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常陸国風土記の世界<行方郡>(9)

(4)北浦・大生地区(大生郷・道田郷・藝都郷・逢鹿郷)

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まずこの地域については、風土記には「藝都の里」「田の里」「相鹿の里」「大生の里」と順番に北から並んでいるように書かれています。
そして、この地名についてもそのいわれが書かれており、ヤマトタケルの伝承話しとして書かれているか個所が多くあります。
伝承話ではありますが、この遺称地を訪ねてみるといろいろなことが見えてきます。
では、書物に書かれた順番に現地を探って見ましょう。

1)藝都(きつ)の里=うるわしの小野
 「この藝都(きつ)の里には昔、現地人の種族の寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)という男女2人を長とした種族がいた。
ヤマトタケルの天皇が来たときに、男の寸津毘古は天皇の言う事に従わなかったので一刀のもとに切り殺された。
これを見て女の寸津毘売は白旗を掲げて地べたにひれ伏して許しを願い天皇を奉った。
天皇はあわれんでこれを許し放免した。
すると寸津毘売は喜んで一族皆引き連れて(姉妹:男女問わず一族のこと)雨の日も風の日も、また朝から晩まで天皇に奉仕した。
ヤマトタケルの天皇はこれを喜び御恵みを与えられた。
このことからこの地を【うるわしの小野】というようになった。」と書かれています。


(注)ここではその地に元から住んでいた現地人を「佐伯」ではなく「国栖(くず)」と表現しています。
この国栖の表現は「山城国」と同じです。
年代や種族によって使い分けているのかもしれません。
この「藝都の里」の場所ですが、平安時代に書かれた倭名抄では行方郡の中に17箇所の郷名(提賀・小高・藝都・大生・當鹿・逢鹿・井上・高家・麻生・八代・香澄・荒原・道田・行方・曾禰・坂来(板来)・餘戸)が書かれており、ここの「藝都(きつ)」の場所だと思われます。

藝都郷 ⇒ 旧北浦町 小貫・長野江・三和・成田・次木(なみき)のあたりで、江戸時代の村名では小貫・次木・成田・帆津倉・金上・穴瀬・高田・長野江という地名がそれだといいます。
また、小抜野(をぬきの)はその同じ郷に中の「小貫」地区と見られています。
ここを「うるわしの小野」といわれているように書いてありますが、現在現地に行っても特に感じられるものはありません。

新編常陸の記述では「成田村の西の野に小沼あり、水湧出す、これを化蘇沼(けそぬま)と云う」と書かれているとあります。(角川地名大辞典)
この化蘇沼近くに「化蘇沼稲荷神社」が1478年に建立され、この地の住所は内宿町ですが、本来隣の成田町ともいわれ、この旧藝都郷の一角に入るとされ、この神社境内にこの寸津毘古(きつひこ)、寸津毘売(きつひめ)の像が置かれています。

以前にこの神社を訪れました時のことを紹介します。
神社参道の入り口に木の鳥居があり、その横に「茨城百景化蘇沼稲荷」の石碑があります。
鳥居から桜の並木が続く。桜の木もかなりの年数が経っている古木です。
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しばらく進むと赤い神社の建物が見えてくる。
祭神は倉稲魂命で、五穀豊穣の神様です。
創建は1478年で、大掾(だいじょう)氏が水戸城を江戸氏に奪われ石岡(常陸府中)に居を構えていた時です。
その大掾氏がこの地を治めていたようだ。
これは木崎城や香取神社でも出てきたが、甲斐の武田氏一族もこの地方にやってきたのは15世紀の初頭でした。

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稲荷神社なので狛犬ならぬ狐の像が置かれています。
稲荷神社ということで本殿、拝殿ともに柱などは全て赤ですが、たくさんの鳥居が並ぶようなものはありません。
でも敷地も建物もかなり厳かな雰囲気があります。
この神社の建物が行方市の有形文化財に登録されています。
また手前にある古木はモミの木で幹回り約4m、樹高約16m、樹齢は約360年といわれており、市の天然記念物に指定されているそうです。

この神社の裏手に立派な土俵がありました。
この稲荷神社は別名「関取稲荷」といわれるようで、昔から相撲が盛んだったようです。
特に天保年間(1830~1844年)にこの町出身の秀ノ山雷五郎(四代目秀ノ山親方)が生まれ、ここで奉納相撲をしたことで豊作を祈願する行事と合わさって盛んになったといいます。

今でも毎年夏に子供たちの相撲大会や巫女舞などが行なわれているといいます。

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この神社境内に「・この道やゆく人なしに秋のくれ」
という芭蕉の句碑が境内にあるという。写真は取り忘れたのでない。
この 「藝都郷」は江戸時代には俳人などもいて、結構賑わったらしい。
今では其の面影を感じることも殆んど無いが・・・・。
実は小林一茶が文化14年(1817)にここを訪れている。
一茶は小川の本間家で1泊し、そこからここまで4里を馬で送ってもらったという。
そしてこの近くの北浦湖畔で1泊し、対岸の札村にわたり、その後鹿島神宮を訪れ、潮来から舟で銚子へ向かっている。
一体何がここにあったのだろうかと前から気にしていたが、いろいろ調べていくと少し理由が見えてきた。

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「市報 行方」(行方市教育委員会生涯学習課)
洞海舎河野涼谷(本名:河野新之右衛門)は、水戸藩の支藩守山藩領の行方郡帆津倉(ほつくら)村に宝暦12年(1762年)に生まれました。 
その頃の関東各所、特に銚子から野田にかけての利根川沿岸では、利根川の水運を生かして醸造業が栄えており、利根川に続く常陸の北浦沿岸も同様でした。
生家河野家はその醸造業繁栄圏に位置しており、村の名主を務めながら醤油醸造業も営んでいました。
大店の主である涼谷は、芭蕉や親交のあった一茶のような職業俳人ではなく、俳諧を趣味として楽しんだいわゆる遊 俳であり、その仲間も句会や業俳との交流を楽しむ趣味人でありました。

 その中でも特に涼谷は、洞海舎社中をまとめながら、句会の開催、句集の編集と発行、江戸の業俳との交流会や接待を精力的に行う遊俳の一典型とも言えます。

 文化から天保期にかけての北浦湖岸の俳諧圏は、少なくとも四十村二百人の俳人を数えるほどに大きな俳諧圏を築いており、中でも洞海舎同人を中心とした帆津倉俳壇の活躍は地方稀(まれ)なる盛況と書き残されています。

 名月も昨日になりぬ峰の松

洞海舎河野涼谷は、多くの業俳と親交を持ちました。
小林一茶の旅日記「七番日記」には、文化十四年五月二十五日の条に「小川よリ四里、馬にて送らる、化蘇根(沼)いなり社有、李尺氏神と云。帆津倉(ほつくら)に泊。」とあり、
化蘇沼稲荷神社に詣でたり、北浦の涼谷宅に宿泊したリしたことが分かリます。

 涼谷は、他にも江戸や備前の業俳を招いては句会を催しました。
それは言うまでもなく利根川の水運と河岸(かし)の持つ経済力と業俳の持つ指導力と情報力がうまくかみ合ったからなのですが、遊俳の人々の進取の気風と江戸の文化への憧憬(どうけい)が大きな要因ではなかったかと思われます。

 化蘇沼稲荷神社境内には芭蕉の歌碑が二基あリ、いずれも洞海舎連中の建立によるものですが、涼谷と芭蕉の句が一つの石に彫られた歌碑は、芭蕉百六十五回忌、涼谷二十三回忌の安政五年に社中によって建立されたことがわかリます。

 裏には建立に当たった俳人の名が連ねられておリ、洞海舎の隆盛と共に句碑や奉納額が掲げられていた当時の化蘇沼稲荷神社が偲ばれます。
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という記事がありました。

俳人であり、また醤油業に進出して財を成した「洞海舎河野涼谷」という人物がここにいたからなのだとわかりました。

2)田の里と鹿島神宮の神馬

先日書いた行方郡の芸都(きつ)の里の後に、「其の(芸都の里)南に田の里あり。息長足日売(おきながたらひめ)の皇后の時、此の地に人あり、名を古都比古(こつひこ)と曰ふ。三度韓国(からくに)に遣されしかば、其の功労を重みして、田を賜ひき。因りて名づく。又、波須武(はずむ)の野有り。倭武の天皇(ヤマトタケル)、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づくる也。野の北の海辺に、香島の神子の社在り。土塉(つちや)せ、櫟(いちい)・柞(ははそ)・楡(にれ)・竹、一二生(お)ひたり。」と書かれています。「三度韓国(からくに)に遣されしか・・・」と書かれていますが、どうやら新羅・高麗・百済の三韓征伐のことを指しているようだが、この征伐として3回派遣されたというような話は無いという。そして功労により田を貰った。と云うのは税としての特権を与えられたということなのか?

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どうもこの辺りは訪れる機会が少なく、あまりイメージがわいて来ません。ただ、大生より北で芸都の里よりも南の地はどんなところなのでしょうか?霞ヶ浦の北浦沿いで、鹿行大橋の南側で、新しくできた北浦大橋の少し北側の地域です。田の里に比定される地域は、平安時代の倭名抄で「道田郷」といわれる地域だとされています。

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この道田郷については、角川の地名辞典によれば、「新編常陸」には江戸期の地名といて、新宮・小牧・籠田・天掛・杉平・板倉・四鹿の7村を当てているといいます。しかし、この「田の里」の東側に香島の神子の社があり、そこはすぐ海の近くだとなっていますので、このマークした鉾神社(高台台地に在り、中世には小牧氏?の城があった?)の下は現在蓮田が広がりますが、風土記の頃は水がこの下あたりまで来ていたのでしょう。
天掛や新宮などの北浦沿いは当時まだ水の中だったかもしれません。当時から続いている神社と云うことで、「鉾神社」に行って見ました。ただ、この鉾神社も車で近くまで行くのもよく道がわかりません。近くの「大和第一小学校」は2013年春に閉校となりました。

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学校の建屋は全く在りませんでした。すっかり平地となっていて、中にも入れないようになっていました。
この学校跡地の脇の道を北にそのまま進むと、遠くに神社の鳥居が見えました。
車も通れそうです。ただ、小学校入口からはこちらへは工事中で道がなく、
少し先に回り込んで狭い道ですが、近くまで来られそうです。
 
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少し長い参道を進んで、赤い鳥居の脇に昭和19年建立の「村社鉾神社」の石柱が置かれ、説明案内版が置かれていました。
ここでは「小牧(こまき)」地名に対して「こうまき」と読みをふっています。
この地域が鹿島神宮の馬の飼育地(牧)だったために「小牧=神牧」の意味だと書かれています。
祭礼も鹿島神宮から昔は禰宜等が年に何度もやって来て行っていたようです。
江戸時代から近くの村々の信仰がかなりあったようです。

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小さな社に納められたものが2つ。寛政年の銘が入っていました。

小牧の普門寺

 田の里にある(小牧)鉾神社のある台地の南側に普門寺(天台宗)というお寺があり、この神社の別当であるという。
寺へは下の道から回っていきました。

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寺の入口に「天台宗」の文字が。奥に寺の本堂が見えます。
寺の開祖の説明板によると大同元年(806年)に創建された「薬師堂」、「三光寺」が最初のようだ。
九州日向国(宮崎)の上人が建立したという。
普門寺と合併したのは大正末期のようだ。

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上の写真が薬師堂(鉾薬師。右の池から仏像を神鉾で救い上げて、それを祀ったと言う。
上りの石段は苔むしていて雨の日などは足元が危ない。ゆっくりと足を踏みしめて上へ。

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「鉾薬師如来」の扁額が掲げられている。
内部を隙間から覗くが内部が暗く、何が置かれているのかがよく見えないが、須弥壇中央に薬師如来とその左右に月光・日光像? まわりに十二神将像? 
そしてその手前に祝詞用の座布団と台?こんなところだろうか。
比較的雑然とおかれていた。
寺には市の文化財の仏像がたくさんある。
 
こちらの阿弥陀如来像は合併前の普門寺にあったものか?
鎌倉時代から室町時代後半という。 多分、寺の本堂に安置されているのだろう。
こちらの平安時代作の薬師如来像が、薬師堂の本尊。806年という年号とあっているかは不明。
薬師如来像が約1m弱、日光月光像は50cm弱。十二神将像も40cmくらいの像だ。
鉾薬師堂の裏手は竹林なっている。なかなか趣きのある寺である。
このような場所にひっそりと佇んでいるのはなにか勿体ない思いがしてしまった。

(その10へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら


常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/08 16:06
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