同じように細かく記載があったのかどうかわかりませんが、当時の様子を知るにはやはりこの書かれている場所を訪ねて見ることも大切ではないでしょうか。

常陸国風土記の行方郡も現在の玉造・井上・芹沢あたりから徐々に南下していき、潮来(板来)地方まで順番に書かれている。
1300年も前の事でもあり、当時の地形や町や集落の様子などは全く違っていたであろうから、書かれている場所を正確に探すことはかなり困難でもある。
地名として残されていたりしても、そこが当時からそのように呼ばれていたとは限らない。
まあ、それでもこのあたりのことを言ったのであろうと推察して楽しむことはできる。

そんなところを勝手に推察したりしていくのもまた良いだろうということで、勝手に決めた遺称地なるものをいくつか載せて見よう。

では、この行方郡の領域を、風土記に記載された地名の内容で見て行きましょう。
ここでは次の6箇所に地域を分けてまとめてみる事にしました。
各地区の右側には和名抄に書かれている郷名を参考に記しました。

1)玉造地区:荒原郷・曾禰郷
2)手賀・井上地区:提賀郷・井上郷・行方郷・餘戸郷
3)小高・麻生・香澄地区:小高郷・麻生郷・香澄郷・八代郷
4)北浦・大生地区:大生郷・逢鹿郷・道田郷・藝都郷・高家郷
5)潮来地区:板来郷
6)鉾田市当麻地区:当鹿(当麻)郷

行方郡01

①現原の丘      ② 梶無川       ③ 鴨之宮1
④ 鴨之宮2      ⑤ 若海香取神社    ⑥ 曾尼の駅家
⑦ 椎井の池と夜刀神社 ⑧ 荒原神社      ⑨ 玉清の井
⑩ 井上神社     ⑪ 井上長者館跡(郡家?) ⑫ 国神神社
⑬ 橋門阿弥陀堂(鯨岡) ⑭ 側鷹神社(香取の神子) ⑮ 大麻神社
⑯ 八坂神社     ⑰ 天王崎      ⑱ 化蘇沼稲荷神社(藝都の里)
⑲ 鉾神社(小牧)  ⑳ 雷神社(丘前の宮)  21 大生神社
22 板来の駅家    23 国神神社(古高)   24 熱田神社
25 当麻の郷(二つの神子の社)

(1)玉造地区(荒原郷・曾禰郷)

行方郡02

① 現原(あらはら)の丘

 風土記には「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、車駕(みこし)を廻らして、現原(あらはら)の丘に幸し、御膳を供へ奉りき。
時に、天皇、四を望みまして、侍従を顧て曰りたまひしく、「・・・・・・此の地の名を、行細(なめくわし)の国と称ふべし」とのりたまひき。・・」と書かれています。

 この現原の丘からの眺めがまるで山や谷などが、細かなヒダのように織り成していて行細しと言う表現がぴったりするから「行方(なめかた)」と言うのだと・・・・
まあ、この名前の説明はこじつけであることは明らかですが、その話は別にして、この現原の丘がどこかと言うと、これは行方市の教育委員会で指定されている場所があります。

梶無川を上流に行った芹沢地区に近い場所です。
河童伝説でおなじみの手奪橋の直ぐ横に架かる橋を渡って、玉造工業高校の方へ少し進んだところに「現原の丘」の矢印看板が出ています(玉造工業高校側からは約1.7kmです)。
この看板にしたがって右に進むと若海ゴルフコースの案内板があります。

そして坂を登る道が続きますが、両脇はゴルフ場のきれいな芝のエリアが広がり、その間をこのような金網のフェンスで仕切られた道を進みます。

途中に左右をゴルファーが行き来できる解放された場所もあり、また上を渡る歩行者用の橋もあります。

行方郡03 
行方郡04

そしてゴルフ場の途切れたあたりが田となっていて、そこに「現原の丘」の看板があります。
行政的な市町村合併の歴史を見て見ましょう。
1889年(明治22年)4月1日に「捻木村」・「若海(わかうみ)村」・「芹沢村」・「谷島村」が合併し「行方郡現原村」が発足し、昭和30年に玉造町に編入されています。

常陸国風土記にはこの行方郡と隣の茨城郡との境はこの梶無川となっていますが、明治22年に発足した「現原村」のうち、捻木(ねじき)村と谷島村は川の西側ですので、昔は茨城郡であったかもわかりません。

② 梶無川(かじなしがわ)

 現在の「梶無川」と呼ばれている川は、風土記には昔「大益(おおや)河」と呼ばれていたが、ヤマトタケルの天皇がこの河を小舟に乗り上流に向かっていたときに舟の梶が折れてしまったので「無梶河(かじなしがわ)」と呼ぶようになった。と書かれています。

又この川ではたくさんの魚がとれ茨城郡との境となっていたと書かれています。

行方郡05

一方、現原の丘近くの芹沢地区にかかる橋は「手奪橋(てうばいばし)」となっており、芹沢家に伝わる伝説(いたずら河童の手を切り落として、それを取り返しに来た河童は手を膏薬ですぐさま元通りに継ぎ直し、お礼に良く効く膏薬を置いて行った)により「手奪川」などとも表示されることもあるようです。

この橋の近くの小字名には「テバイ」地名も残されていますので「テバイ川」などともいわれた地域もあったようです。
河童の手を継いだという「手継ぎ神社」も近くにあります。

(その2へ続く)


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/03 11:45
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