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大矢橋(2)-佐竹義政の首塚

 本日2度目の投稿です。歴史ネタです。
 昨日、石岡・小美玉スマートインターチェンジを紹介したのですが、実はこのインターの場所がとても大事な場所だと最近気がついたのです。

インターを下りて石岡側に向かう信号の場所はすぐ近くを「園部川」が流れており、この川に架かる橋を「大矢橋」といいます。
そのために、ブログの題名を「大矢橋」としてこの紹介をしたいと思っています。

ここは鎌倉幕府が始まる前に、ある事件が起こったとても重要な場所です。日本の歴史にとっても、石岡の人にとっても大切にその歴史を残してほしい場所だと思います。
もう古い事件なので、あまり関心も持たれる方が少ないのですが、事件の概要は次のようなものです。

 源頼朝が伊豆で挙兵し、関東でのまず覇権をねらいます。千葉の上総介広常(平広常)などは平氏であったがすぐに頼朝の見方となります。
その頃常陸の国は佐竹氏が常陸太田の方面の奥七郡(多珂・久慈東・久慈西・佐都東・佐都西・那珂東・那珂西)を支配していました。
そして、頼朝は広常が「関東での覇権を先に握るべきだ」との話に従い、常陸国府(石岡)までやってきました。
そして、佐竹氏に対し、国府(石岡)に来て自分に従うように使者を出します。
佐竹氏はやはり源氏の直系(新羅三郎の直系、甲斐武田氏も同じ)ですが、当主(2代目)は京の都にいって平家にゴマをすっており、二人の息子が留守を守っていました。

弟の佐竹秀義は頼朝の帰順勧告に従わず、金砂山城にたてこもりますが、兄義政は当時頼朝の見方となっていた上総介広常(姻戚関係にあった)の勧めで、頼朝と会見するために国府(石岡)にやってきました。
広常の一行はこの大矢橋の手前にて、佐竹義政がやってくるのを待ちました。
この時にもこの大矢橋が常陸国府(府中)の入口だったのだと思います。
そこに義政が家人と部下を連れてやってきます。

橋を挟んで話し合うこととなり、まずは佐竹義政と上総介広常はお互いに1対1で話し合うために、橋の中央まで進みます。

そして、あっという間に広常は佐竹義政に切りつけ、殺してしまいました。いってみればだまし討ちです。

驚いた佐竹側の家来や家人たちです。主人が殺され、あわてて逃げ帰ってしまいました。
この様子は「吾妻鏡」に書かれています。
卑怯なだまし討ちでしたが、そのまま書かれているので割合と本当のことが書かれているようです。(吾妻鏡は源氏を美化して書かれた書物ですが・・・)

その後、弟の佐竹秀義は頼朝軍に攻められ、自然の堅城と言われた金砂山に立て篭もっていたが、どんどんと後ろに敗走してしまいました。そして、頼朝に帰順せざるを得なくなります。
これで関東での頼朝の覇権が成功して、いよいよ京の平氏へ攻め上がるようになるのです。

源氏の頼朝が関東での主導権を握った大事な出来事です。事件は治承4年(1180年)11月4日でした。
(だまし討ちでも、当時は結果OKなら悪いとは思っていないようです)

この源氏が関東での覇権を握るきっかけとなった、大切な大矢橋の場所が、スマートインターの目の前にあるのです。

何故かインターの記事や案内板にはこの大矢橋は出てきませんね。
ほとんど知らないし、石岡は何故か平氏・平氏としか言いません。
平国香の墓が市内「平福寺」にあると思っています。
本当か嘘かはわかりませんし、わからない事はそれ以上興味もありませんし、嘘かも知れない事を自慢はしません。

この大矢橋に関して話題になりませんね。鎌倉時代前の首塚など不気味ですから、興味もないのかもしれません。

satake01.jpg

写真の木の茂っているところが、佐竹義政の首塚。左側の橋が新しい(数年前建設の)大矢橋。

satake03.jpg

首塚と説明看板。これによると胴塚も近く(小美玉市)にありそうですが、場所がわかりません。

satake04.jpg

上の写真は3年ほど前の撮影で、新しい橋ができたばかりの時。向こうに見えるのが旧大矢橋です。
事件は830年も前ですので、当時の橋がどんなであったかはわかりません。
そんなに大きな橋ではなかったでしょう。
ただ、佐竹氏が府中にやってくるのに、こちらの笠間方面からやってきたのだけは確かですね。
前に紹介した道標の所へ出ます。当時はそんな道標は無かったので、棒杭(ぼっくい)でもあったのでしょうか。

satake02.jpg

旧国道355号線に数年間使われずに残されていた「旧大矢橋」は取り外し工事の最中でした。工事の若いお兄ちゃんが話しかけてきました。

「元の橋は取り外してしまうけど、もうすぐ脇に歩道ができるから、あそこの塚の所へは行きやすくなりますよ。地元の人が、あの首塚の周りの下草を刈ってくれているみたいだ。そういえばあそこでやられたのは弟さんだったかな? 胴塚も向こうの小美玉にあるようだよ。」

見に来る人も珍しいのでしょうね。興味深げに話しかけてくれました。
胴塚はどこにある? 地図などでは載っていないが・・・どなたか知っていますか?

(補足)
この記事も1週間以上寝かせてしまいました。他の話題が増えてしまい、UPするのが遅くなってしました。
現在は旧橋の撤去や歩道の整備も終わっているかもしれません。
佐竹氏がこの後、戦国時代にはこの常陸の国を統一しますが、この辺りを制していた平氏一族をことごとくだまし討ちでやっつけてしまうのですから、あまりだまし討ちが悪いとは言えないでしょうね。
家康に、秋田へ飛ばされてしまったのも、どこか信用されていなかったのかもしれませんね。
   

石岡市内 | コメント(8) | トラックバック(0) | 2011/06/19 15:50
コメント
No title
ROMAN様
頼朝さん房総に逃げ、石岡にまで進出していましたか!
この逸話歴史の授業で紹介されていれば、いいくに
つくろう、だけではなく興味もったことでしょう。

大河でもこのシーンはなかったですね。
手段を選ばぬ頼朝の性格を現す名場面になりそうなものですが。

佐竹氏も歴史に翻弄されましたが、明治には逆賊となることもなく貴族に列せられ、今の知事に
いたるのですからしぶといですね。

関が原後の改易に際し。美人は皆秋田に連れて行ったため、茨城には美人が少ないと自虐的に
語られてきましたっけ。
Re: No title
行徳様
日本史は苦手で昔から得意ではなかったのですが、身近な話題から
興味が出るように教えてくれたらもっと好きになっていたのでは?なんて。
石岡が歴史好きにしてくれたようなものです。
・東海道の終点の都市
・利根川は江戸時代に流れを変えさせた
・霞ケ浦は昔海だった
・縄文人は1万年も豊かに住んでいた
などの内容の方がおもしろいのですが・・・・。

秋田へ美人も連れて行ったなど、地元の人も言うのですか?
それより、佐竹氏が石岡市内では悪者、八郷地区ではそうでもない。
秋田では評判はいいですよ。
ハタハタも茨城からいなくなったとか、金が採れなくなったとか?
No title
ROMAN様
美人に関しては地元で自虐的言っているらしいというのを父や学校の先生方からちらほら、そのほか就職後職場の歴史好きの先輩から、松本、山梨、茨城と言うのを聞いたことがあります。曰く日本三大xx地帯と。最近は別嬪さんのタレントさんもTV出ていますので嬉しく思っています。

以前にも書いたかも知れませんが、泉町の実家で
井戸掘った際に、海貝の貝殻が大量に出ました。
石岡駅の辺りまで海で、実家の辺りんは貝塚だったのでしょう。
ガラミドウのん百年どころか、万年の単位でご先祖様達と触れ合える場所なのですね。

Re: No title
行徳様
ブログも毎回時間をかけて書いています。
少々疲れますが、まだ頑張れそうですのでやっていきましょう。
さて、美人がいるかいないかはさておき、行徳様の実家が泉町だとは聞いていませんでしたので
もちろん貝塚の話も始めてだと思います。
(もしかしたら聞いていたかもしれませんが香丸町とばかり思い込んでいた)

それにしてもこんな所まで貝塚だったのですね。
とても参考になりました。
縄文人の言葉はまだ良くはわかりませんが、地名など多くがかかわっているように思います。
きっと霞ケ浦周辺は海の幸も豊富で豊かに暮らせたように思います。

私がHPに1300年の歴史の里などとタイトルをつけたことを今頃後悔しています。
もっともっと昔からだったのだと・・・。
貝塚
ROMAN様
井戸掘った時に表土、赤土とともにこまかな砂利や
とにかく大量の貝が出てきて、敷地に蒔かれていました。
親の話だと、貝は縁起物とのことで随分の量を
職人さんが持って行ったそうですが、それでも
結構残っていましたね。中には小さな穴の開いた
貝もありました。首飾りとかだったのでしょうか。
安産不動産から常磐線まで下り坂ですが、その
手前は高台になっており、多分縄文の遺跡も
あるような気がします。ほどほどの高台で、回りに水源、水路があるのですから。環境、交通至便!?
Re: 貝塚
行徳様
まさに貝塚でしょうか。
すごいですね。
美浦村の陸平貝塚を見ましたが、びっしり貝殻が詰まっていました。
それを丁寧に区分けして調べていました。
こういう調査も大変ですね。
私には根気がないです。
考古学者にはなれそうもないです。
でも、あちこちから出土しても縁起物として処理したものが多いのですね。
そんなものがゴロゴロしている。
そしてガラミドウがあった。面白いですね。
興味深々です。
はじめまして!
はじめまして!佐竹義政公の首塚の存在は
初めて知りました。ぜひ訪ねてみたいと思います。
しゃけ 様
ようおこしくださいました。

> 佐竹義政公の首塚の存在は 初めて知りました。ぜひ訪ねてみたいと思います。

佐竹氏の歴史を調べておられるのですね。
ぜひ一度見に来てください。そしてその歴史の風を感じてください。
貴ブログの1ページを飾っていただけるかもしれませんね。
だいぶ前の記事ですが、ご訪問ありがとうございました。

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