常陸国風土記の世界<行方郡>(11)
4)大生の里
「田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おおう)の里がある。
昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前(おかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。」とある。
この大生の里は現在の地名では行方市ではなく潮来市になります。
風土記では現在の潮来市も行方郡に属していました。
● 大生(おおう)神社
大生神社は元鹿島ともいわれる古社です。
常陸国一宮の鹿島神宮に元鹿島と言われる社があることをご存知だろうか。

場所は鹿島神宮とは北浦を挟んだ西側の少し高台になった潮来市の北端です。
長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。
大同元年(806年)創建とも言われるが、年代は明らかではありません。
祭神は鹿島神宮と同じ健御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)(武甕槌神)であるが、ここが元鹿島と言われるのは、タケミカズチが最初にこの地で祭られた場所と言い伝えられていることにあります。
そして、今の鹿島神宮に遷宮されたと伝えられているようです。
大和国の多(飯富)族がこの地に移住し、その氏神として祀ったのではないかと考えられています。

長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。
神社には天正8年(1590)の棟札が残されていて、鹿島神宮の神職を勤めている東家の文書に、この大生神社は南部大生邑(多村)から移されたとあるといいます。
この大和の神社は「多坐弥志理都比古神社」です。
そして、この大和の神社は多(おお)氏の太安麻呂の子孫が神主となって続いています。
本殿は県指定の文化財に指定されています。
この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばなりません。
これによると、タケカシマはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。
そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。
対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。
困ったタケカシマは、天岩戸の話よろしく、七日七夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いて楽しそうに踊りまくったのです。
最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきました。
するとどうでしょう。彼らの住居としていた穴を塞いで、そこに出てきた原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまったのです。
その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。
この地を制圧したタケカシマの一族(=多氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思われます。
そして、この神社にタケカシマを現地の神と融合した神=タケミカヅチ命が祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになったのかもしれません。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)と言われています。
元鹿島というには少し時代が後のような気がします。
この大生神社がもっと古くからある神社としても、では鹿島神宮の方が新しいということはありません。
元々鹿島神宮の森は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。
この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないかと思われます。
ですから最初は大生神社に祭られたタケミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。
鹿島神宮の神官であったとも言われる中臣氏と中臣鎌足(藤原釜足)とのつながりはあるはずですが、鎌足が常陸国で生まれたのか、大和国で生まれたのかは定かではありません。
奈良の御蓋山(みかさやま)に藤原氏の象徴として建てられた「春日大社」は鎌足の子「藤原不比等」が710年に建立しました。
この神社は常陸国中臣氏の祭神「タケミカヅチ」が白鹿に乗って山に降り立ったとされています。
この大生神社には「巫女舞」という祭りがあります。
13歳までの少女が毎年選ばれます。
また、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。
またこの古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。
● 大生(おおう)古墳群
潮来市の北部の大生神社周辺には「大生古墳群」と呼ばれるたくさんの古墳があります。
ここは大和朝廷のタケカシマの種族オフ氏(多氏・飯富氏)が集落を作って住んでいたと思われ、茨城県としては最大級の古墳群(約110基)です。
・「鹿見塚古墳」 前方後円墳 全長58.1m 茨城県指定史跡
大生神社に向かう途中にもあり、通りからも見えるのに前には気が付かずにいました。
それほど大きいものではありませんが、形は少し特徴的です。
古墳時代中期(5世紀頃)の築造とみられていますが、発掘調査はされていないようです。
古びた看板がありますがよく読めません。茨城県教育委員会の説明では
「大生地方は、古くはオフ氏の根拠としたところで、大生神社を中心に一大文化圏をなしていたと思われます。
この環境を背景として北浦に面する大生原台地には、110余基からなる古墳群が存在し、旧時の状態を良好にのこす古墳群として、また県下最大の規模を誇る古墳群として極めて貴重です。
この鹿見塚古墳は、大生西部古墳群内に存在する盟主的な片耳式前方後円墳です。
主軸は北西より東南に走り、全長約58m、前方部巾約32m、後円部直径約34m、同高さ約6mを有し、墳丘西側括部中央よりやや南に低い造出しを付設しています。
さらに後円部がとくに高く突き出していることで特異な墳形をしています。 」と書かれています。
この古墳の向きは鹿島神宮方向を向いているといわれています。

東南方向に向いています。
ここの大生古墳群は5世紀頃からのものだそうですので、ここに住んでいたオフ氏一族はタケカシマがやってきた時より100年以上後になるのでしょうか。
・子子舞塚古墳
「鹿見塚古墳」のすぐ西側に隣り合っている「子子舞塚古墳」がある。
石碑には「古墳子子前塚」と彫られている。
舞ではなく前となっている。
子子舞塚と漢字で書かれても知らない人にはこれも読めない。
「子子」で「まご=孫」と読みます。
では誰の孫なのでしょうか?
この古墳は前方部の一部を除いてほとんどが消滅してしまっている。
全長は71.5mくらいと考えられている。ここから 箱式石棺がでてきた
。中から人骨、玉類、耳環、直刀、鉄鏃、刀子などが出てきており、また埴輪類も見つかっている。
6世紀頃の築造と思われている。この出土品の玉、環類などは近くの水郷県民の森のビジターセンターで展示されている。
この県民の森のエリアにも古墳は点在しています。


● 文殊院(大生)
さて、大生神社の少し先に「文殊院」があります。
古ぼけたお堂が3つ並んで置かれています。左から阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂です。

立派なお堂が横に3つ並んでいます。
入口の石柱には「大生山 文殊院」と「天台宗 神宮寺」と左右に分かれて書かれています。
神宮寺というので、恐らく大生神社に付帯して後から建てられたものでしょう。
1698年の棟札があるので、江戸時代初期に建てられたものなのか、それとももっと前からあったのかは明らかではありません。
一般には、寺のこれらの建物は全体の中でバラバラに配置して置くのですが、このように隣接して並べておくのは珍しいです。
やはり多氏(おおし)と関係があるのでしょうか。
阿弥陀堂厨子には寛文5年(1665年)と書かれており、貴重なものです。
この阿弥陀様は、地元では「いぼ取り」の信仰があるそうです。
観音堂の中には毘沙門天・十一面観音・不動明王が祀られています。
安産・子育ての神様として信仰されています。
地蔵堂には小さな「地蔵菩薩像」が祀られています。
1. 妙光寺(潮来市築地)
築地は潮来市にあり大生の少し南側の地域で主要街道も通っていない場所だ。
麻生の一条寺を見学してこの寺の関係からこの場所を知った。
ここは実に不思議な場所だった。
また実に立派な寺であった。

潮来市教育委員会の説明板:
「本圀山妙光寺 この寺は文永2年(1265)、宗祖日蓮大聖人の直弟子、中老僧一乗阿闍梨日門上人の開祖、当時隣村の水原村に居住していた油井但馬守国光、横山遠江守勝光が鎌倉参勤の際、日門上人を招聘し一宇を創立したのが始まりである。
即ち本圀山妙光寺と号し、常陸国最初の日蓮宗の古刹である。
その後、正応3年(1290)中道院日正上人によって現在地に移転される。
往昔は朱印等があったが、記書焼失のため上地となるなど一時退転の形勢となりましたが、十六世日遙上人の時、代官矢野九郎右衛門、郡奉行萩原庄右衛門、芹澤伊賀守、三木五兵衛等の力により水戸藩から費用を仰いで九間二七間の客殿を建立した。
元禄12年(1699)十九世徳大院日具上人の時、徳川光圀公より費用を下附され四間四面の本堂を造営した。
堂内の日蓮大聖人の御尊像も同時に奉納され、また法華三昧堂の正面の額は光圀公自筆の書である。
二十世日孝上人の時、徳川綱條公より祈祷料として玄米五十俵を下附された。
現在の本堂は寛永年間(1624~1643)の再建にして、寺宝には日蓮聖人直筆の御本尊並びに御消息断片、日門上人直筆御本尊、徳川光圀の書簡、光圀拝領の蒔絵法衣箱・状箱・硯箱、紺紙金泥法華経開結十巻などがある。・・・・・・・・」説明によれば、この寺は日蓮宗の常陸国では一番古い寺だそうだ。
本堂から少し上ったところにある「法華三昧堂」があり、この堂の額は光圀直筆だとの説明があった。
何故このような場所に寺ができたのだろうか。
「築地」という地名にかかわっているような気がする。
2. 熱田神社(潮来市築地)
「妙光寺」から800mほど南の同じ築地地区に「熱田神社」がある。
地図を見ていると道路がこの場所に集中しているようだ。

現地の説明は、「日本武尊、東征の折当地に立ちより、東は鹿島、南向香取、西方遥かに筑波の霊峰を望み、北は北浦に接し展望絶景高燥の地なるを以って戦勝祈願を行ったという。
この地にあって尊の命に従い功のあった三十番神を褒め称えた。
村人はその跡を都恵地(築地)と称し祠ありしが、大同元年(806)社殿をつくり日本武尊を祭神とし三十番神を合祀、尊崇した
延宝3年(1673)水戸藩主・光圀公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。」と書かれています。
要点を書きだすと、
・ヤマトタケルがこの地でこの辺りに住んでいた部族を退けたので、戦勝を祝って戦功のあった三十の勇者を讃えた。
・そしてこの地の名前を「都恵地」と名付け、後に「築地」となった。
・水戸光圀(黄門)がヤマトタケルの戦勝記念の話を聞いて、草薙の剣が奉納されている熱田神宮と同じだと言うことで「熱田神社」と改名した。
このあたりで地元部族をやっつけたのは「建借間命」であり、この後に水戸から那珂川へと攻め込んでいる。
また、この神社の隣りは空地になっていますが、以前「津知第二小学校」がありました。
(その12へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
「田の里より南に相鹿(あふか)、大生(おおう)の里がある。
昔、倭武の天皇が、相鹿の丘前(おかざき)の宮に留まられたときに、膳炊屋舎(おほひどの)を浦辺に建てて、小舟を繋いで橋として御在所に通はれた。大炊(おほひ)から大生(おほふ)と名付けた。」とある。
この大生の里は現在の地名では行方市ではなく潮来市になります。
風土記では現在の潮来市も行方郡に属していました。
● 大生(おおう)神社
大生神社は元鹿島ともいわれる古社です。
常陸国一宮の鹿島神宮に元鹿島と言われる社があることをご存知だろうか。

場所は鹿島神宮とは北浦を挟んだ西側の少し高台になった潮来市の北端です。
長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。
大同元年(806年)創建とも言われるが、年代は明らかではありません。
祭神は鹿島神宮と同じ健御雷之男神(たけみかずちのおのかみ)(武甕槌神)であるが、ここが元鹿島と言われるのは、タケミカズチが最初にこの地で祭られた場所と言い伝えられていることにあります。
そして、今の鹿島神宮に遷宮されたと伝えられているようです。
大和国の多(飯富)族がこの地に移住し、その氏神として祀ったのではないかと考えられています。

長い参道沿いに樹木が茂りひっそりとした佇まいの神社です。
神社には天正8年(1590)の棟札が残されていて、鹿島神宮の神職を勤めている東家の文書に、この大生神社は南部大生邑(多村)から移されたとあるといいます。
この大和の神社は「多坐弥志理都比古神社」です。
そして、この大和の神社は多(おお)氏の太安麻呂の子孫が神主となって続いています。
本殿は県指定の文化財に指定されています。
この神社を理解するためには常陸国風土記の内容を少し紐解いておかねばなりません。
これによると、タケカシマはまず今の霞ヶ浦の南岸にある阿波(アバ)(大杉神社のあたり)に滞在し、流れ海(霞ヶ浦)の北側で暮らす人の煙を眺めていた。
そしてそれが敵(蝦夷人)か味方(大和人)かを探っていた。
そして、それが敵(蝦夷人)であることを知り、制圧のために流れ海(霞ヶ浦)を舟で軍を進めます。
対岸で、そこの住民を従わせようとしますが、その住民たちは素早く自分たちのすみかである穴などに潜り込んで出てこなくなります。
困ったタケカシマは、天岩戸の話よろしく、七日七夜の間、火を焚き・歌い踊り・笛を吹いて楽しそうに踊りまくったのです。
最初は穴ぐらに潜ってしまっていた地元の原住民たちは、その様子を伺いながら皆出てきて、その宴に参加してきました。
するとどうでしょう。彼らの住居としていた穴を塞いで、そこに出てきた原住民を皆捉えて、火を放ち皆殺しにしてしまったのです。
その原住民を痛く殺したために、この地が「伊多久(板来)」になり、今の潮来という名前になったというのです。
この地を制圧したタケカシマの一族(=多氏)はこの大生の地に自分たちの棲家を建て、自分たちの大和にあった氏神をこの地にも持ってきたのが、この大生神社の始まりではないかと思われます。
そして、この神社にタケカシマを現地の神と融合した神=タケミカヅチ命が祀られ、その後鹿島神宮に祀られるようになったのかもしれません。
でもこの神社の創建はこのあたりの古いたくさんの神社と同じ大同元年(806)と言われています。
元鹿島というには少し時代が後のような気がします。
この大生神社がもっと古くからある神社としても、では鹿島神宮の方が新しいということはありません。
元々鹿島神宮の森は原住民(蝦夷人)たちの神聖な神を祀る場所だったのではないでしょうか。
この地を制した大和朝廷の人々は、この地の住民を治めるのに、鹿島(香島)に強大な力を感じてここを原住民たちや自分たちの共存共栄をはかるシンボルとしたのではないかと思われます。
ですから最初は大生神社に祭られたタケミカヅチを鹿島神宮に移したのかもしれません。
鹿島神宮の神官であったとも言われる中臣氏と中臣鎌足(藤原釜足)とのつながりはあるはずですが、鎌足が常陸国で生まれたのか、大和国で生まれたのかは定かではありません。
奈良の御蓋山(みかさやま)に藤原氏の象徴として建てられた「春日大社」は鎌足の子「藤原不比等」が710年に建立しました。
この神社は常陸国中臣氏の祭神「タケミカヅチ」が白鹿に乗って山に降り立ったとされています。
この大生神社には「巫女舞」という祭りがあります。
13歳までの少女が毎年選ばれます。
また、この大生地区には5世紀頃の築造といわれる古墳がたくさん(百十余基)残されています。
この神社の西側に分布していて、県内でも屈指のものです。
またこの古墳の埋葬者は多氏一族であると言われています。
● 大生(おおう)古墳群
潮来市の北部の大生神社周辺には「大生古墳群」と呼ばれるたくさんの古墳があります。
ここは大和朝廷のタケカシマの種族オフ氏(多氏・飯富氏)が集落を作って住んでいたと思われ、茨城県としては最大級の古墳群(約110基)です。
・「鹿見塚古墳」 前方後円墳 全長58.1m 茨城県指定史跡
大生神社に向かう途中にもあり、通りからも見えるのに前には気が付かずにいました。
それほど大きいものではありませんが、形は少し特徴的です。
古墳時代中期(5世紀頃)の築造とみられていますが、発掘調査はされていないようです。
古びた看板がありますがよく読めません。茨城県教育委員会の説明では
「大生地方は、古くはオフ氏の根拠としたところで、大生神社を中心に一大文化圏をなしていたと思われます。
この環境を背景として北浦に面する大生原台地には、110余基からなる古墳群が存在し、旧時の状態を良好にのこす古墳群として、また県下最大の規模を誇る古墳群として極めて貴重です。
この鹿見塚古墳は、大生西部古墳群内に存在する盟主的な片耳式前方後円墳です。
主軸は北西より東南に走り、全長約58m、前方部巾約32m、後円部直径約34m、同高さ約6mを有し、墳丘西側括部中央よりやや南に低い造出しを付設しています。
さらに後円部がとくに高く突き出していることで特異な墳形をしています。 」と書かれています。
この古墳の向きは鹿島神宮方向を向いているといわれています。

東南方向に向いています。
ここの大生古墳群は5世紀頃からのものだそうですので、ここに住んでいたオフ氏一族はタケカシマがやってきた時より100年以上後になるのでしょうか。
・子子舞塚古墳
「鹿見塚古墳」のすぐ西側に隣り合っている「子子舞塚古墳」がある。
石碑には「古墳子子前塚」と彫られている。
舞ではなく前となっている。
子子舞塚と漢字で書かれても知らない人にはこれも読めない。
「子子」で「まご=孫」と読みます。
では誰の孫なのでしょうか?
この古墳は前方部の一部を除いてほとんどが消滅してしまっている。
全長は71.5mくらいと考えられている。ここから 箱式石棺がでてきた
。中から人骨、玉類、耳環、直刀、鉄鏃、刀子などが出てきており、また埴輪類も見つかっている。
6世紀頃の築造と思われている。この出土品の玉、環類などは近くの水郷県民の森のビジターセンターで展示されている。
この県民の森のエリアにも古墳は点在しています。


● 文殊院(大生)
さて、大生神社の少し先に「文殊院」があります。
古ぼけたお堂が3つ並んで置かれています。左から阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂です。

立派なお堂が横に3つ並んでいます。
入口の石柱には「大生山 文殊院」と「天台宗 神宮寺」と左右に分かれて書かれています。
神宮寺というので、恐らく大生神社に付帯して後から建てられたものでしょう。
1698年の棟札があるので、江戸時代初期に建てられたものなのか、それとももっと前からあったのかは明らかではありません。
一般には、寺のこれらの建物は全体の中でバラバラに配置して置くのですが、このように隣接して並べておくのは珍しいです。
やはり多氏(おおし)と関係があるのでしょうか。
阿弥陀堂厨子には寛文5年(1665年)と書かれており、貴重なものです。
この阿弥陀様は、地元では「いぼ取り」の信仰があるそうです。
観音堂の中には毘沙門天・十一面観音・不動明王が祀られています。
安産・子育ての神様として信仰されています。
地蔵堂には小さな「地蔵菩薩像」が祀られています。
1. 妙光寺(潮来市築地)
築地は潮来市にあり大生の少し南側の地域で主要街道も通っていない場所だ。
麻生の一条寺を見学してこの寺の関係からこの場所を知った。
ここは実に不思議な場所だった。
また実に立派な寺であった。

潮来市教育委員会の説明板:
「本圀山妙光寺 この寺は文永2年(1265)、宗祖日蓮大聖人の直弟子、中老僧一乗阿闍梨日門上人の開祖、当時隣村の水原村に居住していた油井但馬守国光、横山遠江守勝光が鎌倉参勤の際、日門上人を招聘し一宇を創立したのが始まりである。
即ち本圀山妙光寺と号し、常陸国最初の日蓮宗の古刹である。
その後、正応3年(1290)中道院日正上人によって現在地に移転される。
往昔は朱印等があったが、記書焼失のため上地となるなど一時退転の形勢となりましたが、十六世日遙上人の時、代官矢野九郎右衛門、郡奉行萩原庄右衛門、芹澤伊賀守、三木五兵衛等の力により水戸藩から費用を仰いで九間二七間の客殿を建立した。
元禄12年(1699)十九世徳大院日具上人の時、徳川光圀公より費用を下附され四間四面の本堂を造営した。
堂内の日蓮大聖人の御尊像も同時に奉納され、また法華三昧堂の正面の額は光圀公自筆の書である。
二十世日孝上人の時、徳川綱條公より祈祷料として玄米五十俵を下附された。
現在の本堂は寛永年間(1624~1643)の再建にして、寺宝には日蓮聖人直筆の御本尊並びに御消息断片、日門上人直筆御本尊、徳川光圀の書簡、光圀拝領の蒔絵法衣箱・状箱・硯箱、紺紙金泥法華経開結十巻などがある。・・・・・・・・」説明によれば、この寺は日蓮宗の常陸国では一番古い寺だそうだ。
本堂から少し上ったところにある「法華三昧堂」があり、この堂の額は光圀直筆だとの説明があった。
何故このような場所に寺ができたのだろうか。
「築地」という地名にかかわっているような気がする。
2. 熱田神社(潮来市築地)
「妙光寺」から800mほど南の同じ築地地区に「熱田神社」がある。
地図を見ていると道路がこの場所に集中しているようだ。

現地の説明は、「日本武尊、東征の折当地に立ちより、東は鹿島、南向香取、西方遥かに筑波の霊峰を望み、北は北浦に接し展望絶景高燥の地なるを以って戦勝祈願を行ったという。
この地にあって尊の命に従い功のあった三十番神を褒め称えた。
村人はその跡を都恵地(築地)と称し祠ありしが、大同元年(806)社殿をつくり日本武尊を祭神とし三十番神を合祀、尊崇した
延宝3年(1673)水戸藩主・光圀公巡視の折、由来を尋ねられ熱田神社の神号を賜る。」と書かれています。
要点を書きだすと、
・ヤマトタケルがこの地でこの辺りに住んでいた部族を退けたので、戦勝を祝って戦功のあった三十の勇者を讃えた。
・そしてこの地の名前を「都恵地」と名付け、後に「築地」となった。
・水戸光圀(黄門)がヤマトタケルの戦勝記念の話を聞いて、草薙の剣が奉納されている熱田神宮と同じだと言うことで「熱田神社」と改名した。
このあたりで地元部族をやっつけたのは「建借間命」であり、この後に水戸から那珂川へと攻め込んでいる。
また、この神社の隣りは空地になっていますが、以前「津知第二小学校」がありました。
(その12へ続く)
<行方郡>最初から ⇒ こちら
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