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常陸国風土記の世界<行方郡>(12)

(5)潮来地区(板来郷)

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●<板来の駅家(うまや)>

板来(潮来)の駅家(うまや)は府中(石岡)から鹿島への官道の途中に設置された陸路の駅だが、陸路は810年前後に廃止されたらしい。
荷物を運ぶのも馬より船に変っていったのだろう。
この板来の駅家がどこにあったかははっきりしていない。
現在潮来市街地にある「長勝寺」の境内にこの駅家(うま)跡の標識板が置かれている。

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ただ、廃止されたのも早く、実際の駅家のあった場所ははっきりしていないようだ。
当時もう少し東側にあったのではないかと推測している。
潮来の町の東側に「辻」という場所がある。
この辻は昔は「津知村」と言っており、南北に細長い地形に広がっている。
近くに「津=湊」があったことを感じさせる。
元々「辻」の言葉は、街道から津の方向に向かう分かれ道部分(津を知る)につけられ、それが「辻」に変わっていったと思う。

●<天王原古墳(潮来)>

 板来の駅家の碑が長勝寺境内置かれているが、もう少し東側で辻辺りではないかと書いた。
その根拠として「辻=津知」で津がこの近くにあったのだろうとしたが、もう一つの根拠がこの古墳の存在だ。
アヤメ園で賑わう前川沿いを少し上流に進んで辻(津知)の少し先にこんもりとした古墳がある。
ここは潮来の前川を廻る観光船がこのあたりで引き返す場所にあたる。
霞ケ浦の水運が発達していたころはこの前川も北浦から常陸利根川や利根川方面に荷物を運ぶ船でにぎわっていたのだろう。
こんな川沿いの街中に古墳があるのが不思議な気がした。
天王原古墳という前方後円墳だという。

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古墳周りには紫陽花の花がきれいに咲いていた。またこの近くには天王原遺跡(古墳時代から平安時代)が存在しているという。天王原という名前はどこから来るのか?
牛頭天王社でもこのあたりにあったのか?
前に潮来の祇園祭が行われている「素鵞熊野神社」を見学したときに現地の説明看板に次のように書かれていた。

「素鵞神社は天安2年(857~858)潮来町地先浪逆浦より出現。
 始め辻村天王原に奉祀す。
その後文治4年(1185)6月に至り潮来天王川岸地内に祠を営み遷し祀り板久牛頭天王と称し4丁目以西の鎮守となす。」

やはりこちらの方に昔はあったらしい。

●<大洲(大六天神社)>

 風土記の記載には「板来の南方の海中に洲がある。
(周囲)三四里あまりである。
春になると、香島・行方両郡の男女たちが残らずやってきて、津白貝(つのおう)をはじめさまざまの貝類を拾う。」
と書かれており、この場所は潮来市の「大洲」と呼ばれるところだとされている。

潮来の駅、アヤメ園の方から東に進み、県道50号に突き当たる辺りが大洲と呼ばれる地域だ。
この交差点の角に「大六天神社」がある。
この神社に置かれた碑により、この地の開拓と水害の記録が見えてきた。

潮来のアヤメ園から東側の地区は東日本大震災でも液状化でかなり道路も凸凹になり地盤の悪さが目立った。
霞ケ浦も昔はこの辺りは水面下であった。
利根川の東遷で大量の土砂などで大きな洲ができ、江戸時代にはこの地を開拓して水田が広がった。

神社の境内を入った右側にこの経緯が彫られた石碑が置かれている。

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「今より392年前天正5年北浦の浪逆寄洲に祖先が7軒居住し7軒島と称す。忍耐と努力を重ね新田を開拓し、水禍に嘆き苦しつつ郷土の基となる寛永18年330年前大洲新田として年貢を上納するに至り、天保15年常陸国大洲村戸数60戸となる。明治9年潮来町と合併し今日の潮来町大洲戸数84戸となる。・・・」(昭和47年建之)


何故か神社の歴史よりもこのようなことが書かれているとこの地の先祖の苦労が伝わってくる。境内には芭蕉の鹿島紀行の句碑があった。
「かりかけし 田面の鶴や さとの秋  はせを」 の碑 (明治9年建之)
(稲を刈りかけた田んぼで、鶴が餌をついばんでいる)
芭蕉は鹿島紀行でこの辺りを通ったのだろうか? 確かにこの句もこのあたりと考えられなくもない。
境内には庚申塔など幾つもの石碑が置かれている。

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大六天神社:この大六天は何時頃の創建かは定かではないそうだが、天保5年(1834)に再造営された棟札あり、それ以前であるという。
大六天(第六天)は仏教でいうところの仏道を妨げる魔王で、欲界を支配している最強の摩王です。
他化自在天ともいわれ、人の快楽を自由に自分の快楽にしてしまう力を持つと言われます。
織田信長が第六天魔王を自称したとも言われています。
天保の頃の祭神は素盞鳴命で、現在の祭神は「高御彦霊神」だそうです。どのように変わってきたかは不明。

この大六天神社は、千葉県香取郡山田町山倉の山倉大六天神社より分礼祀されたものと思われ、小泉地区の代神として祀っていたが、途中鹿島吉田神社の境内に移し数年後に現在地に移され、昭和46年潮来有料道路新設に伴い移転新築されたという。
大六天神社の拝殿の右側に「水神社」が置かれていいます。
寛文3年の創立と推定されています。

●<国上神社(古高村)>

 風土記では建借間(タケカシマ)命が潮来に上陸して、そこに暮らしていた賊どもを皆焼き殺してしまった。

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この時に「臨(ふつ)に斬る」といった所を「布都奈(ふつな)の村」と行ったとある場所が、この延方の西側の潮来市古高(ふったか)とみられています。
ここには「国上神社」があります。
産土神ですがここも祭神は「オオナムチ」、「スクナビコ」といった出雲神です。
道路よりも高い位置にあります。


●<麻績王(をみのみこ)のこと>

常陸国風土記の行方郡の後半に、気になる記述がある。麻績王のことである。
「新治の洲より南方十里(約5km)に板来の村あり。
近く海浜に臨みて、駅家を安置けり。此を板来の駅という。
その西、榎木の林がある。
飛鳥の浄見原の天皇の世(天武天皇と持統天皇2代)、麻続王(をみのみこ)を遣らひて居処らしめき。
其の海に、塩を焼く藻・海松(みる)・白貝(おふ)・辛螺(にし)・蛤(うむぎ)、多に生へり。」

ここには、この駅家の西に麻績王が派遣されて住んでいた。と書かれている。

麻績王は「麻続王」とか「麻續王」などとも書く。

1) 日本書紀の記述(天武天皇4年夏4月の条)では675年に罪があり、因播に流され、その子供2人が伊豆嶋と血鹿嶋に流されたとなっている。

(原文)
庚寅、詔諸國曰「自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類。亦、四月朔以後九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」
辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。
丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。

(現代語訳)
(夏四月)十七日、諸国に詔して、「今後、漁業や狩猸に従事する者は、檻や落とし穴、仕掛け槍などを造ってはならぬ。四月一日以後、九月三十日までは、隙間のせまい梁を設けて魚を獲ってはならぬ(稚魚の保護)。また牛、馬、犬、猿、鶏の肉を食べてはならぬ。それ以外は禁制に触れない。もし禁を犯した場合は処罰がある」と言われた。
十八日(675年5月17日)、三位麻続王(おみのおおきみ)に罪があって因幡(いなば)に流された。一子を伊豆島(いずのしま)に、一子を血鹿島(ちかのしま)(長崎の五島列島?)に流した。
二十三日、種々の才芸のある者を選んで禄物を賜わった。
この月、新羅の王子忠元(ちゅうげん)が難波(なにわ)に着いた。


このように、因播=因幡(いなば)=鳥取県で、伊豆嶋=伊豆島=伊豆のどこかの島で、血鹿嶋=値嘉島(ちかのしま)=(長崎の五島列島)と一般には解釈されています。値嘉島(ちかのしま)という島の名前はありませんが、昔の五島列島をそのように呼んでいたようです。さて、常陸国風土記の地から見ると、因播=印旛(いんば、いには)? とか 血鹿嶋=鹿嶋 ではないかなどとも考えてしまいます。

それにこの風土記は麻績王が、板来(潮来:いたこ、いたく)にやって来て住んでいたとなると日本書紀の一般的な解釈の場所と違いがありすぎます。風土記が書かれたのは、この麻績王が流されて50年ほど後の事であり、それほど年数も経っていないので、意外にこの記述は正しいのではないかとも思えます。
麻続王は貴族でその位が三位というのでかなり上の位になります。一位、二位などは全部で3人ほどしかいないようなので、上位4~5番目くらいになるし、朝廷の一族とも考えられます。一般的にはこの麻績氏は麻(を)を績(う)むということからの名前で、麻を細く裂いてより合わせて麻糸をつくることを職業とする集団と言われていますが、いわゆる「海人族」の共通の先祖としてあがめられているといいます。

2) 日本書紀の記述と違った記述が万葉集にあります。
 (2-1) 万葉集 第一 23番 読人不知(麻績王を哀れんで人々が詠んだ歌)
(原文)
 麻績王流於伊勢国伊良虞島之時人哀傷作歌
打麻乎 麻績王 白水郎有哉 
射等籠荷四間乃 珠藻苅麻須
(読み下し)
打麻を 麻績王 白水郎なれや 
  伊良虞の島の 珠藻刈ります
(意味)
麻績王が伊勢国の伊良虞島に流されたときを哀傷して作った歌(詠み人知らず)
麻績王は漁師(海人)であられるのか
 いいえ、漁師(海人)でもないのに伊良虞の島のよい藻を刈っておられる
(注)
伊良虞(いらご)の島:現在の渥美半島の伊良湖岬辺りではないかという。この時代は伊勢とも距離は近く、この辺りの島は伊勢国に属していたようです。伊賀国から行く古東海道も、伊賀から伊勢に行き、伊勢からは陸路より船で海路の方が一般的だったようです。ここでは確かに伊勢国となっていますが、「いらご」という名前は昔の潮来も古代には呼ばれていたらしく、この「いらご」が「いたこ」となったという説もあるようです。ただこの「いらご」の意味はよく判っていません。
地名では「砂」と書いて「いさご」と読むところは近くにもあります。これは「石子」が細かな石で「いさご=砂」となったといわれています。また砂鉄のことも「いさご」ともいうらしいです。その他に浜の真砂(まさご)などという言葉もありますね。でも「いらご」と「いさご」は明らかに違います。

(2-2) 万葉集にはこの詠み人知らずの麻績王を憐れんだ歌に対する麻績王の返答の歌も載っています。実際に会っての歌ではなく、人伝に聞いてそれに寄せた返歌のようです。
万葉集第1巻 24番 作者:麻績王
(原文)麻績王聞之感傷和歌
空蝉之 命乎惜美 浪爾所湿 
伊良虞能嶋之 玉藻苅食
(読み下し)
うつせみの 命惜しみ 浪にぬれ 
  伊良虞の島の 玉藻刈りをす
(意味)
 この世の命が惜しいので波に濡れて
伊良虞の草を刈って食べているのです

この万葉集には伊勢国の伊良虞島とはっきり書かれていますので、万葉集の編者は渥美半島あたりを伊良虞島と思って書いていると思います。
因播に流されたといいながら、罪を軽減されて、近くの伊良虞へ流されたなどとも考えることもできますが、常陸国風土記では潮来に来たといっているのですから、どちらが本当なのでしょうか。

ただ、潮来近辺を調べただけでは麻績王のいたと思われる地名などは見つかりません。
しかし、昔は舟で潮来からも近い下総国にはこの痕跡と思われる場所が存在します。
平安時代の倭名類聚抄(倭名称)に当時の郡名と郷名が書かれていますが、下総(しもふさ)国・海上(うなかみ)郡の中に15の郷名が書かれていますが、その一つに「麻續(をみ)郷」があるのです。
この場所は今の香取市小見川(旧小見川町)地域です。
Flood Maps地図で海面の高さを+5mして見ました。

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地図に示したように潮来からは昔の内海「香取の海」ではすぐ対岸になります。
ただ、5m海面が上昇するだけで、このあたりは殆んど水没してしまいます。
ただ、このように山側に入り込んだ内海の回りは獲物を取り暮らすにはとても良い環境だったのではないかと思われます。
現在、小見川駅方面から内陸のほうに進むと、あたり一面は水田が広がりその奥の山に府馬の大クスという古木があり、そこの公園の展望台からこの平野部が一望できます。

そこに書かれた説明にはこの平野部は「麻績千丈ヶ谷」と呼ばれているとありました。
また、この麻績郷の隣の山側の地域はとても貝塚の多いところで、古代は「編玉郷」と呼ばれていた地域です。
貝塚としては国の史跡でもある「阿玉台貝塚」「良文貝塚」などがあり、中世の千葉氏の祖とも言われた平良文が住んだ場所でもあります。
この編玉郷にある「豊玉姫神社」はその名の通り「海人」族の象徴とも言える豊玉姫が祀られており、江戸時代までは編玉郷の総社で「編玉総社大宮大明神」といったそうです。
まさにこのあたりには海人族がかなり前から移り住んでいたと思われます。
まあ、これだけではこれ以上の探求も難しそうですが、これからの展開もまたあるかもしれません。


(その13へ続く)

<行方郡>最初から ⇒ こちら

常陸国風土記の世界<行方郡> | コメント(0) | トラックバック(0) | 2023/07/10 05:36
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