常陸国風土記の世界<行方郡>(7)
(3)小高・麻生地区(小高郷・麻生郷・香澄郷)

<常陸国風土記>
1)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふもの有りき。其の居める処為れば、因りて名づく。
2)南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、はらばひて来り臥せりき。・・・・「橋門阿弥陀堂」
3)北に香取の神子の社有り。・・・・「側鷹神社」
<行方四頭>
・小高城は水戸の吉田清幹の次男平忠幹が平安時代末期に行方に入り行方氏(行方二郎)を名乗った。
・1184年、忠幹の子供4人に土地を分与し小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏の行方四頭と呼ばれた。
・小高氏はこの行方四頭の長男であり、行方地方(小高・行方)の中心であった。
・1591年2月、佐竹氏の南方三十三館の仕置により、小高氏父子は常陸太田城(?)で殺害された。
・小高城は佐竹氏支配となり菩提寺は常光院。ここにあった小高氏の菩提寺皇徳寺は南に移転。
・城内から逃れた奥方と越元6人が福岡(古墳)の地で自害した。その場所に約100年後に戦った人々の霊を慰め、お互いの確執を除くため観音堂が建てられた。・・・「福岡観音堂」

⑫ 橋門阿弥陀堂(鯨岡)
常陸国風土記を読み進めていくと、クジラの話が何箇所かに出てきます。
この行方郡には2箇所に書かれています。
1) 郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松、及塩を焼く藻生ふ。
凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。但、鯨鯢の如きは、未だ曾て見聞かず。
さて、ここでは当時は霞ヶ浦も海水の流れ込む内海でしたが、いろいろな魚類がたがクジラは見なかったようです。
ただ、土浦などの貝塚ではクジラの骨が見つかっており食用にしていた時代も縄文時代頃はあったと思われます。
ここで、クジラという漢字は「鯨鯢」と書かれていますが、鯨は雄のクジラをいい、鯢は雌のクジラを指すようです。
2)男高の里あり。・・南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、葡匐(はらば)ひて来り臥せりき。
この男高(小高)の地に当時「鯨岡」という地名があったようですが、現在はありません。
そこで考えられる場所としてこの「橋門(はしかど)」地区にあるこんもりとした小山で上に「阿弥陀堂」が祭られている場所だろうとされています。
この橋門辺りの海岸に「太古の昔に鯨が浜にはいつくばって死んでしまったことからその名前になった」場所なのではないかといわれています。
国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、玉造を過ぎ、男高に近い旧麻生町に近い「橋門(はしかど)」という場所の国道沿いに小さな小山があり、その上に祠がおかれています。


案内版には「橋門の阿弥陀様」と書かれています。
この国道側から上に登る階段がありますが、上にある社の向きは右手を向いており、そこに手水舎らしきものもあります。
この右手側も広場となっていて、恐らくは昔はこちら側からお参りに上ったものだと思います。
阿弥陀様となっていますが、この社の中はいくつかの石の板碑などが置かれています。
この板碑に阿弥陀像が彫られているのかもわかりません。
この小山は古墳のようです。
祠の建設時に古墳がけずられ、恐らく国道建設時にも古墳の一部が削られているものと思われます。
鯨岡と言う名前は地名では残っていませんが、この場所の北東の近隣に「公事塚古墳群(くじつかこふんぐん)」という古墳群があったといいます。
しかし、そこは砂利採取場として崩されてしまったそうです。
この橋門(はしかど)地名を考えると、昔は入り江にでもなっていたかもしれません。
また、この地の直ぐとなりが「於下(おした)」と言う場所です。
ここでは於下貝塚があり、犬の骨がバラバラに見つかり話題にもなった場所のようです。
⑬ 側鷹神社(香取の神子の社)
「当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでいる。・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった」とあります。

「そばたか神社」というのは千葉県に多くあり、茨城県では少ないのですが、ここ社は香取神宮との関係も深く、千葉氏の守護として祀られる場合が多いようです。
祭神も昔ははっきりされず、今では側高神としています。
神社は旧小高小学校のすぐ南側にあります。
あまり車の多く通る道でもありませんが、道路沿いに鎮座しています。
鬱蒼とした木々が茂る一角にあります。
大きな鳥居と広い参道が奥の拝殿につながっています。
現地の説明板では「神代の昔、経津主命が東征のおり、この地に憩い天祖高皇産霊尊を祀り石槌剣を捧げて戦勝を記念したとの故事によって、その霊剣を御神体としてここに鎮祭したと伝えられている」と書かれています。
香取神宮に祀られているフツヌシが、霞ヶ浦(流れ海)を越えて、この地よりも東に向け軍を進めたのでしょうか。
行方市の鹿島神社と香取神社の数を調べてみると香取神社が多いのも意味があるのかもしれません。
境内にはかなりの年代を経たと思われる古木があります。
側鷹神社を東北の鬼門に祀っていたとしたら、一族の城、住居のあったと思われる場所がありました。
この神社から南西方向に「皇徳寺」という寺がありますが、その裏山に「皇徳寺古墳群」があるのです。
きっとこのあたりにこの側鷹神社を祀っていた部族が住んでいたのではないかと思われます。
これは考古学的な根拠もありませんので、あくまで推論です。
(その8へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら

<常陸国風土記>
1)郡の南七里に男高の里あり。古、佐伯、小高といふもの有りき。其の居める処為れば、因りて名づく。
2)南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、はらばひて来り臥せりき。・・・・「橋門阿弥陀堂」
3)北に香取の神子の社有り。・・・・「側鷹神社」
<行方四頭>
・小高城は水戸の吉田清幹の次男平忠幹が平安時代末期に行方に入り行方氏(行方二郎)を名乗った。
・1184年、忠幹の子供4人に土地を分与し小高氏、島崎氏、麻生氏、玉造氏の行方四頭と呼ばれた。
・小高氏はこの行方四頭の長男であり、行方地方(小高・行方)の中心であった。
・1591年2月、佐竹氏の南方三十三館の仕置により、小高氏父子は常陸太田城(?)で殺害された。
・小高城は佐竹氏支配となり菩提寺は常光院。ここにあった小高氏の菩提寺皇徳寺は南に移転。
・城内から逃れた奥方と越元6人が福岡(古墳)の地で自害した。その場所に約100年後に戦った人々の霊を慰め、お互いの確執を除くため観音堂が建てられた。・・・「福岡観音堂」

⑫ 橋門阿弥陀堂(鯨岡)
常陸国風土記を読み進めていくと、クジラの話が何箇所かに出てきます。
この行方郡には2箇所に書かれています。
1) 郡の西に津済(わたり)あり。謂はゆる行方の海なり。海松、及塩を焼く藻生ふ。
凡て、海に在る雑の魚は、載するに勝ふべからず。但、鯨鯢の如きは、未だ曾て見聞かず。
さて、ここでは当時は霞ヶ浦も海水の流れ込む内海でしたが、いろいろな魚類がたがクジラは見なかったようです。
ただ、土浦などの貝塚ではクジラの骨が見つかっており食用にしていた時代も縄文時代頃はあったと思われます。
ここで、クジラという漢字は「鯨鯢」と書かれていますが、鯨は雄のクジラをいい、鯢は雌のクジラを指すようです。
2)男高の里あり。・・南に鯨岡有り。上古之時、海鯨、葡匐(はらば)ひて来り臥せりき。
この男高(小高)の地に当時「鯨岡」という地名があったようですが、現在はありません。
そこで考えられる場所としてこの「橋門(はしかど)」地区にあるこんもりとした小山で上に「阿弥陀堂」が祭られている場所だろうとされています。
この橋門辺りの海岸に「太古の昔に鯨が浜にはいつくばって死んでしまったことからその名前になった」場所なのではないかといわれています。
国道355号線を石岡の方から霞ヶ浦に沿って南(東)下して、行方市に入り、玉造を過ぎ、男高に近い旧麻生町に近い「橋門(はしかど)」という場所の国道沿いに小さな小山があり、その上に祠がおかれています。


案内版には「橋門の阿弥陀様」と書かれています。
この国道側から上に登る階段がありますが、上にある社の向きは右手を向いており、そこに手水舎らしきものもあります。
この右手側も広場となっていて、恐らくは昔はこちら側からお参りに上ったものだと思います。
阿弥陀様となっていますが、この社の中はいくつかの石の板碑などが置かれています。
この板碑に阿弥陀像が彫られているのかもわかりません。
この小山は古墳のようです。
祠の建設時に古墳がけずられ、恐らく国道建設時にも古墳の一部が削られているものと思われます。
鯨岡と言う名前は地名では残っていませんが、この場所の北東の近隣に「公事塚古墳群(くじつかこふんぐん)」という古墳群があったといいます。
しかし、そこは砂利採取場として崩されてしまったそうです。
この橋門(はしかど)地名を考えると、昔は入り江にでもなっていたかもしれません。
また、この地の直ぐとなりが「於下(おした)」と言う場所です。
ここでは於下貝塚があり、犬の骨がバラバラに見つかり話題にもなった場所のようです。
⑬ 側鷹神社(香取の神子の社)
「当麻(たぎま)大夫の時代に池が作られ、それは今も道の東にある。池より西の山には、草木が繁り、猪や猿が多く住んでいる。・・・池の北には、香取の神を分祀した社がある。栗家(くりや)の池といひ、大きな栗の木があったことから、池の名となった」とあります。

「そばたか神社」というのは千葉県に多くあり、茨城県では少ないのですが、ここ社は香取神宮との関係も深く、千葉氏の守護として祀られる場合が多いようです。
祭神も昔ははっきりされず、今では側高神としています。
神社は旧小高小学校のすぐ南側にあります。
あまり車の多く通る道でもありませんが、道路沿いに鎮座しています。
鬱蒼とした木々が茂る一角にあります。
大きな鳥居と広い参道が奥の拝殿につながっています。
現地の説明板では「神代の昔、経津主命が東征のおり、この地に憩い天祖高皇産霊尊を祀り石槌剣を捧げて戦勝を記念したとの故事によって、その霊剣を御神体としてここに鎮祭したと伝えられている」と書かれています。
香取神宮に祀られているフツヌシが、霞ヶ浦(流れ海)を越えて、この地よりも東に向け軍を進めたのでしょうか。
行方市の鹿島神社と香取神社の数を調べてみると香取神社が多いのも意味があるのかもしれません。
境内にはかなりの年代を経たと思われる古木があります。
側鷹神社を東北の鬼門に祀っていたとしたら、一族の城、住居のあったと思われる場所がありました。
この神社から南西方向に「皇徳寺」という寺がありますが、その裏山に「皇徳寺古墳群」があるのです。
きっとこのあたりにこの側鷹神社を祀っていた部族が住んでいたのではないかと思われます。
これは考古学的な根拠もありませんので、あくまで推論です。
(その8へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
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