常陸国風土記の世界<行方郡>(5)
(2)手賀・井上・行方地区(提賀郷・井上郷・行方郷)

⑧ 荒原神社(提賀の里)
「郡衙より西北に提賀(てが)の里がある。
昔、この地に住んでいた手鹿(てが)という名の佐伯がいたため、里の名になった。
里の北に香島の子神の社がある。
周囲の山や野は、土が肥え、椎、栗、竹、茅などが多く繁っている」
と書かれており、現在「手賀」といわれる地区だと思われます。
ここに「香島の子神の社」があるとあり、これがこの「荒原神社」といわれています。ただし、玉造にある大宮神社も鹿島神宮の神を祀っており、こちらにあった神社が移ったという説もあります。(前の玉造地区で書いた)


この荒原神社は355号線の手賀の信号を山の方に少し入った先にあります。 現在この神社の前の何もない畑地に大きな新しい特養老人ホームが作られています。
<現地看板より>
「手賀里: 荒原神社の鎮座するこの台地は、古くから人々が住み着き、縄文時代中期にはすでに核となる集落がつくられていました。現在もこの台地、特に傾斜地の縁には多くの貝殻が散らばっています。このような遺跡は「貝塚」とよばれ、八幡平貝塚・堀ノ内貝塚・西内貝塚があり、貝に混じって動物や魚類の骨も見つけることができます。
また、この台地から西方向霞ヶ浦へ伸びるこぼれ谷にはさまれた細長い台地には、多くの古墳がつくられました。そのひとつが手賀古墳群であり、箱式石棺とよばれる埋葬方法により、円形の塚を盛るなどいくつもの古墳が残されています。この他近くには大塚古墳があります。「常陸国風土記」には、永く当地方に住み着き大和朝廷に抵抗した「手賀」という名の人々のことが記録されています。「手賀里」はこの人々の名にちなんでおり、現在の手賀の地名の由来もここに求めることができます。
そして同じ風土記にある「里の北に位置する香嶋神子之社」が、荒原神社とする説もあります。現在の祭神は武甕槌命、祭礼は7月23日に行われます。
古墳時代から奈良時代にかけて手賀里の人々は、山海の豊かな幸と米づくりを中心にくらしていました。荒原神社馬場前遺跡はその代表的な古代集落跡で、土器や魚労具が発見されています。・・・・・・・
この地は、中世には手賀氏の館が構えられ荒幡神社もその一角に祭られていた。別当の神宮寺、現在の持福院も薬師堂にあったと考えられます。・・・・・」
と書かれています。
香島の神の子社はこの「荒原神社」と霞ヶ浦よりにある持福寺のすぐちかくにある「手賀八坂神社」の2社が考えられています。
しかし、この荒原神社はこちらの手賀八坂神社にも合祀されているのですが、こちらにもまだ残っているようです。
さて、手賀の「八坂神社」でもこの「荒原神社」と合同で「お浜降り」の神事が行われています。そこで、こちらの八坂神社もここで紹介しましょう。まず、すぐ近くに持福院という天台宗の寺がある。荒原神社の別当の神宮寺だと考えられています。
「天台宗 持福院」(天台宗雄喜山神宮寺持福院)で、(旧)手賀小学校のすぐ手前にある。
住職も48代目と言うことで、かなり古い寺である。
しかし、境内や墓地もそれ程広くはなく、寺の建物などの重厚感はあまり感じられない。
寺の本尊は釈迦如来座像で、鎌倉時代の製作と見られている。この本尊はほぼ等身大の大きさで、寺の中の正面に置かれていた。


さてこの持福院からさらに100mほど進むと、道沿いに「八坂神社」がある。
八坂神社といえばこの先の天王崎に八坂神社があり、元々は天王崎と言う名前の由来にもなった牛頭天王を祀る神社であった。

こちらの手賀八坂神社で、7月下旬の土日に手賀祇園祭が行われる。両宿、浜町、竹の塙、横須賀(横新)の4地区の山車が奉納曳行される。この山車で演じられる囃子が石岡・柿岡・片野などの石岡市の民俗芸能の流れを汲んだものだそうだ。この八坂神社は「荒原神社」が合祀されている。
神社に掲げられた説明板によると
「八坂神社(祭神・素戔嗚尊)古文書など保管されているものは、見当たりませんが、わずかに保管されているものは、江戸中期の延享二年(1745)遷宮したとされる棟札があり、当時村社の荒原神社と合祀された。 古老の話では、その昔舟津の湖岸にあったが、度重なる水害のため、現在の宿集落の中央に遷宮されたといわれている。21軒屋敷で守護してきたが、重荷になり村の氏子に移管された。鳥居はこれまでに、何回か修理されたが、笠木を解体した時、文化2年(1805)の墨書が発見された。」とある。
参考までに中世この地を領していた「手賀氏」について少し述べておきましょう。
<手賀氏>:
手賀氏は玉造城主・玉造幹政の次男政家が手賀郷に住して手賀氏を名乗ったとされます。
菩提寺は養徳寺で、城は寺の奥の東側の山の中にあったという。
この寺に手賀氏の墓石がある。戦国末期の1591年2月に手賀高幹と弟は佐竹氏の招きに応じて常陸太田の城に向かった。その後の具体的な記録がないが、常陸太田城で二人とも殺されたと思われます。


(その6へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら

⑧ 荒原神社(提賀の里)
「郡衙より西北に提賀(てが)の里がある。
昔、この地に住んでいた手鹿(てが)という名の佐伯がいたため、里の名になった。
里の北に香島の子神の社がある。
周囲の山や野は、土が肥え、椎、栗、竹、茅などが多く繁っている」
と書かれており、現在「手賀」といわれる地区だと思われます。
ここに「香島の子神の社」があるとあり、これがこの「荒原神社」といわれています。ただし、玉造にある大宮神社も鹿島神宮の神を祀っており、こちらにあった神社が移ったという説もあります。(前の玉造地区で書いた)


この荒原神社は355号線の手賀の信号を山の方に少し入った先にあります。 現在この神社の前の何もない畑地に大きな新しい特養老人ホームが作られています。
<現地看板より>
「手賀里: 荒原神社の鎮座するこの台地は、古くから人々が住み着き、縄文時代中期にはすでに核となる集落がつくられていました。現在もこの台地、特に傾斜地の縁には多くの貝殻が散らばっています。このような遺跡は「貝塚」とよばれ、八幡平貝塚・堀ノ内貝塚・西内貝塚があり、貝に混じって動物や魚類の骨も見つけることができます。
また、この台地から西方向霞ヶ浦へ伸びるこぼれ谷にはさまれた細長い台地には、多くの古墳がつくられました。そのひとつが手賀古墳群であり、箱式石棺とよばれる埋葬方法により、円形の塚を盛るなどいくつもの古墳が残されています。この他近くには大塚古墳があります。「常陸国風土記」には、永く当地方に住み着き大和朝廷に抵抗した「手賀」という名の人々のことが記録されています。「手賀里」はこの人々の名にちなんでおり、現在の手賀の地名の由来もここに求めることができます。
そして同じ風土記にある「里の北に位置する香嶋神子之社」が、荒原神社とする説もあります。現在の祭神は武甕槌命、祭礼は7月23日に行われます。
古墳時代から奈良時代にかけて手賀里の人々は、山海の豊かな幸と米づくりを中心にくらしていました。荒原神社馬場前遺跡はその代表的な古代集落跡で、土器や魚労具が発見されています。・・・・・・・
この地は、中世には手賀氏の館が構えられ荒幡神社もその一角に祭られていた。別当の神宮寺、現在の持福院も薬師堂にあったと考えられます。・・・・・」
と書かれています。
香島の神の子社はこの「荒原神社」と霞ヶ浦よりにある持福寺のすぐちかくにある「手賀八坂神社」の2社が考えられています。
しかし、この荒原神社はこちらの手賀八坂神社にも合祀されているのですが、こちらにもまだ残っているようです。
さて、手賀の「八坂神社」でもこの「荒原神社」と合同で「お浜降り」の神事が行われています。そこで、こちらの八坂神社もここで紹介しましょう。まず、すぐ近くに持福院という天台宗の寺がある。荒原神社の別当の神宮寺だと考えられています。
「天台宗 持福院」(天台宗雄喜山神宮寺持福院)で、(旧)手賀小学校のすぐ手前にある。
住職も48代目と言うことで、かなり古い寺である。
しかし、境内や墓地もそれ程広くはなく、寺の建物などの重厚感はあまり感じられない。
寺の本尊は釈迦如来座像で、鎌倉時代の製作と見られている。この本尊はほぼ等身大の大きさで、寺の中の正面に置かれていた。


さてこの持福院からさらに100mほど進むと、道沿いに「八坂神社」がある。
八坂神社といえばこの先の天王崎に八坂神社があり、元々は天王崎と言う名前の由来にもなった牛頭天王を祀る神社であった。

こちらの手賀八坂神社で、7月下旬の土日に手賀祇園祭が行われる。両宿、浜町、竹の塙、横須賀(横新)の4地区の山車が奉納曳行される。この山車で演じられる囃子が石岡・柿岡・片野などの石岡市の民俗芸能の流れを汲んだものだそうだ。この八坂神社は「荒原神社」が合祀されている。
神社に掲げられた説明板によると
「八坂神社(祭神・素戔嗚尊)古文書など保管されているものは、見当たりませんが、わずかに保管されているものは、江戸中期の延享二年(1745)遷宮したとされる棟札があり、当時村社の荒原神社と合祀された。 古老の話では、その昔舟津の湖岸にあったが、度重なる水害のため、現在の宿集落の中央に遷宮されたといわれている。21軒屋敷で守護してきたが、重荷になり村の氏子に移管された。鳥居はこれまでに、何回か修理されたが、笠木を解体した時、文化2年(1805)の墨書が発見された。」とある。
参考までに中世この地を領していた「手賀氏」について少し述べておきましょう。
<手賀氏>:
手賀氏は玉造城主・玉造幹政の次男政家が手賀郷に住して手賀氏を名乗ったとされます。
菩提寺は養徳寺で、城は寺の奥の東側の山の中にあったという。
この寺に手賀氏の墓石がある。戦国末期の1591年2月に手賀高幹と弟は佐竹氏の招きに応じて常陸太田の城に向かった。その後の具体的な記録がないが、常陸太田城で二人とも殺されたと思われます。


(その6へ続く)
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