常陸国風土記の世界<行方郡>(2)
③ 鴨之宮1(加茂地区)
常陸国風土記には「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。
そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。
鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。
しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」
と書かれており、この鴨の落ちた場所にお宮を建て祀ってきたといわれています。
その場所が実は2箇所あります。
最初にお宮が建っていた場所が、昭和2年に鹿島参宮鉄道が玉造駅から鉾田方面に延伸することになり、この鴨の宮の敷地を通過する事になったのです。
そしてこのお宮のあった近くの崖上に「鴨の宮再建」と刻んだ碑が建立されたとあります。
そしてその50年後の昭和53年に玉造第一保育園のすぐ北東の山側に「鴨の宮」が移されました。
しかし、これが遷宮との意見と分社という意見で分れており、元あった場所にも鴨之宮が残されています。
まずは移転された後の鴨之宮を紹介します。
玉造市街方面から県道116号を梶無川に沿って上流へ進むと玉造甲から乙地域に入り、左側に「玉造第一保育園」があります。
この保育園の先の右手の細い道を少し行くとその左側の山の中腹に神社があります。


「鴨の宮」と書かれた案内矢印看板を少し上れば神社の鳥居が見えます。
鳥居の横に彫刻家の宮路久子さんが作られたヤマトタケルの像が置かれています。
この神社に置かれた説明板には昭和50年3月9日に元の鴨の宮の地から遷宮されたと書かれています。
ただ、今の神社が立てられる前までここには「石神神社」という神社があったそうです。
④ 鴨之宮2(鴨の宮地区)
さて、遷宮される前の鴨之宮は何処にあったのでしょうか?
あまりはっきり書かれているものが見当たりません。
そこで、この鴨の宮を探してみました。
元あったという鴨の宮は江戸時代末期に存在した玉造郷校の跡地から東に250mくらいの場所にあると書かれた記事がありましたので、江戸時代に水戸藩の大山守をしていたという「大塲(おおば)家住宅」へ。


なかなか手入れも行き届いていて梅の花もきれいに咲いていた。
この大塲家の裏山に戦国時代末期まで玉造城があり、城は1591年に佐竹氏により無くなったが、江戸の末期に玉造郷校が建てられました。
大塲家住宅の右横の細い道が少し上ると右側に郷校があった場所に登る階段があります。
その入口に玉造郷校跡の説明看板が置かれていた。
また道の少し上には玉造城跡の説明看板もあります。
この上まで車で回りこんで登れる。
町が見下ろせる高台に出るが、ここには鴨之宮の元あったと思われる場所を見つけることは出来なかった。
鴨も宮があったのはここから東に250mくらいだというが、・・・
そこで、この場所は鹿島鉄道が通っていた場所になるはずなので、航空写真の地図上に、旧鹿島鉄道の線路らしきところを辿ってみた。

旧鹿島鉄道の線路が走っていた場所と思われるところに赤い線を引いた。
旧玉造駅は鉄道廃止後に以前行ったことがあり、ぼんやりとしたイメージはあった。
玉造の先は、榎本駅だと思っていたが、記の地図の右端部に「坂本駅跡」のマークがあった。
調べてみるとこの坂本駅は1957年に廃止された駅だという。
初めて知ったが、こんなものも一つの発見になる。
大塲家住宅の前の道をそのまま東方面に進むと、この鹿島鉄道の下を道路が通っている。
即ち道路の上を鉄道が通っていて、この鉄橋が壊されずに残っていた。

鴨の宮がこの線路で邪魔になり移転となったというのは昭和2年(1927)。この鉄道の軌道のあった場所らしき所にめぼしを付けて大塲家方面に戻る途中に玉造郷土研究会が掲げた看板が置かれていた。

その看板のところから、そのまま上に続く道を上った。
道は山に入って行く。そのまま歩数で100~150歩程度でここの家の墓所に出た。
代々続くこの方(関口家)の墓所のようだが、その一角にこの「鴨之宮跡」の石碑とヤマトタケルの像などが置かれていた。




この石祠には菊の御紋と「鴨之宮神社」と彫られていた。
今もこの地は「鴨の宮」というようだ。
(その3へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
常陸国風土記には「倭武(ヤマトタケル)の天皇が、現原の丘から降りて、無梶河を郡境の果てまで行ったとき、鴨が飛びわたるのが見えた。
そこで天皇が弓でそれを射ると、弓の弦の音に応じて鴨が地に落ちた。
鴨が落ちた場所を「鴨野」と言う。
しかしそこは土地が痩せていて草木も生えない。」
と書かれており、この鴨の落ちた場所にお宮を建て祀ってきたといわれています。
その場所が実は2箇所あります。
最初にお宮が建っていた場所が、昭和2年に鹿島参宮鉄道が玉造駅から鉾田方面に延伸することになり、この鴨の宮の敷地を通過する事になったのです。
そしてこのお宮のあった近くの崖上に「鴨の宮再建」と刻んだ碑が建立されたとあります。
そしてその50年後の昭和53年に玉造第一保育園のすぐ北東の山側に「鴨の宮」が移されました。
しかし、これが遷宮との意見と分社という意見で分れており、元あった場所にも鴨之宮が残されています。
まずは移転された後の鴨之宮を紹介します。
玉造市街方面から県道116号を梶無川に沿って上流へ進むと玉造甲から乙地域に入り、左側に「玉造第一保育園」があります。
この保育園の先の右手の細い道を少し行くとその左側の山の中腹に神社があります。


「鴨の宮」と書かれた案内矢印看板を少し上れば神社の鳥居が見えます。
鳥居の横に彫刻家の宮路久子さんが作られたヤマトタケルの像が置かれています。
この神社に置かれた説明板には昭和50年3月9日に元の鴨の宮の地から遷宮されたと書かれています。
ただ、今の神社が立てられる前までここには「石神神社」という神社があったそうです。
④ 鴨之宮2(鴨の宮地区)
さて、遷宮される前の鴨之宮は何処にあったのでしょうか?
あまりはっきり書かれているものが見当たりません。
そこで、この鴨の宮を探してみました。
元あったという鴨の宮は江戸時代末期に存在した玉造郷校の跡地から東に250mくらいの場所にあると書かれた記事がありましたので、江戸時代に水戸藩の大山守をしていたという「大塲(おおば)家住宅」へ。


なかなか手入れも行き届いていて梅の花もきれいに咲いていた。
この大塲家の裏山に戦国時代末期まで玉造城があり、城は1591年に佐竹氏により無くなったが、江戸の末期に玉造郷校が建てられました。
大塲家住宅の右横の細い道が少し上ると右側に郷校があった場所に登る階段があります。
その入口に玉造郷校跡の説明看板が置かれていた。
また道の少し上には玉造城跡の説明看板もあります。
この上まで車で回りこんで登れる。
町が見下ろせる高台に出るが、ここには鴨之宮の元あったと思われる場所を見つけることは出来なかった。
鴨も宮があったのはここから東に250mくらいだというが、・・・
そこで、この場所は鹿島鉄道が通っていた場所になるはずなので、航空写真の地図上に、旧鹿島鉄道の線路らしきところを辿ってみた。

旧鹿島鉄道の線路が走っていた場所と思われるところに赤い線を引いた。
旧玉造駅は鉄道廃止後に以前行ったことがあり、ぼんやりとしたイメージはあった。
玉造の先は、榎本駅だと思っていたが、記の地図の右端部に「坂本駅跡」のマークがあった。
調べてみるとこの坂本駅は1957年に廃止された駅だという。
初めて知ったが、こんなものも一つの発見になる。
大塲家住宅の前の道をそのまま東方面に進むと、この鹿島鉄道の下を道路が通っている。
即ち道路の上を鉄道が通っていて、この鉄橋が壊されずに残っていた。

鴨の宮がこの線路で邪魔になり移転となったというのは昭和2年(1927)。この鉄道の軌道のあった場所らしき所にめぼしを付けて大塲家方面に戻る途中に玉造郷土研究会が掲げた看板が置かれていた。

その看板のところから、そのまま上に続く道を上った。
道は山に入って行く。そのまま歩数で100~150歩程度でここの家の墓所に出た。
代々続くこの方(関口家)の墓所のようだが、その一角にこの「鴨之宮跡」の石碑とヤマトタケルの像などが置かれていた。




この石祠には菊の御紋と「鴨之宮神社」と彫られていた。
今もこの地は「鴨の宮」というようだ。
(その3へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
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