常陸国風土記の世界<行方郡> 付録(1)
風土記記載の遺称地巡り記事はいったん終了し、少し追加の記事を何点か載せます。
まず最初は「行方郡」が成立したころからの地域の呼び名についてです。
風土記には孝徳天皇の白雉四年(653年)に、茨城郡から八里と那珂郡から七里を分けて、十五里(合計七百余戸)を行方郡とした。とされています。
これは大化の改新645年当時にはまだ行方郡はなく、その後に成立したということになりますが、もう少し理解が進むように調べてみました。
当時の里(さと)は50戸単位で1里としていました。
1戸はいわゆる家族単位で、同じ竈を共有している家族の集まりですから、大体3世代が一緒に暮らしていたならば1戸で約10人位いたと考えられますので、1里(さと)≒50戸≒500人程度となります。
これは風土記の記述でも15里≒700余戸と書かれていますのでほぼ一致します。
ただこの風土記には省略された箇所がないという「行方郡」もすべての十五里の名前は出てきません。
しかし、奈良時代初期には里(さと)と言っていた地域の単位は、次第に田畑を管理し、税収を正確に把握するという方向へ次第に変わっていったと思われます。
そして平安時代の930年代にまとめられた辞書である「倭名類聚抄(和名抄)」には、この「里」は「郷」という名称に変わっており、当時管理下にあった全国の郡名と郷名が記載されています。
これを比較することによってこの十五里を読み解くことが出来ます。
実際には和名抄の行方郡の郷名は15ではなく17あり、これは奈良から平安にかけて2つの里が分裂して4つになって全部で17となった経緯も見て取れます。
これを一覧表にしてみました。

まず最初は「行方郡」が成立したころからの地域の呼び名についてです。
風土記には孝徳天皇の白雉四年(653年)に、茨城郡から八里と那珂郡から七里を分けて、十五里(合計七百余戸)を行方郡とした。とされています。
これは大化の改新645年当時にはまだ行方郡はなく、その後に成立したということになりますが、もう少し理解が進むように調べてみました。
当時の里(さと)は50戸単位で1里としていました。
1戸はいわゆる家族単位で、同じ竈を共有している家族の集まりですから、大体3世代が一緒に暮らしていたならば1戸で約10人位いたと考えられますので、1里(さと)≒50戸≒500人程度となります。
これは風土記の記述でも15里≒700余戸と書かれていますのでほぼ一致します。
ただこの風土記には省略された箇所がないという「行方郡」もすべての十五里の名前は出てきません。
しかし、奈良時代初期には里(さと)と言っていた地域の単位は、次第に田畑を管理し、税収を正確に把握するという方向へ次第に変わっていったと思われます。
そして平安時代の930年代にまとめられた辞書である「倭名類聚抄(和名抄)」には、この「里」は「郷」という名称に変わっており、当時管理下にあった全国の郡名と郷名が記載されています。
これを比較することによってこの十五里を読み解くことが出来ます。
実際には和名抄の行方郡の郷名は15ではなく17あり、これは奈良から平安にかけて2つの里が分裂して4つになって全部で17となった経緯も見て取れます。
これを一覧表にしてみました。

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