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常陸国風土記の世界<行方郡>(6)

⑨ 玉清の井

 「常陸風土記」で玉造の街の名の由来ともなったとも言われる湧水「玉清井(たまきよい)」に行ってみました。
「常陸風土記」の解釈に2通りがあり、日本武尊(ヤマトタケル)が東征して常陸の国にやってき来た時、「ここの清くわく泉で手を洗い、玉で井を清めた」という解釈と「水をすくおうとして、水中に曲玉(まがたま)を落としてしまった」という解釈があるといいます。

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ヤマトタケルが本当にいた人物かどうかは別にして、当時の書物にも書かれている場所でもあるのです。
ただ、この泉も江戸時代の旱魃のときに水を求めて昔の言い伝えによりこの地を掘って泉が出現したとされています。
現在はまわりの田圃の中に木がこんもりした場所が目に付き、すぐにわかります。
この池の中に日本武尊(ヤマトタケル)の像が置かれています。
まわりは皆、田圃で、そこに古い木の鳥居と新しい石の鳥居が立っています。
鳥居の横には大きな合歓(ねむ)の木があります。


⑩ 井上神社

 清玉井の北側に山側に少し上ったところ「井上神社」があります。
風土記の記載では「郡衙の西北に提賀の里がある」と書かれていますので、郡衙があったとおもわれる地域としてこの「井上」という地域が注目されています。
井上などという比較的よく使われる地名や苗字なのですが、ここはヤマトタケルの井戸(玉清井)のすぐ上にあるという意味から付けられた名前で昔から使われてきた名前だと思われます。

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霞ヶ浦の北岸を走る国道355号線の少し山側を走る旧道(183号線)を玉造から麻生の方に進み、西蓮寺への入口を少し進んだところに「井上」の信号がある。
ここから内陸側に少し坂を登って行くと道沿いに「井上神社」がある。
この井上神社は鬱蒼とした木々に覆われており、道路の反対側には広い駐車場も完備している。
鳥居をくぐると前に狛犬と拝殿が見えますが、その手前に相撲の土俵があります。
この神社では毎年、無病息災を祈願して奉納相撲が江戸時代頃から行われてきたようです。
今では毎年10月10日に相撲甚句などが披露され、地元の消防団や保育園児などによって相撲大会が行われているそうです。
神社の本殿が市の文化財に指定されています。
説明板には「祭神は、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)と鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)であったが、誉田別名命(ほむたわけのみこと)と倉稲魂命(うかのみたまのみこと)の2柱が合祀された。」と書かれています。

彦火火出見尊は「山幸彦」のことで、鸕鶿草葺不合尊はこの山幸彦と海の神「豊玉姫」の子供です。
共に九州の日向の神様です。
海洋神が多い銚子の方には有りましたが、この辺りの神社にはあまり祀られていない神様です。
誉田別名命は応神天皇のことで八幡神社の祭神です。
倉稲魂命は穀物の(女)神で伊勢神宮でも内宮の食糧倉庫などの御稲御倉(みしねのみくら)の神様です。
これは後から下河辺氏の八幡神社を持ってきたというので、二つの神社が一緒になったもののようです。
下河辺氏は佐竹氏のこの地方を制圧した時に麻生城に派遣されました。
元々は藤原秀郷の流れをくむ人物かもしれません。
この下河辺氏がやって来て八幡神社をここに合祀したのでしょう。
これにより元からの神社(日向神)は影が薄くなったのかもしれません。
八幡神社も古く、建保(けんぽう)元年(1213年)は鎌倉時代です。
恐らく合祀されたのは1600年より少し前の頃でしょうか。

この元々ある井上神社は「社伝では坂上田村麿呂が奥羽征伐の際戦勝を祈願したとされます。」と書かれていますが、これはこの辺りの多くの神社が同じ時期に田村麻呂に合わせて作られており、話も何処まで真実かはわかりません。
奥の深い神社だと思います。

 本殿の棟札には、「享禄2年(1529年)8月、地頭下河辺治親他郷士・・・」とあるといいますので、この本殿も侮れません。
また、この九州日向の神様というのがどのような意味を持つのか興味がわきます。


⑩ 井上長者館跡(郡衙跡?)

行方郡の郡衙がどのあたりにあったのかはわかっていませんが、この井上長者館があったとされる付近がもっとも可能性は高いかもしれません。

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この館跡の場所は1962年に撮影された航空写真から発見された場所でした。
標高は33m程で県道50号線の西側の畑地でした。
この付近は「長者郭」という小字地名が残っており、古代瓦が表採されていた場所でした。
1989年~1990年に市が発掘調査をしています。
出土物から8世紀から10世紀頃の居館跡と見られていますが、郡衙との関係などはわかっていません。

近くには西蓮寺などもあり、広い範囲に寺の領域もあったようですので、郡衙についてはまだまだ不明なところが多く残されています。

県道50号線を曾尼駅家の遺称地から、そのまま潮来方面に進むと、手賀のあたりを過ぎて右側に「西蓮寺参道入り口」と書かれた看板があります。
ここから参道が2㎞西蓮寺(さいれんじ)まで続いています。
このあたりは一面畑地が広がっています。
ここは住所も西蓮寺、そしてこの少し先が「井上」でその先が県道183号線と交差し、信号は「井上藤井」です。
信号すぐ隣に大きな施設「なめかた地域医療センター」があります。
この西蓮寺参道入り口と「井上藤井」信号までの区間の右側(西側)の畑の部分に、航空写真から大きな屋敷跡「井上長者館跡」が見つかった場所です。
古代の行方郡の郡衙はこの辺りではなかったかと思われます。



⑪ 国神(くにがみ)神社

 常陸国風土記の行方郡の鴨野の記述の少し後に、
「郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松(みる)、及塩(またしほ)を焼く藻生ふ。
凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。但、鯨鯢(くじら)の如きは、未だ曾て見聞かず。
郡の東に国社(くにつやしろ)あり。此を県(あがた)の祇(かみ)と号(なづ)く。
杜の中に寒泉(しみず)あり。大井と謂ふ。
郡に縁れる男女、会集(つど)ひて汲み飲めり。」とあります。

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この郡の東にあるという国社(くにつやしろ)といわれる「国神神社」が行方市行方1820にあります。
玉造の町の方から国道355号線で霞ケ浦に沿って南下し、左の山沿いの旧道と交わってすぐ、左手に行方郵便局があり、その先を左に入っていったところにあります。
私は県道50号線側からこちらに向かっていきましたが、距離的にはちょうど中間あたりでしょうか。
郵便局側(国道355側)から進むと、右側に「八王子神社」へ曲がる看板があります。
このところを反対の左手に少し入った少し先の右手の小山の上に鎮座しています。
神社へは作業用の道路のような横道に入り、神社入り口は反対側を向いていました。
比較的新しい社殿で、きれいに整備されて守られていました。
地元関係者が最近(平成19年)に再建、修理、整備をされたようです。
ここに祭られている神様は「大己貴神(おおなむち)」です。
出雲大社の神である大国主命と同一です。
日本の国造りを成し遂げた神様です。 


この風土記に記載の神社は「香島の神子の社」、「二つの神子の社」などと表現されている鹿島・香取神宮の子社などを「天神(あまつかみ)」と呼び、もともとその地にあった祇(かみ)を「県(あがた)の祇(かみ)」と区別しています。
他に行方郡には潮来市古高(ふったか)に国上神社があり、やはり大己貴神と少名彦名神が祀られています。
また、潮来市上戸にも国神神社があります。
神社としてはこの上戸の方が有名ですが、古高の国上神社から勧請したのではないかともいわれているようです。
国神神社、国上神社などが全国に数多くありますが、ほとんどが大国主命など、出雲大社とかかわりのある神様が祭られているようです。

この行方市行方の国神神社の場所の字名が「国神」で、このあたりの地区を「神田地区」と呼んでいるようです。
ここに来る手前の道路の反対側に「八王子神社」がありましたが、八王子は牛頭天皇の皇子(8人)を祀っているというようですが、天王崎なども近いのでどのように関係しているか興味を覚えます。
明治維新の廃仏稀釈で牛頭天皇を祀る「天王社」は皆、スサノオをまつる神社に替わってしまいました。

(その7へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/07 05:09
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