常陸国風土記の世界<行方郡>(3)
● 大宮神社
提賀の里のところに香島の子神の社の記述があり、この場所は次の手賀地区の「⑧荒原神社」を遺称地として挙げていますが、この玉造甲と乙(内宿)の境界地区に鎮座する大宮神社もこの候補地の一つです。
行方(なめがた)市には鹿島神社と香取神社が入り混じってたくさんあります。
鹿島神宮にも近いのに香取神社が比較的多いように感じます。
この大宮神社は鹿島神社の神であるタケミカヅチを祀っています。
延喜式の式内社でも途中で移動したり、分裂していくつかに分かれたりすることは多いですので、提賀の里に書かれていても時代で移されてみたものと考えることができます。
社伝によれば、この神社は奈良時代前の708年創建とされていますが、戦国時代に第13代玉造城主である玉造(平)憲幹(のりもと)が社殿を建立したといわれています。
市の文化財である銅鐘は1431年に鋳造寄進したとありますので、この頃に社殿ができたのでしょう。
行方地方に水戸の吉田地区から行方次郎がこの地に入り、その4人の息子がそれぞれ行方(小高)、島崎、麻生、玉造とそれぞれの地区を治めた。
玉造は4男であり、おそらくこの手賀地区の鹿島神社をこちらに分社して持ってきたのだろうと思われます。
玉造地区は玉造氏は滅びたが、家老の大場家が水戸藩の大山守となり、神社もまつりが復活してにぎやかになったものと考えられます。
現在5月4日、5日の2日間、御輿・大鉾・猿田彦が町中を練り歩き、山車の上ではお囃子に合わせて踊りなどが披露され、霞ケ浦の御浜降りも行われます。
また最後には流鏑馬も行なわれています。


この「大宮神社」という名前の神社は各地にありますが、それぞれその町の中心となる「大きなお宮」というような意味のようだ。
入口鳥居から両側に木々の中を拝殿に向かう。


二の鳥居の手前に石灯篭が並ぶ。
鹿島の神が中心ではありますが、猿田彦もその中心的役割をしています。
しかし繁昌にある鹿島神社に置かれていた猿田彦神は「大正元年に大宮猿田彦神社を合併」と書かれていましたので、同じような経緯かもしれません。
旧玉造11の地区が4年または3年に一度役(神輿・大鉾・天狗(猿田彦))が回ってくるそうです。
⑤ 若海香取神社
鴨野の北側について以下の記述があります。
「野の北に、櫟(いちい)・柴(くぬぎ)・鶏頭樹(かへりで)等の木、往々森々りて、自ら山林を成せり。即ち、枡の池有り。此は高向の大夫(まへつぎみ)の時、築きし池なり。北に香取の神子の社有り。社の側の山野は、土壌腴衍(こへ)て、草木密生れり。」
とあります。
「鴨野」は土壌塉捔(やせ)て・・・・ とあるのに対し、こちらは土壌腴衍(こへ)て・・・と対照的に書かれています。
そこで、「鴨野=鴨の宮地区や加茂地区」に比べて当時、人々が暮らすには良い場所で、「香取の神子の社」があるところを探してみます。
何か土地柄にそんな差がある場所なのでしょうか?

現在の地図(航空写真)で見てみましょう。
前に書いた「現原の丘」看板位置と、鴨の宮の2箇所の場所を書き込み、今回「香取の神子の社」と思われる「若海香取神社」及び、「捻木香取神社」及び、この後に出てくる提賀の里の北にあるとされる「香島の神子の社」の遺称地という「大宮神社」の位置も記しておきます。
風土記の本に書かれている「香取の神子の社」が捻木と若海地区のどちかであろうとありますが、梶無川の東側が行方郡であったという推定により、若海香取神社が遺称地の可能性が高いと考えられそうです。
ということで、この若海香取神社に行って見ました。
県道116号を梶無川に沿って上流側に向かい、若海ゴルフコースという案内にしたがってきれいに舗装された道路を東へ登っていきます。
少し行った先に気になる社がありました。「若海観音堂」となっています。
ただ、このお堂の謂れなどはよくわかりませんでした。


その観音堂から少し行った道沿いに「香取神社」の入り口看板があります。
かなり古くからある神社のようです。
道路とほぼ平行に参道があり、東側に鳥居があります。
また、神社の入口に近い道路沿いに「若海貝塚」の立て看板が置かれていました。
この香取神社もこの貝塚の上に立てられているようです。
もちろんこの前の舗装されたきれいな道路も貝塚を削り取ってしまっているようにも思います。
ここも、ゴルフ場開発により作られた道路でしょう。

この貝塚も規模が大きく、ここの発掘で、人骨、それも当時の人としてはかなり大柄な身長が170cm前後の男性の骨が見つかったというのです。
なぜ、貝塚に人骨があったのか、当時の埋葬形式ではないで棄てられたのか?
謎のようです。
さてこの神社の下は、広々とした谷津田が広がっております。
神社から少し東へ進んだあたりから見下ろすと、枡池のような灌漑用の池もあります。
池が築かれたのは「高向の大夫(まへつぎみ)の時」とあります。

枡の池?
また、この行方郡は653年に茨城郡の国造らと那珂郡の国造らが惣領であった「高向の大夫(まへつぎみ)」らに申し出て、2つの郡の領地を分けて設けられたともあります。
時代はやはりこの653年頃だと思われます。
また高向(たかむく)氏族は武内宿禰後裔氏族の一つだそうです。
やはり灌漑用に作られた池だったのだろうと思われます。
このあたりに昔も枡の池があったのかもしれません。
(その4へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
提賀の里のところに香島の子神の社の記述があり、この場所は次の手賀地区の「⑧荒原神社」を遺称地として挙げていますが、この玉造甲と乙(内宿)の境界地区に鎮座する大宮神社もこの候補地の一つです。
行方(なめがた)市には鹿島神社と香取神社が入り混じってたくさんあります。
鹿島神宮にも近いのに香取神社が比較的多いように感じます。
この大宮神社は鹿島神社の神であるタケミカヅチを祀っています。
延喜式の式内社でも途中で移動したり、分裂していくつかに分かれたりすることは多いですので、提賀の里に書かれていても時代で移されてみたものと考えることができます。
社伝によれば、この神社は奈良時代前の708年創建とされていますが、戦国時代に第13代玉造城主である玉造(平)憲幹(のりもと)が社殿を建立したといわれています。
市の文化財である銅鐘は1431年に鋳造寄進したとありますので、この頃に社殿ができたのでしょう。
行方地方に水戸の吉田地区から行方次郎がこの地に入り、その4人の息子がそれぞれ行方(小高)、島崎、麻生、玉造とそれぞれの地区を治めた。
玉造は4男であり、おそらくこの手賀地区の鹿島神社をこちらに分社して持ってきたのだろうと思われます。
玉造地区は玉造氏は滅びたが、家老の大場家が水戸藩の大山守となり、神社もまつりが復活してにぎやかになったものと考えられます。
現在5月4日、5日の2日間、御輿・大鉾・猿田彦が町中を練り歩き、山車の上ではお囃子に合わせて踊りなどが披露され、霞ケ浦の御浜降りも行われます。
また最後には流鏑馬も行なわれています。


この「大宮神社」という名前の神社は各地にありますが、それぞれその町の中心となる「大きなお宮」というような意味のようだ。
入口鳥居から両側に木々の中を拝殿に向かう。


二の鳥居の手前に石灯篭が並ぶ。
鹿島の神が中心ではありますが、猿田彦もその中心的役割をしています。
しかし繁昌にある鹿島神社に置かれていた猿田彦神は「大正元年に大宮猿田彦神社を合併」と書かれていましたので、同じような経緯かもしれません。
旧玉造11の地区が4年または3年に一度役(神輿・大鉾・天狗(猿田彦))が回ってくるそうです。
⑤ 若海香取神社
鴨野の北側について以下の記述があります。
「野の北に、櫟(いちい)・柴(くぬぎ)・鶏頭樹(かへりで)等の木、往々森々りて、自ら山林を成せり。即ち、枡の池有り。此は高向の大夫(まへつぎみ)の時、築きし池なり。北に香取の神子の社有り。社の側の山野は、土壌腴衍(こへ)て、草木密生れり。」
とあります。
「鴨野」は土壌塉捔(やせ)て・・・・ とあるのに対し、こちらは土壌腴衍(こへ)て・・・と対照的に書かれています。
そこで、「鴨野=鴨の宮地区や加茂地区」に比べて当時、人々が暮らすには良い場所で、「香取の神子の社」があるところを探してみます。
何か土地柄にそんな差がある場所なのでしょうか?

現在の地図(航空写真)で見てみましょう。
前に書いた「現原の丘」看板位置と、鴨の宮の2箇所の場所を書き込み、今回「香取の神子の社」と思われる「若海香取神社」及び、「捻木香取神社」及び、この後に出てくる提賀の里の北にあるとされる「香島の神子の社」の遺称地という「大宮神社」の位置も記しておきます。
風土記の本に書かれている「香取の神子の社」が捻木と若海地区のどちかであろうとありますが、梶無川の東側が行方郡であったという推定により、若海香取神社が遺称地の可能性が高いと考えられそうです。
ということで、この若海香取神社に行って見ました。
県道116号を梶無川に沿って上流側に向かい、若海ゴルフコースという案内にしたがってきれいに舗装された道路を東へ登っていきます。
少し行った先に気になる社がありました。「若海観音堂」となっています。
ただ、このお堂の謂れなどはよくわかりませんでした。


その観音堂から少し行った道沿いに「香取神社」の入り口看板があります。
かなり古くからある神社のようです。
道路とほぼ平行に参道があり、東側に鳥居があります。
また、神社の入口に近い道路沿いに「若海貝塚」の立て看板が置かれていました。
この香取神社もこの貝塚の上に立てられているようです。
もちろんこの前の舗装されたきれいな道路も貝塚を削り取ってしまっているようにも思います。
ここも、ゴルフ場開発により作られた道路でしょう。

この貝塚も規模が大きく、ここの発掘で、人骨、それも当時の人としてはかなり大柄な身長が170cm前後の男性の骨が見つかったというのです。
なぜ、貝塚に人骨があったのか、当時の埋葬形式ではないで棄てられたのか?
謎のようです。
さてこの神社の下は、広々とした谷津田が広がっております。
神社から少し東へ進んだあたりから見下ろすと、枡池のような灌漑用の池もあります。
池が築かれたのは「高向の大夫(まへつぎみ)の時」とあります。

枡の池?
また、この行方郡は653年に茨城郡の国造らと那珂郡の国造らが惣領であった「高向の大夫(まへつぎみ)」らに申し出て、2つの郡の領地を分けて設けられたともあります。
時代はやはりこの653年頃だと思われます。
また高向(たかむく)氏族は武内宿禰後裔氏族の一つだそうです。
やはり灌漑用に作られた池だったのだろうと思われます。
このあたりに昔も枡の池があったのかもしれません。
(その4へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
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