小高のカヤ
行方市旧麻生町)小高に「小高のカヤ」と呼ばれる大きなカヤの木が残されています。
県の天然記念物に指定されており、樹齢は650年ほどだとされています。

この台地には昔小高小学校があったそうです。
この小高小学校は少し霞ケ浦寄りの側鷹神社に隣接する場所に移転し、2012年に麻生小学校に統合されて今はありません。
調べると、小高小学校の新校舎完成が昭和33年4月となっていましたので、この時にこのカヤの木がある場所から移転したのかもしれません。
ただ学校設立に対する記載が見つかりません。
2012年3月の最後の卒業式が65回目と書かれていましたので、昭和22年春の開校と言っていいのでしょう。
戦後間もない、昭和22年(1947)に急増する団塊世代の子供たちのために、この現在残されているカヤの木の場所に学校が建てられ、人口の増加に伴って、昭和33年に新校舎を建てて移転したのだと思います。
そして思い出のあるカヤの木を移転先の校庭にも新たに植樹して、校庭には芝生を植えたそうです。
今は逆に子供の人口が減り、学校は統廃合が進み、かなり少なくなりました。

さて、問題は下の説明看板にもありますが、この天然記念物のカヤの木があった場所には「天台宗神宮寺」があったと書かれています。
一般に神宮寺は神仏分離などがかなり昔から何度となく行われてきており、神仏習合であった神社などから寺を分離するために、神社境内などに作られた寺(別当寺)に付けられた名前です。
伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮などでも神宮寺(神社別当)が作られました。
でもこれらは明治の廃仏稀釈でほとんど残されているものは少ししかありません。
近くの鹿島神宮でも記録では749年に神宮寺(鹿島神宮寺)が建てられ、神宮境内にありましたが、江戸時代初期の1677年の神仏分離令で、境内から鹿島城跡に移され、明治3年(1870)に廃寺となってしまいました。
香取神宮でも別当として「金剛宝寺」が鹿島神宮寺と同じころに建てられたようですが、これも明治の廃仏稀釈で取り壊され廃寺となったといいます。
以前香取神宮に参拝し、裏手の奥宮近くに「祖霊社」という施設があり、神社に何故? などと思いましたが、この場所に「金剛宝寺があったようです。
この小高地区の神宮寺の記述を探してみましたが、ほとんど見つかりません。
ただ、平凡社の「茨城の地名」の行方郡小高村の記述の中に
享保七年(1722)熊野三社三山勧化御領内百姓並びに寺方よりの差出受数」に、皇徳寺(曹洞宗)100文、神宮寺(天台宗)100文、常光院(曹洞宗)150文とある。と書かれています。
このため、江戸時代中期頃までは少なくても存在していたであろうと考えられます。
恐らく明治初期の神仏分離令(廃仏稀釈)で消滅してしまったものと考えられますが、市の教育委員会などに問い合わせても確かな答えは得られませんでした。
少なくても関心を持っていればそのうちにひょいとしたところから情報が入るかもしれません。

県の天然記念物に指定されており、樹齢は650年ほどだとされています。

この台地には昔小高小学校があったそうです。
この小高小学校は少し霞ケ浦寄りの側鷹神社に隣接する場所に移転し、2012年に麻生小学校に統合されて今はありません。
調べると、小高小学校の新校舎完成が昭和33年4月となっていましたので、この時にこのカヤの木がある場所から移転したのかもしれません。
ただ学校設立に対する記載が見つかりません。
2012年3月の最後の卒業式が65回目と書かれていましたので、昭和22年春の開校と言っていいのでしょう。
戦後間もない、昭和22年(1947)に急増する団塊世代の子供たちのために、この現在残されているカヤの木の場所に学校が建てられ、人口の増加に伴って、昭和33年に新校舎を建てて移転したのだと思います。
そして思い出のあるカヤの木を移転先の校庭にも新たに植樹して、校庭には芝生を植えたそうです。
今は逆に子供の人口が減り、学校は統廃合が進み、かなり少なくなりました。

さて、問題は下の説明看板にもありますが、この天然記念物のカヤの木があった場所には「天台宗神宮寺」があったと書かれています。
一般に神宮寺は神仏分離などがかなり昔から何度となく行われてきており、神仏習合であった神社などから寺を分離するために、神社境内などに作られた寺(別当寺)に付けられた名前です。
伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮などでも神宮寺(神社別当)が作られました。
でもこれらは明治の廃仏稀釈でほとんど残されているものは少ししかありません。
近くの鹿島神宮でも記録では749年に神宮寺(鹿島神宮寺)が建てられ、神宮境内にありましたが、江戸時代初期の1677年の神仏分離令で、境内から鹿島城跡に移され、明治3年(1870)に廃寺となってしまいました。
香取神宮でも別当として「金剛宝寺」が鹿島神宮寺と同じころに建てられたようですが、これも明治の廃仏稀釈で取り壊され廃寺となったといいます。
以前香取神宮に参拝し、裏手の奥宮近くに「祖霊社」という施設があり、神社に何故? などと思いましたが、この場所に「金剛宝寺があったようです。
この小高地区の神宮寺の記述を探してみましたが、ほとんど見つかりません。
ただ、平凡社の「茨城の地名」の行方郡小高村の記述の中に
享保七年(1722)熊野三社三山勧化御領内百姓並びに寺方よりの差出受数」に、皇徳寺(曹洞宗)100文、神宮寺(天台宗)100文、常光院(曹洞宗)150文とある。と書かれています。
このため、江戸時代中期頃までは少なくても存在していたであろうと考えられます。
恐らく明治初期の神仏分離令(廃仏稀釈)で消滅してしまったものと考えられますが、市の教育委員会などに問い合わせても確かな答えは得られませんでした。
少なくても関心を持っていればそのうちにひょいとしたところから情報が入るかもしれません。

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